【 月にスカート、乙女に恋 】
◆O8W1moEW.I




66 :時間外No.03 月にスカート、乙女に恋 1/5 ◇O8W1moEW.I:07/07/30 09:47:02 ID:4TqnL4zX
1. 平塚らいてうは言いました。
『元始、女性は実に太陽であった。しかし今は、他の光によって輝く月である』、と。
 その隠されてしまった太陽をもう一度取り戻そうではないかという、大正時代当時の女性解放運動のスローガン
のようなもので御座います。しかし、まだ良妻賢母やら大和撫子やらが大半だったこの時代、活発な女性という
のは世間からは冷ややかな目で見られる対象で御座いました。
 この如月家の姉妹で言うならば、姉の恵は月、妹の小梅は太陽、と言ったところでありましょうか。

                               ※

「あねさまあねさまァー!」
 恵嬢が台所で夕食の支度をしておりますと、女学校から帰ってきたと思しき小梅嬢の弾んだ声が聞こえて参りました。
元々おてんば娘の小梅嬢、しかし今日はなんだか一段と元気なご様子で。
(うふふ、もしかして今夜のおかずがコロッケだって感付いたのかしら)
 明治の末頃に母が亡くなり、それ以来恵嬢は如月家の母親代わりとして、女学校にも行かず家事を賄っておりました。
「姉様!」
「おかえりなさい小梅。今夜はコロッケで――」
 廊下をバタバタと走って一目散に厨房にやってきたおてんば娘。しかしそのおてんば娘、どうも朝家を出た時と
は様変わり。その変わり果てた妹の姿を見て、恵嬢思わず絶句、しまいには顔面蒼白になってしまう始末でありました。
「えへへ、クララ・ボウみたいでしょー」
 そう言って小梅嬢、その場でくるっとターン。しかし風になびいたのは昨日までの美しいロングの黒髪ではなく、
パーマネントでウェーブのかかった短髪。そう、まさにクララ・ボウ。先日二人で浅草に見に出かけた活動写真、
「イット」の主人公、当時一世を風靡していた女優クララ・ボウそのままの髪型に服装で御座いました。短髪に
純白のショートスカート、釣鐘型の帽子を被り、西洋の流行ファッションをそのまま取り入れたこうした婦人
を、当時はモダンガール、略してモガなんて呼んでおりまして。とは言っても今は大正がはじまってまだ五年と
少し。こうしたファッションはまだまだ一般的に受け入れられるものではなく、特に如月家のような位の高い士族
の娘のする格好としてはもっての他。家の名が汚れるとまで言われた時代で御座います。
「い……一体全体、どうなさってしまわれたのですか、その格好は……」
「へへー、可愛いでしょ。銀座で友達と買ったんだー。ついでに髪もばっさりやっちゃった。今度姉様もいっしょ
にどう? あたしなんかより全然似合うと思うんだよねェ、姉様くらい美人なら!」

67 :時間外No.03 月にスカート、乙女に恋 2/5 ◇O8W1moEW.I:07/07/30 09:47:25 ID:4TqnL4zX
2. 夏目漱石は小説「こころ」の中で言いました。
『精神的に向上心のないものは、馬鹿だ』、と。
 根っからの文学少女である恵嬢ももちろん当時のベストセラーであるこの作品を読んでおり、この台詞も深く彼女
の心に刻まれているのでありますが、しかし婦人にとっての向上心とはなんでありましょう。良き妻であること
を追及することなのか、それとも。

                              ※

 妻を亡くしてからと言うものの、どうもこの家の父君は娘に甘いようで御座います。普通なら「勘当だ!」な
どと言って家から追い出してもおかしくはないのですが、これ以上家族を失うなど真っ平御免なのでしょう、
「女学校に着て行かないのなら……」と、あっさり小梅のモガデビューを認められまして。
「ただし恵、お前は長女なんだし、小梅のような格好はしないように。鳴子さんにも示しがつかないからな」
「言われなくとも分かってますわ、お父様」
 鳴子さんと言うのは、将来如月家の婿になる、つまりは恵嬢の夫となる許婚のいる家でありまして。男児の生まれ
なかった如月家の存続のためには、女が嫁として家を出るわけには参らず、どこかの家の次男やら三男やらから婿を
取るしかありませんで。恵嬢は決して口には出しませんが、女学校に行き自由奔放に生きている妹に比べて、自分はな
んと退屈で、決められたままの生活をしているのだろうと、ふと考えてしまうことも御座います。しかしそこはしっかり
者の恵嬢。個人の一時の感情より、大事なのは如月家の長女としての振る舞いだと自分に言い聞かせるのでありまして。
「う〜、姉様もホントは着てみたいくせにぃ」
「着てみたくありません!」

 とは申しましても、恵嬢も決して時代遅れの服装をしているわけでは御座いません。袴は紫がかった暗赤色、つま
りは海老茶色で、髪は桃色のリボンで結んでおり、世に言うはいからさんというやつでありまして、この時代の十代
の女性のほとんどがそのような格好をしておりました。そんな服装のままで、父君も妹君もお出かけになった昼
下がりに、恵嬢は一人で物干し竿にかかった小梅嬢の洋服をじっと睨んで、なにやら考え事をしているご様子で。
(うーん……)
 あっちをキョロキョロ、こっちをキョロキョロ。誰も見ていないことをしかと確認し、慎重に洋服を手にとって
恵嬢。より美しくなりたい、より可愛らしくなりたいと願うのは、婦人の誰しもが持っている向上心でありまして。
「ま、まあ少しくらいなら着てみてもいいですわよね。家の中なら……」
 このことが恵嬢の人生を後々大きく転換させる出来事であるとは、もちろんまだ彼女は知る由も無いことで。

68 :時間外No.03 月にスカート、乙女に恋 3/5 ◇O8W1moEW.I:07/07/30 09:47:45 ID:4TqnL4zX
3.松井須磨子は歌いました。
『命短し恋せよ乙女』、と。
 この頃、叶わぬ恋に悲観した男女の心中事件などがしばしば新聞を賑わしておりまして、巷ではそういった題材
を扱った恋愛小説なども大うけにうけているそうで。ロマン主義の影響なんかも御座いまして、世間の若者の間で
はお見合い結婚より恋愛結婚と言った風潮。恵嬢もまた、そういった時代に生きた若者の一人なわけで。

                         ※

 服装の精神面に及ぼす影響というのは馬鹿にできないものがありまして、ましてやそれが和服と洋服なら尚更で御座
います。和服の構造上、足を大股開きにすることができずに自然としとやかな歩き方になるのに対し、洋服なら実に活発
で軽やかな歩行が可能であり、思わず歩みにつられて心まで弾んでしまうというもの。カフェーの女給にバスガール、
デパートの店員にタイピストに婦人記者のような活発な職業婦人のように、活発な心根が洋服を着させるのか、洋服が
活発な心根を芽生えさせるのか。少なくとも恵嬢に限っては後者だったようで、はじめは家の中だけで着るつもりだっ
たものが、着ているうちに予想外に気に入ってまいりまして、なんだか誰にでもいいから見せたい衝動に駆られ、勢いに
まかせて家の外にまで繰り出してしまわれたご様子。しかし恵嬢、なにやら重大な「あること」をご存じなかったようで。
(なんだかスースーして……変な感じ、ですわ。洋装をしているご婦人は皆、こんな思いをしてらっしゃるのでし
ょうか。生暖かい風が入ってきて、くすぐったい……)
 そうで御座います。この時代はまだ和服を着る時に下着をつけるという習慣は御座いませぬゆえ、普段洋服を着ない
方なら下着の存在さえご存知無いのも無理はない話。活動写真で洋服を着た婦人をいくら見慣れているとは言え、ク
ララ・ボウはスカートの中を見せてくれはしないわけで。つまりは今の恵嬢、この膝より少し短い白いスカートを
ひらりと捲りあげますと、それはもう乙女の秘密の花園としか形容しようのない、生まれたままのあられもない
姿をさらけ出すことになるわけで御座います。この時代、「変態」という言葉が一種の流行語のようになっており
まして、その言葉を借りるならば、恵嬢は端から見れば、本人にその気はないとしてもまさに変態的行為をしてい
ると思われても仕方の無い話で。
 三十分ほどしまして、下半身の違和感にも心なしか慣れてきた恵嬢。最初の頃はおそるおそる歩いていたのが、
今じゃ少し大股に歩いてみたり、軽く跳ねてみたり。そうしているうち、恵嬢は大通りの向こうに最愛の男性、安入
透太君がいるのを発見しまして。通りを急いで渡り、「透太さーん!」と大きな声で彼を呼ぶ恵嬢。しかし不幸なことに、
彼女の目前を猛スピードで飛ばしてくる車が通り、その車によって発生した瞬間的な強風は恵嬢に突如として襲いか
かりまして、スカートは重力を無視し一気にバッと音を立てて捲くりあがり。それを見た透太君の第一声は
「ヤァ、恵さん」でも「その服どうしたの? 可愛いね」でも無く、「へ、変態だァ!」で御座いました。

69 :時間外No.03 月にスカート、乙女に恋 4/5 ◇O8W1moEW.I:07/07/30 09:48:03 ID:4TqnL4zX
4. 与謝野晶子は言いました。
『君、死にたまふことなかれ』、と。

                             ※

(もう……もう死ぬしかありませんわ)
 恵嬢と透太君は、小学校時代からの顔見知りでありました。恵嬢はその頃から透太君に好意を抱いておりましたが、
いかんせんまだ幼い時分でありまして、思いを伝えることが出来ずに今に至っていたわけで。そのうちに恵嬢には
鳴子家との縁談の話が持ち上がりまして、恵嬢は家のためを思い、抑えきれない慕情を胸にしまって今はただの友人
として、彼との付き合いをしていたので御座います。しかし、やはりそれでも心から愛する人の目の前で自らの
あられもない下半身を数秒間にわたって露出し、しまいには公衆の面前で「変態だァ!」などと叫ばれた日には、
もううら若き乙女が生きていく気力など木っ端微塵に粉砕されて当然でありましょう。
 一目散に駆け出していく恵嬢。それを追う透太君。
「ま、待ってくれ、誤解だ! 捲れたスカートで顔が見えなくて、君だと分からなかった!」
必死に弁解しようと透太君。そんな声が耳に入っているのかいないのか、ただただ嗚咽を漏らしながら繁華街を
抜け、雑木林の中へ駆け込んでいく恵嬢。彼女の頭の中は、自己嫌悪や羞恥心、絶望、諦め、興奮その他もろ
もろの感情がせめぎ合い、一種の錯乱状態に陥っておりました。農家の家先に置かれていたロープを奪い取り、
どうやらそれを使って首をくくろうという算段の恵嬢。
「やめるんだ恵さん!」
「私、これでも士族の娘ですのよ。武士にとって恥をかくことは最も忌むべきこと。
 だから、さようなら、透太さん……」
「は、早まっちゃだめだ。僕はさっき何も見てない。よそ見をしていて……」
「そのようなことは鼻血を拭ってからおっしゃって下さいまし!」
透太君、言われて始めて鼻から溢れる一筋の赤い血に気が付いたようで、ハッと手を鼻に当てて。
「これは失敬……あっ!」
 ハンカチで血を悠長に拭いている間に、さっさと恵嬢はロープを首に巻きつけ、プラーンと垂れ下がっておりました。

 まあ結論から言えば、恵嬢が目を覚ました先に広がっていたのは三途の川でもなんでもなく、自宅の広い寝室だ
ったのでありまして。どうやら透太君、恵嬢をすぐさまロープから外し、すばやい応急処置を施したそうで、その
おかげか一命を取り留めたのでありました。

70 :時間外No.03 月にスカート、乙女に恋 5/5 ◇O8W1moEW.I:07/07/30 09:48:34 ID:4TqnL4zX
5.
「恵さん!」
「あねさまあねさまァー! よかったァ、気がついて!」
 意識を取り戻した恵嬢の目の前に、透太君と小梅嬢がおりました。
(私、死ねなかったんですのね……)
 恵嬢は死ねなかった悔しさと言うよりも、死の淵を彷徨った人間独特の感情といいますか、急にこれまでの自分
に纏わりついていたしがらみが、なんだかもの凄くどうでも良いものに感じてしまい、妙に心が澄んで生まれ変わっ
た心地で御座いました。恵嬢はなんだか無償に素直な気持ちになり、
「透太さん。今まで私、ずっとあなたに伝えなきゃいけないことがあったんです。許婚がいるとか、そんなこと
関係ありません。ずっと前か――」
と、恵嬢が乙女にとっての一世一代の大行事、愛の告白なんぞをやらかそうとしておりますと、恵嬢の言葉に
割って入って透太君。
「いやあ僕も伝えたいことがあるんだよ恵さん! 僕、知らなかったんだ。恵さんが真性の変態だったなんて!
あの時は本当に嬉しくて叫んじゃったよ。仲間だ、変態だァってね。実は僕も野外露出は趣味の一つでねェ。
でもあそこまで堂々と露出できるなんて、さては他にも色々と変態的な修羅場を潜り抜けているんだろうね。いやし
かしまさか僕と同じ性癖のご婦人がこんな身近にいるとは思わなんだ。変態同士、これからお互い上手くやって
いける気がしないかい? 好きだ、恵さん。僕と交際しよう!」
透太君、渾身の告白でありました。恵嬢、ぶわっと涙を流し、体を透太君に近づけていきまして。さては自分の告
白に答えて抱擁を求めているのだなと思った透太君。もちろんそんなことは御座いませんで、代わりに恵嬢の鉄
拳が飛んできたのでありますが。
「一人でやってろこのド変態野郎ォー!」

                         ※
「恵、お前……その格好は……」
「今日、小梅と銀座に行って買いましたの。私、如月家の長女として、この家を潰すような真似は絶対に致しません。
ですから、ですからもう少しだけ。これから出会う誰かと恋愛したり、自分のためにお洒落したりしてみたいのです」
高村光太郎は言いました。
『僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る』、と。
道の無いところを歩くのは実に困難なことで御座います。しかし、歩きついた先に見える景色は、決まった一本の道の
先に見えるそれより遥かに、それはそれは太陽のように燦燦と照り輝くものなのでありましょうや。



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