【 雨あがれば瑠璃色の街 】
◆2LnoVeLzqY




45 :No.13 雨あがれば瑠璃色の街 1/5 ◇2LnoVeLzqY:07/08/05 23:29:23 ID:RE6et5yE
 長い雨。もう何日目になるんだろう。
 今も窓の外からは、その単調な音が聞こえてくる。雨が地面を、他の何かを叩く音。
 さあさあさあ。ぴたぴたぴた。一定のリズム。時間の感覚を失う音だ。
 ぴたぴたぴた、ぴたぴたぴちょん。ふとそんな、少しだけ高い音がした。
 水滴が窓枠に当たった音だ。
 外の暗闇からのそんな音に、僕は顔をあげて窓を見た。パソコンのディスプレイから目を離したのは、とても久しぶりのような気さえする。
 窓の外は暗闇だった。真っ黒だ。広い通りから離れたマンションの五階には、街頭の光すら届かない。
 そして気がつけば、部屋の中さえ暗かった。そういえば、電気をつけていなかった。
 無意味な省エネぶりに呆れる。今日一日僕はディスプレイからの光だけで暮らしていたのだ。一人暮らしだと、それを咎める人間もいない。僕はこれまでの二年間で、それをじゅうぶん知っていた。
 横のベッドの枕元から、時計を手にとってディスプレイの光にかざす。
 二時だった。午前二時だ。大学三年の僕の夏休み初日は、パソコンの前で過ぎていた。
 けれどこの雨なら、どうせ外出なんてできやしない。もっとも晴れていたところで、外出なんかしないだろうけど。
 ふと、ぐう、とお腹が鳴った。
「……何か買ってくるか」
 聞く人のいないつぶやきは、外の暗闇に吸い込まれる。
 僕はパソコンをつけたまま立ち上がった。あちこちの関節が鳴った。最後に、パソコンの画面を一瞥して部屋を出た。念のためにカギを掛けた。どうせ盗むものなんかないだろうけど。
 僕だけが乗ったエレベーターの中が、やけに眩しく感じた。

 まだまだ雨は強かった。外に出た僕を、冷たい水が容赦なく打つ。もっとも目的地はマンションのすぐ隣だったから、濡れるのは大して気にならなかった。
 まばゆいばかりの光を放つコンビ二が、暗闇の中の僕を誘う。
 あの蛍光灯は、家庭用のそれの何倍も明るいらしい。その光がまるで誘蛾灯みたいに外の闇を照らしている。僕はそれに誘われるままに歩いていく。
 近づくと、コンビニのガラスの向こうに、立ち読みをする篠原の姿が見えた。
「よう」
 僕がそう声を掛けると、篠原も「よう」と返事をした。けれど眼鏡の奥の目は、ずっと紙面を見続けている。
 僕も篠原の横に立って、店員の目を気にしつつ適当に雑誌を手に取った。
 篠原は、僕と同じマンションで一人暮らしをしていた。学部は違うけれど、一年の頃に外国語の演習で隣の席になったことがあって、それで知り合ったのだった。
 コンビニの、ガラスの外にある闇は、さっきより暗さを増しているように見える。この明るすぎる蛍光灯のせいだろうか。
 雨だけは、さっきと変わらずに降り続いていた。けれどその静かな音は、店内にかかるどうでもいいラジオの音に半分消されている。
 しばらくの間、ラジオの音とページをめくる音だけが聞こえていた。
「……テスト、全部終わったのか?」

46 :No.13 雨あがれば瑠璃色の街 2/5 ◇2LnoVeLzqY:07/08/05 23:29:39 ID:RE6et5yE
 ふと、篠原が訊いてきた。いつも会話は篠原が切り出す。
「昨日で終わった。今日から夏休み」
 夏休み。小学校中学校、いや高校まではあんなに魅力的だったのに、今となってはもうどうでもいい言葉だ。
 そう思っていると、篠原も力なくつぶやいた。
「俺もだ。どうせやることなんてないけどな」
「就職とか、考えてる?」
「就職ね……」
 全く、考えてない。篠原の横顔はそう言いたげだ。僕もそれは、同じだったけれど。
 ラジオの音に混じって、かすかに雨の音が聞こえる。それを聞いてか聞かずか、篠原は小さな声で言う。
「……『一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた』。そんな感じだ」
「『雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方に暮れていた』の方が近いね」
「くは、確かにぴったりだ。さすが文学部は違う」
 篠原はそう言って笑った。僕は肩をすくめる。文学部は違う。どうだろう、と僕は思う。
 昨日までの一学期で受けていた授業を、僕は思い出してみる。宗教学、中国古代思想、平安文学、近世ドイツ史、言語学……確かに、何の現実の役に立たない意味では、他の学部とは違うのかもしれない。
「教育学部は何やってるの? 文学部よりはずっと役に立ちそうだけど」
 思わず「役に立ちそう」と口に出していた。そんな自分がおかしくて、僕はそう言った後ニヤついていた。教育学部だと、何となく、文学部よりは役立ちそうなことをやってる気がする。
 けれど、篠原は顔色一つ変えなかった。真顔のまま、ただ視線を雑誌の上に滑らせている。
 僕は少し気まずくなって、同じように手元の雑誌の上に目をやろうとした。すると篠原が、ぽつりと言った。
「何もやってねぇよ……ありえないほど何もやってねぇ」
 篠原はまたひとつページをめくった。何を読んでいるのかと思えば週刊誌だ。
 僕たちには関係のない、どうでもいい外の世界の記事が並ぶ中を、篠原の視線はうつろに泳いでいた。
「何もやってないのは僕だって同じだけどね」
 篠原はまたページをめくった。読んでいるのか読んでいないのかわからなかった。どんな記事が目の前にあっても、篠原はいっさい表情を変えずにいる。
「俺は」
 ふと篠原が手を止めた。そのページは海外旅行の一面広告。僕たちにとっては高すぎる値段が印刷されている。
 篠原は、ゆっくりと言葉を続けた。
「俺は、大学に入ればもうちょっとドラマチックな展開が待ってると思ってた。少なくとも大学に入りさえすれば、人生の街灯には次々に光がついて、俺をどっかに連れてってくれると思ってた」
 篠原は、手の届かないその値段を見てふっと笑った。僕は篠原の言葉を聞いて、自分の場合を考えてみた。そうかもしれない、と思った。
 僕も、篠原みたいに考えていた人間のひとりだ。
 大学に入ればなんとかなる。そう思ってた人間だ。けれど。篠原が、そのあとを続けた。

47 :No.13 雨あがれば瑠璃色の街 3/5 ◇2LnoVeLzqY:07/08/05 23:29:55 ID:RE6et5yE
「けれど違った。もしかしたらと丸二年思い続けたけど何も起きなかった。そして三年目に入って、もしかしたら明日何かが起きるかもと思い続けて今日になった。結果は見てのとおりだ。何も起きちゃいない。
 ……もう何でもいいんだよ。下人が羅生門の二階で見た松明の火の光だっていい。俺だってあんな光がほしい」
 さっきまでラジオに混じってかすかに聞こえていた雨の音も、もう聞こえない。コンビニのガラスの外にはただひたすらな闇がある。
 時おり車のヘッドライトが横切るけれど、すぐにその光も視界から消えて見えなくなる。
「ものすごく受動的だ」
「この世界に受動的じゃない奴がいたら教えてくれ」
 僕がそう言うと、篠原が皮肉っぽく答えた。
 二人とも、それっきり黙りこんでしまった。雑誌は一応手に持っていた。けれど僕は篠原の言葉について考えていたし、篠原自身も、僕と同じことを考えていたに違いなかった。
 光がほしい。篠原はそう言う。さながら篠原は、この雨の夜にずっと生きてるようなものなのだろう。まさにその通りだ、と思った。
 そして、もしかしたら僕も。
 だからコンビニの、こんな人工の光に、まるで夏の虫みたいに引き寄せられる。そして何かを求めてふらふら入り込む。
 けれどもちろんこんな光は、僕たちをどこへも導かないのだ。
 それどころか、近寄って来る人の心を殺しているのかもしれない。気づかぬうちに。本当に誘蛾灯みたいだ。そう思った。
 顔を上げて外を見た。また車が一台横切った。ヘッドライトが左から右にすっと流れた。それが消えると、また外はもとの暗闇に戻ってしまう。
 この人工の光の中からじゃ、外はただの暗闇にしか見えない。
 だから、僕たちは出なくちゃいけない。誘蛾灯から離れなくちゃいけない。けれどここから出たところで……暗闇のただ中に舞い戻るだけだ。
 光、ね。
 僕がそんなことを考えていると、篠原が突然、くすくすと笑い始めた。
 僕は思わず篠原の方を見た。
「……何かおかしな記事でもあったのか?」
 すると、篠原も僕の方を見た。久しぶりに、篠原の顔を正面から見た気がした。さっき僕がコンビニに入ってからというもの、篠原は一度も顔を上げなかったのだ。
 篠原は、まだかすかに笑いながら答えた。
「おかしな記事? いや無い無い。笑ったのはこの曲だよ。やたら皮肉っぽいなと思ってさ」
「曲?」
「ラジオだよ」
 店内のラジオ。篠原はそう言った。僕は耳をすませてみた。篠原を笑わせた曲の正体を、確かめてやろうと思った。
 雨の音は聞こえない。そして歌詞だけが、聞こえてくる。
 ――朝陽が水平線から光の矢を放ち
 ――二人を包んでゆくの瑠璃色の地球
「……『瑠璃色の地球』?」

48 :No.13 雨あがれば瑠璃色の街 4/5 ◇2LnoVeLzqY:07/08/05 23:30:10 ID:RE6et5yE
「そう。誰がリクエストしたんだか知らねぇけど、皮肉の塊だよ本当に。冒頭なんて『夜明けの来ない夜は無いさ』だぜ? 思わず笑っちまうね。
 それでも、俺だってこの曲は好きだったんだ。いや、今でも好きだ。むかし合唱でよく歌った曲なんだ。サビなんてめちゃくちゃキレイだろ? 場面が想像できる気がするんだよ。
 一面が芝生の、どこかなだらかな岬の上で、海を見ながら女の子と並んで座ってる。夜明けを待ってるんだ。横を見れば眼下には町が広がっているけど、まだまだみんな眠ってる。起きてるのは自分らだけなんだ。
 けれどやがて、水平線から空が白み始めてくる。鳥たちが起きだす。海の上には鳥たちの影が浮かび始めて、その向こうでは水平線がうっすら輝き始める。そうして光が差せば……あたりはきっと、瑠璃色に変わるはずなんだ」
 篠原が話し終える頃には曲も終わっていた。けれど僕たちの中ではまだその曲が流れている。
「俺も、そんな朝日を見てみたい」
 篠原がそうつぶやいたのが印象的だった。
 僕だってその曲は歌ったことがあった。だから僕も、その場面を想像してみる。想像できる。
 視界いっぱいに広がる大海原と、その向こうから昇る太陽。町を包み込む陽射し。その朝の光は、どんなに綺麗なんだろう。
 ……そうか、朝日か。
 部屋を出るときはどうでもいいと思っていた。だから僕は、今まですっかり忘れていたのだ。
 また雑誌に目を戻しかけた篠原に、僕は思わず言っていた。
「なら、見る? 朝日」
「……は?」
 篠原はきょとんとしていた。無理もなかった。こいつもさっきまで僕と同じように部屋にずっとこもって、ゲームでもしていたんだろう。
 あるいはまた古い小説でも読んでいたのかもしれない。いやそんなのどうだっていい。僕は続けた。
「思い出したんだ。この雨、夜明け前には上がるんだよ。ほら、もう雨の音聞こえないだろう。弱まってきた証拠だ。部屋を出るときにネットの天気予報で見た。間違いないよ。風が強いから雲はすぐ流れる。朝日は、昇るよ」
 篠原は眼鏡の奥の目を細めて、コンビニのガラスの外を凝視していた。けれど「この中からじゃ、雨の様子わかんねぇ。ってか、本当に雨、止むのかよ」とつぶやいた。
 そのとき、ずっと音楽をかけていたラジオが、ニュースを伝え始めた。
 ――台風の影響で降り続いていたこの雨も、夜半過ぎには止む見通しです。
 篠原は呆然と聞いている。僕は「ほらみろ」と言ってやりたくなった。
 すると篠原は、しばらくすると「この辺海ないし」とか「隣にいるの女の子じゃないし」とかぶつぶつつぶやき始めた。僕は笑ってしまった。
「突っ込みどころはそこなのか」
「だってよ……」
 篠原の頭の中には、あの想像の中の光景が渦巻いているに違いない。芝生に覆われた岬の上から夜明けの海を見下ろしている、そんな光景だ。それは僕とて、同じこと。
「屋上から見れば、もしかしたら街が瑠璃色に見えるかもしれない。コンクリートばっかりだけど……それだけでもじゅうぶんだ」
 僕がそう言うと、篠原はふっとため息をついた。
「今何時だ?」
「三時。あと二時間で夜が明ける」
「……長いな」

49 :No.13 雨あがれば瑠璃色の街 5/5 ◇2LnoVeLzqY:07/08/05 23:30:26 ID:RE6et5yE
 篠原は顔をしかめながら言った。僕は少しだけ不安になった。もしかしたら乗り気じゃないのかもしれない。
「長い?」
「ああ長いね……待ち遠しくて死にそうだよ」
 僕は、思わず笑った。篠原もつられて笑った。「真面目に朝日を見るのなんて何年ぶりだろう」とつぶやいていた。
「へえ、真面目に朝日を見たことあるんだ」
「ある。高校の修学旅行でみんな寝た後に、一人ホテルのベランダに夜明けまでいた。あんときの夜明けはめちゃくちゃキレイだった。ホテルの傍には湖があって、そこが朝もやの中にぼんやり浮かんでた」
「……瑠璃色だった?」
「瑠璃色だったさ。あのときはまだまだ、未来は明るいと思ってたんだ」
 そう言いながら篠原は雑誌を戻した。僕も雑誌を戻した。未来は明るい。僕だってそう思ってた。雑誌を戻すとお腹がぐう、と鳴って、そういえば食べ物を買いに来てたんだと思い出した。
 僕がパン売り場に行こうとすると、篠原がぽつりと言った。
「……『羅生門』の話をしてたのに、いきなり『瑠璃色の地球』なんて、マジでめちゃくちゃだ」
「いいんじゃない? めちゃくちゃでも。芥川はもうそれを歌えないけど僕たちは歌える。芥川はもう朝日を見れないけど僕たちは見れる。僕たちにはまだ未来がある。そういうことで」
「やっぱり、めちゃくちゃだ」
 レジにジャムパンを三つ持っていくと、店員は眠たそうな顔を隠すでもなく会計をした。
 横から篠原が「同じの三個食うのか」と訊いてきたから、「一個は今食べるぶん。一個は朝日を見ながら食べるぶん。一個はそのとき篠原にあげるぶん」と答えた。
「男とジャムパン食いながら見る朝日も、悪くない」
「僕もそう思う。何となくだけど、たぶん今日の街は瑠璃色になる気がする」
 店員から、袋に入ったジャムパン三つを受け取る。「屋上のカギ開いてたっけ?」と篠原が訊いてきたから、「閉まってたためしがない」と返しておいた。
 こんなに楽しみなのって、いつぶりだろう。篠原は、しきりにそうつぶやいていた。
 それは、僕も同じかもしれなかった。瑠璃色の街。僕はそれを、とてもとても見てみたい。
「俺はもうしばらく立ち読みしてくよ。どうせ部屋に戻ったって今からじゃ寝れない」
「はは、本当に修学旅行生みたいだ」
「かもな。だから朝日を見たら、あの頃の五十分の一ぐらいは、未来が明るいって思えるかもしれない」
 そう言って篠原は笑った。五十分の一。なら僕は、あの頃の四十九分の一ぐらいは、未来が明るいって思ってやろう。
「……そしたら、五時の十分前に屋上で」
「おう」
 コンビニのドアの前で、それだけ挨拶して僕と篠原は別れた。どうか綺麗に晴れてほしい。強く強く、そう思った。
 どうか綺麗な朝日が昇ればいい。光の矢を届けてくれればいい。街が瑠璃色に染まればいい。
 外に出ると、雨はすっかり上がっていた。



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