【 サキとヒロユキ 】
◆2LnoVeLzqY




15 :No.04 サキとヒロユキ 1/5 ◇2LnoVeLzqY:07/07/29 11:25:51 ID:QuTm8YY/
 網戸の外に広がった青空の下では、セミたちがミンミンとやかましいほど元気に鳴いていた。
 夏の象徴とも言えるその声が、暑いという実感を嫌が応にも運んでくる。風はなく、そのことが余計に暑さを助長していた。
 ひんやり冷たいフローリングの床に寝転がり、天井を見つめながら、ヒロユキはTシャツと短パンという姿で、左手に持ったうちわを絶え間なく動かし続けていたのだった。
「あつい……」
 けれど彼のそんなつぶやきは、お昼の情報番組のレポーターの声がかき消した。
 ――夏真っ盛りの湘南の海は、今日も、若者たちや観光客で賑わっています!
 セミの声を消そうとつけたテレビもまた、皮肉にも夏の象徴を届けている。ヒロユキはうちわを動かしながら、ここ札幌から千キロも離れた海岸の様子を想像した。
 ……あぁ、余計に暑いからやめよう。
 すぐにそう思って想像を打ち消す。けれど頭から湘南の様子が消えるその直前、水着を着た若い女の子たちの遊ぶ様子が、彼の脳裏を横切った。
 すべてはヒロユキの想像だ。けれど確かにそこには、彼と同じぐらいの年齢、高校生の女の子たちの姿も、はっきりと含まれていたのだった。
 ……ま、俺には関係ないけどね。
 ヒロユキはそう言って目を瞑った。想像が消えるとまたセミとレポーターの声が戻ってくる。
 俺には関係ない。ヒロユキのその言葉は強がりにも聞こえるけれど、確かに彼にとってみれば、高校生の女子など関係のないことなのだった。
 たとえば想像の中、細くて白い手と足が太陽の光にさらされていても、中途半端な胸の上に乗っかったピンク色の水着がどんなに可愛くても……ヒロユキは、躊躇することなくその想像を打ち消すことができる。
 なぜならヒロユキは、恋愛なんてしないと、そう心に決めていたのだから。
 厳密に言えば……現実の女の子とは、だが。
 その言葉の続きは、彼の部屋の中に隠すように置かれている、いわゆる美少女ゲーム類が物語っている有様だった。
 もしも、頭の固い文筆家や、あるいは懐古趣味のある老社会学者が彼の様子を見たとしたら、「これぞ現代文化の弊害である!」と声を揃えて叫ぶに違いない。
 健全な青少年の青春を奪い去るオタク文化。確かに、そんなタイトルのゴシップ記事が今すぐ出来上がってしまいそうな様子が、昨今のヒロユキにはあった。
 けれど彼が現実の女の子と恋愛しないと決めた理由は、そんな文化とは、ちっとも関係のないところにある。
 ばたん。
 テレビの音とセミの声に混じって、ドアの開く音がヒロユキの耳に届いた。
 ヒロユキは寝転がったまま、ドアの方は見ずに「姉貴、お帰り」と言う。確認もせずに彼がそう言ったのは、大学生である姉が彼氏の家に行ったときは大抵、帰ってくるのがこの時間だからなのだった。
 けれど、ヒロユキにとって意外だったのは、いつもはあるはずの姉からの返事がなかったことだ。
 ヒロユキは思わず上半身だけ起こし、居間の出口、玄関に続く廊下の入り口を見た。
「姉貴……?」
 ようやく姉のサキが居間に入ってきたのは、ヒロユキがそう言うのと同時だった。けれどやっぱり返事はせずに、おまけにヒロユキを見ようともしない。
 その顔はうつむいて、視線まっすぐ床に固定されている。
 けれど、床にいるヒロユキからは、その表情を窺うことができた。サキはまるで何かを堪えているようで、意識的に無表情を装っている様子なのだった。

16 :No.04 サキとヒロユキ 2/5 ◇2LnoVeLzqY:07/07/29 11:26:09 ID:QuTm8YY/
 セミはその鳴き声を、いっそう力強く発している。テレビ画面ではさかんに夏ばてに効く食品の紹介が行われている。
 そのような騒音の中、サキは無言でヒロユキのそばを通り、まっすぐ居間のテーブルの、ヒロユキのいる位置に一番近い席に腰掛ける。ヒロユキからはその背中しか見えない。
 そしてサキは、ひじをついて顔を両手で覆ったと思うと、それっきり、身じろぎ一つしなくなってしまった。
 黒く長い髪は頬の横に垂れていて、今となっては表情を窺うこともできない。ヒロユキから見えるのは、白いサマーニットの上着、あくまで背中だけ、と、黒い膝下丈のスカートだけだった。
 あぁ、とヒロユキは思う。
 彼氏と別れたのか。――そんなヒロユキの推測は、事実を的確に捉えていた。少なくともサキのこのような落ち込みようを、彼は何度か見たことがあった。
 そしてその度に思ってきたことを、今回もまた、頭に思い浮かべたのだった。
 ――姉貴と別れた男は馬鹿だ。
 たぶん姉貴以上の人は他にいないから。どの女の子を見ても、女性を見ても、姉貴に勝る人がいるとは思えなかった。姉貴という絶対的な基準がある以上、どんな人も、姉貴に劣っているようにしか見えなかった。
 ヒロユキが恋愛なんてしないと決めた理由は、姉のサキにあるのだった。
 サキは、綺麗だし頭も良いし優しいし、とにかくほとんど完璧に近い。少なくともヒロユキはそう思っていた。ちょうど空にぽっかりと浮かんだ満月のように。
 そしてそんな姉の前にあっては、ヒロユキは現実の女の子と恋愛をする気など、これっぽっちも起きないのだった。
「……何があったのさ」
 天井を見つめ、うちわを自分に向けて動かしながら、ヒロユキはサキにそう訊いた。
 だが返事はない。セミはミンミンとうるさく鳴き続け、テレビのレポーターは芸能人の離婚のニュースを何度も何度も繰り返していた。
「何があったのさ」
 ヒロユキは、今度はうちわをサキの背中に向けて動かしながらそう訊いた。
 彼から二メートルと離れていないところに座っている姉に、その風は喧騒の中をすりぬけて確かに届いている。サキの髪の毛が、少しだけ揺れる。
 だがそれでも、サキは返事をしなかった。ヒロユキは再び天井を見つめ、うちわをサキに向けて動かしながら、ただぼんやりとテレビのレポーターの声に耳を傾けていた。
 芸能人の離婚のニュースがようやく終わったと思うと、今度は別の芸能人の結婚のニュースになっていた。セミがなおもうるさくミンミンと鳴いていた。
 ヒロユキは、質問をそれきりでやめた。しばらくのあいだ、沈黙とも言えない沈黙が続いていた。
 ヒロユキがうちわを持つ手を変えようとしたそのとき、ようやくサキが、ぽつりと一言つぶやいた。
「わたしが悪いの」
 顔を覆う手の間から漏れたその声は、妙にくぐもっていた。ヒロユキはうちわを動かす手をぴたりと止めて、姉の方に視線を向けた。
「……姉貴は悪くないよ」
「わたしが悪いの!」
 だん、とテーブルを叩く音がした。ヒロユキからはサキの背中しか見えないけれど、テーブルを叩いたのが姉の手だということに違いはなかった。
 ヒロユキは寝転がったまま肩をすくめる動作だけして、再び姉に向けてうちわを動かしながら訊いた。セミがうるさく鳴いている。
「何があったのさ。姉貴が悪いか悪くないかはそれを聞いてから決める」
「……何があったか言ったってどうせヒロは理解できないでしょ。それに」

17 :No.04 サキとヒロユキ 3/5 ◇2LnoVeLzqY:07/07/29 11:26:28 ID:QuTm8YY/
「それに?」
「ヒロはどうせ、『姉貴は悪くない』しか言わない」
「じゃあ、姉貴は悪い。姉貴が悪い」
 ヒロユキはあくまでも冗談のつもりでそう言った。けれど姉からの返事は返ってこない。言うんじゃなかった、とヒロユキは思った。
 けれどここでまた「姉貴は悪くない」と取り繕うのも余計におかしな気がして、結局またしばらく、お互いが無言になってしまった。
 ふと、セミの鳴き声が急に、どっと大きくなった。そうして次に二人の間で発せられた言葉は、ヒロユキが思わずつぶやいた「あつい……」だった。
「もう扇ぐのやめて」
 サキが、少し強めにそう言った。サキに向かってうちわを動かし続けていたヒロユキは、面食らったようにうちわの動きを止めた。
「もう、扇がなくていいから」
 続けてそう言うと、サキは突然立ち上がり、キッチンの方へと歩いていった。ヒロユキは驚きながらも、首と目だけを動かしてその様子を追っていた。
 ややあって戻ってきたサキは、コップに入った麦茶を二つ、両手に持っていた。ヒロユキは上半身だけ起こしてサキから片方のコップを受け取った。
 氷の麦茶の冷たさが手から全身に伝わる。一瞬だけ、ヒロユキはセミの声もレポーターの声も頭から追い出すことができた。
「ありがと」
 言ってから、少し無愛想だったかな、とヒロユキは思った。受け取るときに見た姉の目は充血していて、それは泣いたあとのようにも見えた。
 サキはまたテーブルの、さっきと同じ席にヒロユキに背中を向けて座る。
 ヒロユキはその背中に、「ありがと」ともう一度、抑揚のない声で、けれど出来る限り、素直な気持ちで言った。
 サキからの返事は、もちろんない。けれどサキが麦茶を飲んだのを見て、ヒロユキも麦茶を一口飲んでみる。
 一気に体じゅうを涼しさが駆け抜けて、彼は床に置きっぱなしだったテレビのリモコンを手に取ると、すぐにスイッチを押してテレビを消した。
 網戸から、まるで洪水のようにセミの声が流れ込んでくる。
 もう一口だけ麦茶を飲むと、ヒロユキはもう一度だけ、あの質問をしてみよう、と思った。今なら答えが返ってくるはずだ、という妙な自信があった。
「……何があったのさ」
 すると、ことん、とコップをテーブルの上に置く音が聞こえた。
 その静かな音は、サキの感情を代弁しているようでもあり、また彼女自身にとってもその音は、何かの切り替えスイッチのようなものでもあった。
「……何も、なかったのよ。本当に、何も。けれど……何もなさすぎたの」
 そのサキの声には、後悔というよりも悲しさがにじんでいた。ヒロユキにはサキが、心底、可哀そうに思えた。
 あわれみでも同情でもなく、それは心からの、姉への思いやりだった。
 そのときふと、セミの鳴き声が、突然、止んだ。
「姉貴に釣り合う男がいないだけだよ」
 静寂の、その間隙を逃さないように、ヒロユキはサキの背中に向かって一気にそう言った。騒音のない中を、その声は、はっきりとサキへと届いたはずだった。
 それを聞いた彼女は視線を網戸から外した。それからうつむき加減に、背中越しにいる弟へと言った。

18 :No.04 サキとヒロユキ 4/5 ◇2LnoVeLzqY:07/07/29 11:26:49 ID:QuTm8YY/
「釣り合う釣り合わないの問題じゃないでしょう」
 それを聞いたヒロユキは、床から立ち上がっていた。サキはそれを気配で感じとってもなお、振り向こうとはしない。
「いいや釣り合う釣り合わないの問題だね。なあ姉貴……いい加減気づいたらどう?」
「……何を」
 ヒロユキは、すっと一度深呼吸をした。
「姉貴は、他の女の人とは明らかに違うんだよ。誰より頭がいいし誰よりも可愛いし優しい。お世辞じゃない。俺にだってそのくらいわかる。いや、弟の俺だからこそわかる。
 なあ姉貴、実際は姉貴だって気づいてんだろう? 姉貴は特別なんだよ。姉貴に釣り合う男を見つけるなんて、このだだっ広い宇宙から地球型惑星を見つけるぐらい難しいんだ」
「あのね」
 ここでサキは、初めて、ヒロユキの方を振り向いた。その目はまだ赤く充血していたけれど、その表情からは、一片の弱さも見出すことはできなかった。
「わたしは普通の女のつもりなの。釣り合う釣り合わないなんてこと、考えたことなんかあるわけない。今回だって」
「嘘つくなよ」
 サキの目がはっと見開かれて、まっすぐにヒロユキを見つめた。ヒロユキはまっすぐに、視線を逸らすことなくその目を見つめ返した。
「じゃあ何で、毎回毎回彼氏と別れるたびに『自分が悪い』って言ってるんだ? 全部の場合で姉貴が悪いわけなんかない。いや、姉貴が悪い場合なんて絶対に一度もなかったはずだ。
 なのに『自分が悪い』って言うのは……姉貴、結局姉貴は優しいんだよ。とんでもなく。付き合ってるうちに自分と彼氏とのギャップが嫌というほど見えてきて、嫌でも彼氏が人間的に自分以下だって姉貴はわかるはずだ。
 なのに別れた後では毎回毎回『自分が悪い』だなんて。姉貴は、間違いなく世界一のお人よしで、世界一の嘘つきだよ」
 言い終わると、ヒロユキは床にあぐらをかいて座った。サキはついとヒロユキから視線を逸らして、逃げるように真っ黒なテレビ画面を見つめた。
「それは……ヒロの想像でしょ。全部。根拠なんてどこにもない」
 サキは、かろうじてそれだけ言った。今にも涙がこぼれそうで、それをかろうじて、なんとか堪えていた。
 けれどヒロユキは、小さくためいきをつくと、つぶやくように言ったのだった。
「弟を何だと思ってるんだよ。顔に書いてあるよ。全部」
 サキは、何も言わなかった。
 けれどそのときサキの目から、すっと涙が伝うのをヒロユキは見た。セミがまた大声で鳴きはじめて、今なら思い切り泣いても構わないのに、とヒロユキは思う。
 けれどサキは泣くことなく、ただまっすぐに、今は網戸の外を見つめていた。
 ヒロユキが、傍に置いた麦茶を見ると、そこにはびっしりと水滴がついていた。
 ふと、顔を上げると、サキが涙を指でぬぐっていた。思わず視線を逸らすと、そんなヒロユキに対して、サキは、わずかに微笑みながら、こう言ったのだった。
「……ねぇヒロ、扇いで。そのうちわで、思いっきり」

19 :No.04 サキとヒロユキ 5/5 ◇2LnoVeLzqY:07/07/29 11:27:05 ID:QuTm8YY/
 ヒロユキはうちわを手にとって、言われたとおり思いきり扇いだ。サキの黒くて長い髪が、その風に吹かれてふわっと舞い上がる。
 ミンミンとセミが鳴いている。網戸の外には風がない。けれどこの部屋の中には、確かに、風が吹いていた。
「人間は何かに悩む前に、まずこの暑さをどうにかする方法を考えるべきだと思う」
「あはは、確かにそうかも」
 サキが笑った。それを見て、ヒロユキは心の底から満足感に浸る。姉貴を慰める役が、他の誰にできるんだろう。恋愛なんてしなくていい。俺が誰かと恋愛したら、いったい姉貴を誰が慰めるんだ?
 それは確かに、ある意味では屈折した感情だった。けれど別の意味では、それは限りなく、恋愛らしい恋愛だった。
 姉に対しての、叶うことのない、純粋無垢な恋愛感情。
 サキがこちらを向いて、ヒロユキはうちわを動かす手を止める。
 それからサキは、少しだけ乱れた髪も気にせずに、ヒロユキに聞いた。
「ねぇ……わたしは、悪くない?」
 ヒロユキの答えは決まっている。


 <了>



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