【 卒業 】
◆0YQuWhnkDM




62 :No.16 卒業 1/3 ◇0YQuWhnkDM:07/07/22 23:19:21 ID:GvVVMK6k
 相川佳代子、三年一組一番、物理部所属。部長をつとめる。
 成績優秀、友人は多いが殆どが男。国立理系クラスには女子が極端に少ないためと思われる。さばさばした喋
りをして、下級生の女子には人気があるらしい。
 容姿は中の上、表情が豊かなややきつめの顔。洒落っ気はやや足りない。いつも無造作にひっつめた髪で、ノ
ンフレームの眼鏡をしている。校内でこいつを探すのは簡単。白衣を制服の上に引っ掛けて歩いている女子なん
ぞ、学校にひとりしかいない。
 相川佳代子、俺の生徒。今日、卒業する。


「せんせ、文化祭の発表だけどまたリニアやるの? そろそろ新しいネタ探した方が良くない?」
「お前な、そういうことはその新しいネタ探してきてから言えよ」
「いやー、飽きたし……そう思うよねえ皆」「そうですよね部長!」
 相川のイエスマンであるところの部員たちから即座に賛成の声が上がる。人望があるのはいいことだが、顧問
を虐げるのはやめて欲しい。
 こいつが入部して来た時には珍しい女子部員だと思ってつい他の部員と一緒になってちやほやしてしまったが、
今となってはそれは失敗だったなどと思ったりもしているものだ。初々しい、スカートの短くない制服を着た新
入生は、すっかり第三理科室の空気のようになってしまった。
 移動教室とあれば準備室に顔を出し、昼休みに友達が学食に行ったと言ってはちゃっかりコーヒーを飲みに。
自分で言うのも何だが俺は生徒にそこそこ人気があったし、そういう生徒は一学年のうち何人かは必ず居たもの
だ。でも相川はそういった「先生と仲良くなりたい生徒」のにおいがしなかった。ごく自然に俺のペースに触れ
ない程度に側を掠めて行くものだから、いつか俺はすっかりそれに慣れてしまった。

63 :No.16 卒業 2/3 ◇0YQuWhnkDM:07/07/22 23:19:37 ID:GvVVMK6k
 バランスが少し崩れたのは、二年の夏だった。
 相川のいるところ、近くに必ず決まった男の顔が見えるようになったことに俺が気付き、どうやらそれに遅れ
て本人も気付き。傍目から見て、特別に仲良くなったふたりは……有体に言えば、円満に交際をはじめたように
見えた。どうやらこれで準備室では余分にコーヒーをたてておかなくて良くなるのだろう、部活にも余り姿を現
さなくなるかもしれないが、文化部はそんなものだし……そう一抹の寂しさを感じながらも思っていた。
「せんせ」
 いつものようにうっかりコーヒーを余分にストックしてしまい、自分が案外あの日常に慣れてしまったことに
苦笑いをこぼしていたその日、相川がふらりと準備室へ入って来た。それ自体は普通だったが、いつもと違った
のは彼女の眼鏡の奥の瞼が少しばかり腫れぼったかったことと、その時間が授業中だったことだった。
「何さぼってんだ」
 なんとも言えない雰囲気に椅子をすすめながら、それでも教師として一言だけ言ってやる。相川は誤魔化すよ
うに笑いながら椅子に座り、慣れた手つきでコーヒーをビーカーに注いだ。
 何か言いたいことがあるのかと思いつつも言い出せず、この空き時間にするつもりだった小テストの採点に手
をつけた。相川は何も喋らず、ただ時間だけが流れた。自分の動かすペンの音がやたらうるさいと感じたことを
覚えている。
「次の時間は授業あるからな」
 授業が終わる時間が迫り、必要に駆られて小さく俺は呟いた。すると相川が空になったビーカーを握ったまま
頷くと、こっちを真直ぐに見る。
「せんせ、私告白されちゃったんだけどさ」
 何故か、ぎくりとした。
「面倒だったから、せんせに片思いしてることにしといた。いいよね」
「え? ちょ、お前……」
「迷惑かけないから、いいよね」
 相川は嘘をついている、と思った。それが何についてかは、考えることを頭が拒否する。考えては、勘付いて
はいけない。この嘘は見破ってはいけない。
 本当に、俺には何も迷惑がかからなかった。相川は何もなかったように以前と同じように俺に接してきて、彼
女の近くにいたあの男子は、また近くで笑いあう仲になっているようだった。ただ、俺と相川が感じている空気
だけが違っていた。多分それを、俺たちふたりだけが知っていた。

64 :No.16 卒業 3/3 ◇0YQuWhnkDM:07/07/22 23:19:53 ID:GvVVMK6k
「酷いかっこだよ、せんせ」
 卒業式が終わると、目を泣き腫らした生徒たちが一斉に職員室に押し掛けてくる。相手をしてやるのが教師と
して正しいのだろうが、俺はどうしても湿っぽいのが苦手で……担当学級がないのをいいことに、いつもの準備
室に避難していた。それでもこれが最後と思う生徒たちは泣きながらも何故かエネルギッシュで、部屋に押し掛
けては写真をとり、ネクタイをむしり、果ては白衣までも剥ぎ取って行ってしまった。
 嵐のような時間が去り、どこか爽やかな寂しさを味わっていたところに聞き慣れた声。
「ヨレヨレだね」
 もう生徒たちは殆ど帰ってしまっていないだろうに、これから部活が始まるのかと錯覚してしまうほど普通に
白衣を羽織った彼女が立っている。
「……おう」
 自分でも間抜けだと思う声が口から漏れる。
「追いはぎにあったみたい」涙も見せず、相川が笑う。
「追いはぎみたいなもんだよ……まあ、これが最後だからこれくらいは」
 最後だから。そう口にした瞬間、空気が強張るのを感じた。そうか、そうだ、最後だ。俺たちのこの時間も。
「……あのさ」
 何を言おうとしたわけでもない。ただ何か……卒業おめでとう、だとか、大学へいっても頑張れよ、とか、そ
ういう無難なことを口にしようとした。その時、視界が白に覆われた。
「それ、貸しといてあげる」
 投げ付けられたのは……白衣だ。視界と同時に真っ白になった頭を振りながら慌ててそれを払うと、もう見え
るのは駆けていく後ろ姿だけ。
 最後に投げられた声は、少し震えていた。そういえば、最後まで相川の泣いた顔を見たことがなかった。そう、
ぼんやりと俺は考えた。
 爽やかな寂しさと少しの鮮やかな予感を噛み締めながら、俺は白衣を羽織ってみる。
「……小せぇ」
 これじゃとても着られない。急に愉快になってただ笑った。あいつが取り戻しに来ようが来まいが、これは大
事に保管しておこう。なんて鮮やかなさよならだ、忘れられやしない。

 相川佳代子、三年一組一番、物理部部長。
 俺の生徒だった。
                                       了



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