【 グラサン 】
◆D8MoDpzBRE




24 :No.08 グラサン 1/5 ◇D8MoDpzBRE:07/08/05 22:17:51 ID:RE6et5yE
 我が家にはテレビがない。アナログ放送がデジタルに切り替わるだとか言う社会情勢を反映しているわけで
も全然なく、十年以上前から設置していない。僕の嫁さんに至っては生まれてこの方自宅にテレビがあったこと
がないという。そんな調子では社会情勢から取り残されてしまわないかと余計な心配をなさる方もいるけれど、
僕はインターネットから常に情報を仕入れているし、嫁さんはラジオを聞いているから何の不都合もない。
 さすがに小学校に上がった二人の子供たちに対しては申し訳ない気持ちが芽生えなくもなかったのだが、何と
なく彼らもその辺の大人の事情を察知していてくれているらしく、携帯ゲームなどを買い与えておけばさしたる不
満もないようで日々それに没頭する毎日を送っており、僕にとって新たな頭痛の種となっている。長男は小学三
年生、長女は小学二年生。勉強は好きではないらしい。
 テレビがない代わりと言っては何だが、ウチのリビングの壁には子供たちを写した写真がたくさん飾ってあり、
それらを定期的に更新するのが僕たちの楽しみの一つだ。昔からカメラは好きだったのだが、今やすっかり写
真バカになってしまった。子煩悩なオタクだ。我が子のことのように鉄道を愛する人たちが鉄道写真を撮るなん
てことはよくある話だが、僕の場合は被写体がリアルに我が子であるから、その辺のこだわりに関しては特別
に許して欲しいものだと思う。
 嫁さんや僕を被写体とした写真はあまり撮らない。どうせ撮ったところで「ふうん、あまりお互い変わり映えしな
いものね」なんて嫁さんになじられるのがオチであり、僕とて今更変わり映えしてやろうと思うほどの気力も目的
も持ち合わせていないものだから、「君はいつまで経っても綺麗だよ」なんて適当に相づちを打っては嫁さんの
ご機嫌取りに回る羽目になって、何やら損をした気分になる。それはそれでいいのだが、まあお互い撮る必要
性をあまり感じていないのだから仕方がない。
 そんな嫁さんと出会ってから十数年が経つ。

 突然だけれど、僕の大学生時代の話をしよう。十数年前の話だ。唐突かと思われるかも知れないが、のろけ
話なんて大体そんなものである。
 当時僕が入学した大学のキャンパスに、風変わりな女の子がいると言うことで話題になった。いつもつばの付
いた帽子とサングラスをしていて、その他は普通の女の子と変わりがないという、どうにも奇天烈な格好をして
いるという。革新的なファッション旋風を巻き起こそうという運動かと思えばそうでもないらしい。いつも日陰を選
んでこそこそと歩いているような目立たない素振りでいるから、泥棒なんじゃないかと勘ぐる奴まで現れる始末
だった。
 ゼミでたまたま同じグループになったその子は、マミと自己紹介した。正確には早坂真美という名前だったの
だが、僕はその子のことをマミちゃんと呼ぶことに決めた。僕はテツ君と呼ばれた。
 別に何が破天荒というわけでもなく、少し大人しめで普通な子だった。眼鏡を取ったら意外と可愛いって子は

25 :No.08 グラサン 2/5 ◇D8MoDpzBRE:07/08/05 22:18:06 ID:RE6et5yE
たまにいるけれど、この子の場合もそれに当てはまるのだろうかなどという多少の興味をかき立てられた。サン
グラスをかけている理由を訊いてみたときには「目が悪いから」なんてトンチンカンな答えが返ってきたのだが、
いわゆる全盲の人がサングラスをかけているのとは違ってマミちゃんには物が見えており、だけれどもそれ以
上の理由を訊き出せるような雰囲気でもなかったから、何となくタモリ的発想なのだろうなとその場は思っておく
ことにした。
 普通な子だと言ってはみたけれど、どこか不思議な子だった。家にテレビがないためにドラマやバラエティの
話題にはついて行けないようだった。一方であまりにしつこくラジオを勧めてくるために、僕もその番組を聴くよ
うにしてみたところ、結果的に僕はマミちゃんに気に入られるようになった。悪い子じゃないと分かっていたし、
悪い気はしなかった。
 デートに誘ってみたのは、単なる好奇心からだけではない。生まれてこのかた片思いという形以外で恋愛らし
い恋愛を経験したことのない僕にとって、多少風変わりとはいえ僕のことを気に入ってくれていて、なおかつ結
構な頻度で顔を合わせる年頃の女の子という存在は貴重だった。早い話が好きになったのだ、マミちゃんのこ
とが。
「あんまり日差しの強いところは苦手だから、なるべく暗いところにしよう」
 季節は初夏。揺れる波打ち際とか一夏のビーチなんて雰囲気のデートは駄目だということなのだろう。何とな
く残念な気がした以上に、マミちゃんの体に何か良くないことが起こっているんじゃないかと心配になった。ただ
マミちゃん本人は、体のことは別に大丈夫だよと別段意識的にアピールするまでもなく快活であったから、その
ことに関して触れることは憚られた。
 映画館を選んだ。まだ僕の口から色々思いの丈を云々したりするほどの覚悟も据わっていなかったし、ここは
僕の気持ちを映画に代弁させてやろうというやや意地汚い発想もあった。だが、ストレートに恋愛映画を選んだ
らあまりに露骨に「好きです」というオーラを振りまいてしまうようで、その辺を誤魔化そうと思考が錯綜した結果、
ターミネーターUを選んでしまったのは苦い思い出だ。
 爆走する殺人兵器たちの熱い戦いを巨大スクリーンで鑑賞しながら、僕は時々横目でマミちゃんのことを追
いかけた。初めて帽子とサングラスを取った素顔を見た。こんな顔をしているんじゃないかという日々の妄想は、
いい意味で裏切られた。理想形を越えていた。こんなことを思う僕の脳味噌は完全にふやけ上がっていただろ
うが、遅ればせながら一目惚れをしたのだ。映画館で得られた唯一絶対の収穫だった。
「テツ君。私、おかしくなかった?」
 軽食を取りに立ち寄った喫茶店で、マミちゃんに訊かれた。向かい合わせの席に座ったマミちゃんは既にサ
ングラスと帽子を装着していた。映画鑑賞中、サングラスを取ったときの横顔に注がれる視線に気付いたから、
こんな質問をしたのだろう。即座に僕はかぶりを振った。

26 :No.08 グラサン 3/5 ◇D8MoDpzBRE:07/08/05 22:18:21 ID:RE6et5yE
「おかしくない、おかしくない」
「ホントはね、サングラスなんて大嫌いなの」
 僕は、その意味をどことなく悟った。

 喫茶店を出る頃には、街は夕焼けに染まっていた。ミカンの色素で作ったレンズから覗いた街の景色。サン
グラス越しには、どう映っているのだろう。
 当てもなく歩いて当てもなく過ごした。言葉少なに、でも、同じ空気を吸って同じ道を歩いて同じ時間を過ごし
たこの貴重な『今』を、僕はいつだって事細かに思い出すことが出来る。
 団地の向こう側に向かって飛び去るカラスの一群。彼らを追いかけた先には、紅い夕日が最後の炎を揺らめ
かせながら、山あいの彼方に沈もうとしていた。
 もうすぐ同じ景色を見られるんだな、と内心思った。
 街外れの峠道の途中に、市内を眺望できる高台がある。歩けば小一時間かかるその道を案内しようと決め
た。
「夜道は苦手」
 と言うマミちゃんの手を引いて、ゆっくり歩いた。もう帽子もサングラスも付けていなかった。
 宵闇の峠道は暗く、足下もおぼつかなかった。薄明るい照明灯、時折すれ違う車のヘッドライト、僕らを追い
越す車のテールランプが、辺りをほんのり明るく染めた。黒いカーテンの向こう側で、雑木林がざわめいていた。
「大丈夫?」
「歩くのは好きだよ」
 マミちゃんが笑った。
 ようやく、ようやくたどり着いた峠の高台は、僕らだけの物だった。夜景。言葉にしてしまえばこんなに簡単な
のに、この夜見た景色だけは特別な物のような気がして、もう握っている必要のないはずのマミちゃんの手を
引き寄せて、なるべく同じ角度から同じ景色を見ていたいと願った。輝く街を、空の上から二人で見下ろした、
そんな浮遊感にとらわれていた。
「――何も、見えないの」
 マミちゃんがポツリとつぶやいた。僕の両足は元の地面へと引き戻された。むしろ、突き落とされたと言っても
いい。目の具合が良くないのだろうとは薄々感じていたけれど、そこまで悪いとは思わなかった。
「ごめん、最初に言っておくべきだったね。私、夜空に星が見えたのも夜景が綺麗に見えたのも、小学校にいる
間までだったんだ。これからもだんだん見えなくなっていくんだって」
 そう言って、マミちゃんは僕の手をふりほどいた。

27 :No.08 グラサン 4/5 ◇D8MoDpzBRE:07/08/05 22:18:36 ID:RE6et5yE
 待って、の声が出ない。ゆっくりと、フラフラと、マミちゃんが僕から離れるように歩き始めた。
 馬鹿、危ないだろ、こっちに戻って来いよ、行くな、なんて言ったらいいんだろう、そういう言葉を全て吐き出せ
ずに呆然と突っ立っていたら、派手なクラクションの音に煽られてマミちゃんが転んだ。
 馬鹿は僕だ。大急ぎでマミちゃんの所へ駆け寄り、無理矢理担ぐようにして峠道の路肩から遠ざけた。
 気分は僕自身をタコ殴りにしなければ収まらないほどに昂揚していて、後から考えたらこういうのが自責の念
なんだろうと思うのだけれど、僕は奥歯を噛んで、ひたすら噛みしめた。血の味がした。
「テツ君、ごめんね。今日は本当に楽しかったよ。でもテツ君はこんな私じゃ嫌だよね」
「そんなことない、駄目なのは僕の方だ。マミちゃん、僕は――」
 言いたいことをありったけ探した。言葉は無力だ。僕がマミちゃんに対して抱いた気持ちは、ただの恋愛感情
ではなく、同情でもまして哀れみなんかでもなく、愛情と言っても何か違う。この中空に漂った気持ちを表現する
ために、僕はマミちゃんの肩を抱き寄せて言った。
「――マミちゃんのことが好きだ」
「……ありがとう、テツ君」
 結局のところ、言葉は無力だった。でも、便利な道具には違いない。僕の気持ちの核心だけを凝縮して、伝え
た。これからも山ほど伝えたいことがあるけれど、この場はこれで良かったはずだ。
 マミちゃんとキスをした。吐息が混じって熱くなって、少し照れくさい感じがした。
「僕はこれから、マミちゃんにとっての『光』になっていきたい」
 よせばいいのに、と今になって思うようなキザな台詞が口を突いて出た。帰り道、僕らはきつく手を握りあって
いた。マミちゃんは笑った。
「ううん、テツ君だけじゃない。私にとって周りのあらゆる物が『光』なんだと思う。例え見えなくなっても感じること
が出来る、そういう物を大切にしていきたいの」
 負けたな、と僕は思った。僕が思うよりもマミちゃんは数倍しっかりしていた。
「テツ君の顔、いつまで経っても忘れない。だからずっと私の傍にいて、ね」
「うん――」

 嫁さんの病気は網膜色素変性症なんて言う、何やら小難しい名前の病気で、暗いところで物が見えにくくなっ
たり段々視野が狭くなることで進行するということらしい。嫁さんの実のお母さんもその病気だったらしく、つまり
は遺伝病だ。今のところ子供たちのその兆候はなく、血が繋がっていれば必ず罹るというものでもない。
 病気の進行具合は人によりけりだけれども大概ゆっくりで、例えば十年くらい経ってようやく以前と比較して視
野の狭さが実感できる、という程度の物だとも聞いた。嫁さんが帽子を被ってサングラスをかけていたのは、強

28 :No.08 グラサン 5/5 ◇D8MoDpzBRE:07/08/05 22:18:50 ID:RE6et5yE
い日光を遮断することで少しでも進行を遅らせることが出来るからだそうだ。
 ただ、発症が幼少であればあるほど、いかに病気の進行がゆっくりだとはいえ、最終的に失明の危険性が高
くなる。小学生の頃には既に発症していた嫁さんの場合、割と猶予がないはずだが、今のところはまだしっかり
見えている。子供が大きくなるまで、という目標を立てて頑張っているのが幸いしているのかも知れない。
 そんな嫁さんのために、普段はサングラス越しにしか見えない風景を写真という形にしてあげることが僕の日
課の一つとなり、いつの間にか趣味に高じていた。
 のろけ話が、何やら難しい話になってしまった。
「あなた、まだなの?」
「パパ行くよー」
 階下から嫁さんと子供たちの声が聞こえてくる。昔のアルバムを整理しているうちについつい夢中になってし
まい、忘れていたようだ。今日は遊園地に連れて行くなんて約束をしていたな。
「はいはい」
 などと適当に返事をして、カメラだけは忘れないようにカバンの中に詰めて、おっと道中の写真も必要だな、
と思い直してカメラを再び取り出して、他には何も荷物がないからカバンを放り投げて階段を下った。
 玄関先では待ちくたびれた息子と娘が兄妹喧嘩を始めていた。必死でなだめる嫁さんをバックに一枚、パシャ
リ。
「あなた何撮ってるのよ、早く行きましょう」
 なんて抗議する嫁さんをもう一度、パシャリ。最近はオシャレな帽子やサングラスが増えてきた。
 ようやく満足することが出来た僕は車のキーを回しながら「喧嘩をする奴は連れて行かないぞ」などとお父さん
らしい一言を発したりなんかして、それだけでピタッと喧嘩が止むのだから子供は可愛い。
 助手席には嫁さん。自分で運転するのは恐ろしくて出来ないからと免許すら取ってない嫁さんも、助手席に座
るのは大好きだ。後部座席には二台のチャイルドシート。長男はこれが大嫌いだ。
 出発前にどうしても写真が撮りたくなった。後部座席でシートと格闘している息子、おすまし顔でちょこんと座っ
ている娘、そして助手席の嫁さん。一枚一枚、本当にいい表情を引き出すためだったら遊園地代だって惜しま
ない。
「今日はバカに写真を撮るのね。普段私のことなんてそんなに撮らないくせに」
 そんな僕を見て、嫁さんが笑いながら抗議する。僕はハハハとだけ笑って、車を発進させた。今日はどんな写
真にしようかな。久しぶりに嫁さんの写真もたくさん撮ろう。
 現像したときにかける言葉も、もう既に考えてある。
――君はいつまで経っても綺麗だよ。



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