【 believe 】
◆bsoaZfzTPo




38 :No.09 believe 1/2 ◇bsoaZfzTPo:07/07/29 22:56:02 ID:QuTm8YY/
 たとえば君が傷ついて、くじけそうになったときは。
 あ、いかん。
 私はこつんと自分の額を小突いた。気を抜いたら頭の中でリピートし始める歌を追い出そ
うとしたのだ。
 向かいに座っている見知らぬおじさんが、文庫本から顔を上げた。なんだよ、こっち見る
な。別に電車の中で歌い出したというわけではないのだから、放っておいて欲しい。それと
もまさか、小さく口ずさんでいたりしたのだろうか。そうだとしたらかなり恥ずかしい。
 夏休み明けのコンクールで歌う合唱曲。指揮者なんだから、まずは嫌っていうほど聴き込
みなさいという、顧問の谷先生の方針で、私は曲を録音したテープを渡された。本を読むと
きも、勉強するときも、眠るときも、とにかく部屋にいる間はずっと同じ歌を流し続けた。譜面
とにらめっこしながら、ヘッドホンで聴いたりもした。
 大失敗だった。
 そんな生活を始めて三週間。私の頭はプレイヤー顔負けの音質で、勝手に歌を再生する
ようになってしまった。誰か止め方を教えて欲しい。
 何よりも一番の失敗は、私がこの歌を本当に嫌になってしまったことだ。
 歌詞も旋律も、完璧に頭に入っている。けれど、肝心の曲をどう歌えば良いのかが、ちっと
もわからない。最近の練習では、ほとんどテープのコピーで振っている。
 はい、ソプラノもっと頑張って。アルトはもっと声張って。フォルテのとこはもっと大きく、なん
て。何を言っているのだか。テープの歌に近づけようとしているだけだ。
 電車の窓枠に頬杖をつきながら、外の景色を見つめる。近くの草は飛ぶように、遠くの田
んぼはゆっくりと、窓の外を流れていく。右手の指が、気づいたら四拍子をとっていた。
 ぎゅっと、右手を握る。止まれ。
 私には、ずっと側で支えてあげたい親友なんていない。他人が泣いているときに、腕をとっ
て一緒に歩いてあげる心の余裕なんてわからない。
 たたらたらたたー、たたらたたー。
 思わず叫びそうになった。誰だ、携帯の着信音まで同じ曲にした阿呆は。私か。
 向かいのおじさんがまた私を見た。私は顔に笑いを貼り付けて、軽く頭を下げた。
 三週間前の自分と、電車に乗る前にマナーモードにしなかった自分の二人に悪態をつき
ながら、携帯を開く。メールの差出人の名前は、ひとみ。件名には「お願い」とだけある。

39 :No.09 believe 2/2 ◇bsoaZfzTPo:07/07/29 22:56:23 ID:QuTm8YY/
「姉さん、お茶会するからお菓子買ってきて」
 味も素っ気もない、用件だけが書かれた文面。そしてお茶会。どうやら我が妹は何か腹立
たしいことでもあったらしい。
 なんの本に影響を受けたのだか知らないが、ひとみは嫌なことがあるとお茶会だと言って
台所を占拠する。そして、私にお茶菓子を買ってこいとメールを送ってくるのだ。小遣いをは
たいて買ったらしい、お高い紅茶とお菓子とミルク。
 大人がお酒を飲むのと同じだ。ひとみは甘いものに囲まれて、苦いものを忘れるのだ。
 ふと気がついた。お茶会をするたびにお菓子買ってきてとメールが来るということは、もし
かして私もひとみにとって甘いものの中に入っているのだろうか。
 その考えは悪くない。とても、悪くない。
 ちょっと考えて、メールを打つ。件名を消して、Vサインをしている顔文字に変えた。
「良かろ。今日はお姉ちゃんがケーキを奢っちゃる」
 車内放送が、私の降りる駅をアナウンスした。がくんと電車が揺れて、窓の外を飛んでいく
電信柱が減速をはじめる。
 メールが送信されたことを確認して、携帯電話をポケットに戻す。私は通学鞄を持って立ち
上がった。
 最後にもう一度がくんと揺れて、電車が止まった。ドアが空気の抜けるような音を出して開
く。私は軽い足取りでホームに降りた。
 たたらたらたたー、たたらたたー。
 しまった、またマナーモードにしていない。電車降りたから良いよね、と軽く周りを伺う。向
かいに座っていたおじさんが歩いている。目があった。私はすいませんと頭を下げる。おじ
さんも、ちょっと笑った気がした。
 私はポケットから携帯を取り出した。メールを開く。タイトルにRe:が一つ増えている。
「妹に甘いね」
 短い文章に、頬が緩む。私も短く返すことにした。
「お姉ちゃんだもの」
 頭の中を合唱曲がリピートする。ケーキは二つ、買って帰ろう。
            <了>



BACK−本当は幸せなグリム童話◆3Xl6SmXbZg  |  INDEXへ  |  NEXT−ホロウ◆QIrxf/4SJM