40 :No.10 ホロウ 1/5 ◇QIrxf/4SJM:07/07/29 23:12:56 ID:QuTm8YY/
「舐めていい?」背中越しに声がした。彼女はいつもそんな適当なことを言い、ぼくを翻弄しようとする。けれど、言葉の中には戯れではない部分も含まれていた。
ぼくは振り向かなかった。「寝かせてよ」
ベッドは、二人で同衾するには少し窮屈だ。ぼくらがもし小学生であったなら、同衾しても余裕があったろう。少しばかり成長しすぎた。
「ホワイトストライプスが聞きたいわ」
ぼくは舌打ちをした。「寝るんだ」
「ちょっと、こっち向いて」と言ってぼくの肩を引っ張った。
姉がぼくを見ている。いつも彼女は、その長い髪の毛をターバンのように巻いたタオルの中に隠して、ネグリジェを着てぼくの布団に入ってくる。二つ年上だからって、いつも上から目線でぼくに命令するくせに、寝る前だけは同じ高さでぼくを見ようとしている。
そして、ロクなことを言わない。
「正直、暑いんだ」とぼくは言った。
姉は歯を見せて、静かに笑った。
「いいじゃない。汗だくになったって」
ぼくがまた壁の方を向くと、姉は背中に抱きついてきた。そのふわりとした感触は、すこし震えていた。
「どうして?」
「寒いの」姉はぼくをきゅっと抱きしめる。「一人じゃ震えが止まらない」
クーラーも無い真夏の寝室。ぼくたちのタオルケットの中はサウナのように蒸れている。
彼女の震えが止まるまで、ぼくは眠らない。それが、今はただ一つ、してやれることだからだ。
ぼくらは学校をサボった。気がつけば既に十一時を回っていたし、休むことで三連休になるからだ。
「ねえ、遊びに行こうよ」と姉が言う。
「どこへ?」
「遠くへ」
ぼくはベッドを出て、服に着替えた。姉もベッドから出て、ネグリジェを脱ごうとする。
「ここで脱ぐな」
姉はぺろりと舌を出して、自室に戻っていった。
ぼくは、姉の作ったささやかな昼食を楽しんだ。
「昨日ね、また一人フっちゃったんだ」姉は食後のコーヒーを混ぜながら言った。「別に嫌いじゃないのにね。好きって言われるとだめなのよ」
「ぼくは好きなものを好きって言える」
41 :No.10 ホロウ 2/5 ◇QIrxf/4SJM:07/07/29 23:13:13 ID:QuTm8YY/
「本当?」
「林檎が好き。――ほらね」
「馬鹿」姉は歯を見せて笑った。
ぼくたちは家を出た。
あてもなく道を行き、商店街に入った。
外観は小さな頃から変わらないけれど、その輝きは確実に失われている。かつてぼくたちの好奇心を満たした迷宮は、今や閑古鳥が鳴く一本道でしかない。
「寂れたものね」と姉は言い、ぼくの手を握った。「小さな時はよかった。何も考えなくていいんだもの」
「今になって気付くことなんてたくさんあるよ」
姉とぼくの目線が、同じ高さにある。
「その八割は気付かなくてよかったものね。その方が幸せ」と姉は言った。「私がフった彼、今頃どうしてるかな」
「さあ」
「彼とは、普通に仲が良かったのよ。付き合ってるんじゃないかって疑う友達もいた」
ぼくは言い返さない。
「だけど、好きって言われるとだめだわ。言い返せないもの」
「だったらフって正解じゃないか。もてる女は辛いもんだね」
「馬鹿、あんたもでしょ」姉に小突かれた。
「さっぱりだよ」ぼくは肩を竦めて見せた。「このままじゃ四十になっても結婚出来そうにないな」
姉は満足そうな顔をして笑いながらぼくの背中を叩いた。
「いいじゃない。こんなに可愛いお姉ちゃんがいるのよ?」
ぼくは鼻で笑ってやった。「馬鹿だけどね」
商店街を抜けて、小さな映画館へやってきた。短編映画を上映しているミニシアターである。
ぼくたちは千円の入場料を払い、素人の作ったつまらない映画を見た。
ヤマもオチもなくてとても退屈な物語だったけれど、スクリーンを通せばそれなりに見える。
二十席も無い小さな映画館で、二人だけがぽつんと座っている。
姉はぼくの肩に顔を乗せて、目をつむっていた。
42 :No.10 ホロウ 3/5 ◇QIrxf/4SJM:07/07/29 23:13:29 ID:QuTm8YY/
その夜は花火大会だった。
地区住民がお金を出し合って開催する、ささやかなものだ。小学校の屋上が解放され、そこから見ることができる。
ぼくたちは一旦家に戻ってシャワーを浴び、ジュースを飲んで喉を潤した。
「ちょっと来て」
姉は二階の寝室までぼくの手を引っ張った。
ぼくは窓を開けて、屋根に上った。姉に手を貸してやる。
屋根瓦をそっと踏んで、一番高いところに腰を下ろした。
月は丁度、花火の上がる方向とは反対に出ている。満月が半分だけ雲に隠れていた。
「ここからなら、よく見えるわね」
「小学校まで行かなくていいの?」
「いいの。特等席だもん」
「飲み物と蚊取り線香持ってくるよ」
「いらない」姉は立ち上がろうとするぼくの袖を掴んだ。「汗だくになったっていいじゃない」
「蚊に刺されたらどうする?」
「舐めて治してあげるわよ」
「また適当なことを」ぼくは肩を竦めた。
合図に一発、大きな空砲が鳴った。
「はじまるわ」
大きな花火が上がった。
光の粒が夜空の上にはじけて、消えていく。その数秒後に、爆音が体を叩く。
「わあ、大きい」と姉は手を叩いて言った。
夜なのに、とても暑かった。背中に服がくっついて気持ち悪い。
歪な猫の顔をした花火が消え、星型の花火が現れる。噴水のような花火もあった。
不発かと思わせておいて色とりどりに弾ける花火は、ぼくと姉に賞賛の言葉をこぼさせる。
43 :No.10 ホロウ 4/5 ◇QIrxf/4SJM:07/07/29 23:13:44 ID:QuTm8YY/
流れるように一時間が過ぎていった。
少しの静寂の後、とても高く上っていく光の軌跡があった。
「あれ、きっと大きいわよ」と姉は言った。「きっと、最後の一発ね」
期待させるだけの高さがあった。顔を真上に向けても足りないくらいだ。
無音で弾けたそれは、視界を光の粒でいっぱいにした。弾ける音も、いままでで一番大きい。光の粒それぞれが眩しい橙色の線をつくって垂れ落ちていく。まるで、星が落ちてくるようだ。
「すごいわ!」
ぼくも思わず拍手を贈った。
ゆっくりと光が消え、夜空が静寂に戻った。
「花火、終わっちゃったね」
「また来年」
姉が肩を寄せてくる。
「来年もまた、ここで見れるといいなあ」
「どうして?」
「だって、変わらなかったってことになるじゃない」
「来年は、ぼくがすごくモテ始めるかもしれないよ。バレンタインでお腹壊すかもね」
姉が人差し指でぼくの額を突く。
「馬鹿」
姉が歯を見せて笑ったので、ぼくも笑った。まだ、夜空には花火がきらきらと光っているような気がする。
今はきっと、花火を見終えた恋人たちが、細い夜道をゆっくりと帰っているところだろう。その中には、ぼくの知り合いもいるかもしれないし、姉がフった男もいるかもしれない。
「また汗だくになっちゃったな」とぼくは言った。
「一緒にお風呂入る?」
ぼくが小突いてやると、姉は舌を出して片目を瞬いた。
屋根から戻り、シャワーを浴びなおした。母親の作った夕飯を食べて、ドラマを見る。
姉はお茶を啜りながら、ドラマに対して文句を言っていた。ぼくもおおむね姉と同じ感想を抱いたが、いちいち口に出して言うほどではない。
眠たくなってきたので、自室に戻り寝巻きに着替える。
まだ十時にもなっていないけれど、ぼくはベッドに横になった。
耳をすませていると、階段を上る足音が聞こえる。軽そうな足音は、きっと姉のものだ。
44 :No.10 ホロウ 5/5 ◇QIrxf/4SJM:07/07/29 23:14:00 ID:QuTm8YY/
ぼくは目を瞑った。
ドライヤーの音がする。姉が隣の部屋で髪の毛を乾かしているのだろう。
音が気になって、眠ることができなかった。化粧台の前に座った姉を想像する。きっと、いつものネグリジェを着ているだろう。
ドライヤーの音が止んだ。
しばらく無音が続いた。どれほどの時間だったのか、確かなことはわからない。そう長くはなかった。
やがて、単調な足音が、ぼくの部屋に近づいてきて止まった。
キィと音がしてから、足音が数歩分あり、ベッドに別の重みが加わった。
タオルケットを引っ張られる。
今やぼくの真後ろには、姉が横になっている。息遣いが分かった。
「起きてる?」と姉は小声で言った。「花火すごかったね」
ぼくは黙って頷いた。
姉が体を近づけてきた。ぼくの袖を掴んで、胸を背中に押し付けるようにしてくる。震えているのが分かった。
「私にフられた彼は、花火を見たのかな」
「一緒に行きたかった?」
「まさか」
ぼくは姉と向かい合った。目の前にある、その潤んだ唇を見つめる。やわらかな胸に触れた。
「どうして下着を着けないの? 寒くて震えているのなら――」
「痒くなっちゃうんだもの。それに、こっちのほうが好きでしょ?」
「馬鹿」こつん、と額同士をくっつける。
「私、こんなことばかり言ってるわね」
「全くだよ」
「こんなお姉ちゃんは嫌い?」
姉はロクなことを言わない。それは知っている。彼女なりの涙の流し方があることも知っている。
「大好きだよ」とぼくは言った。
今日ぐらいは、拭ってやってもいいと思ったのだ。本心なのだから。
「――馬鹿」姉の震えが止まった。「本当に、言い返せないじゃない」
手を繋いだぼくたちは、間近で吐息を感じながら、深い眠りについた。