【 夏の陽に 】
◆rmqyubQICI




58 :No.15 夏の陽に 1/4 ◇rmqyubQICI:07/07/22 23:14:08 ID:GvVVMK6k
「アドバンテージよ」
 高く上った陽の光に、若い葉の緑が照り映える真夏の正午過ぎ。
窓から差し込む茹だるように熱い日差しにも頓着せず、人気のない
手洗い場で懸命に制服を洗う少女が、そう呟く。それを傍らで見守
る私は、ともすればこぼれそうになる溜め息をやっとのことで抑え
ていた。
「そう、アドバンテージなの。負けないために必要な要素なのよ」
 独り言ちながら、彼女は必死に制服をこする。排水溝に流れ込む
水の色は、やや赤く染まっているように見えた。
「大体、あいつがやわなのが悪いわ。殴られるのは分かってるんだ
から、鼻の奥の粘膜くらい鍛えときなさいよ」
 いつものこととは思いながらも、あまりの傍若無人さについ呆れ
てしまう。
「……酷い言い訳ね」
「何? 私が悪いって言いたいの?」
 そう言いたいんだよ、という言葉を飲み込みつつ、ついついこめ
かみのあたりにもってゆきそうになる人差し指も抑える。
「まぁ、向こうにも落ち度があるとは――」
 『思うけど』と言い終えるよりも早く、彼女は急に元気を取り戻
して私に迫り寄ってくる。
「そうよね! あんたは分かってくれるわよね!」
 突然響いた高い声に、一瞬目眩を感じる。というかまず私の言葉
を理解してほしいのだけれど。ただ、どうせそれを言っても何にも
ならないのだろうから、とりあえず今は黙っておく。
「もう、ほんとに素直じゃないわ、あいつ。この私があれほど……」
 彼女の言葉が途切れる。何を思い出しているのだろう。彼女の愛
らしい白い顔が、だんだんと紅潮してきた。心なしか拳にも力が入
ったように見える。必死で恥辱に堪えているらしい彼女の姿に、私
の口はたまらず慰めの言葉を紡いだ。
「あれだけ頑張れば、向こうも気づいてるはずなのにね」

59 :No.15 夏の陽に 2/4 ◇rmqyubQICI:07/07/22 23:14:24 ID:GvVVMK6k
 その響きだけ優しい言葉で、彼女にいつもの活力が戻ってゆく。
「そう! そうなのよ!」
「そうね、きっと」
 それはきっと、いいことなんだろう。活力は次の行動につながる
から。けれど――。
「でも、さ」
「ん? 何?」
 彼女の無垢な瞳が、私の中のささやかなわだかまりに応える。す
っかりいつも通りだ。その見た目だけ素直そうな笑顔も、私に何で
も言う事を聞かせてしまう視線も。
「えー、っと……」
「何よ、気になるじゃない。あんたがこの私に隠し事なんてさ」
 そんなんじゃない。ただ、どうしようもない罪の意識を感じて、
ためらっているだけ。
「言っていいの?」
「どうぞうどうぞ」
 あぁ、どうぞと言うのなら、もっと怪しむような目で見てほしい。
その笑顔が、私にはとても辛い。どうせあなたに嫌われるようなこ
となのだから。
 一度、深く息を吸い込み、吐き出す。無理矢理にでも覚悟を決め
る。不思議そうに私を見つめる彼女の瞳をまっすぐ捉える。そして、
できる限り冷淡な声音をつくって、言う。
「もっと、素直になれないの?」

60 :No.15 夏の陽に 3/4 ◇rmqyubQICI:07/07/22 23:14:39 ID:GvVVMK6k
 音が、奪われた。
 一瞬遅れて、外界の音が耳に流れ込んでくる。運動場を駆ける下
級生たちの笑い声。散り際の蝉が叫ぶ声。ただ、求める声だけが聞
こえない。
 そのまま時が経つ。差し入る陽光の熱で、既に頭はぼやけ始めて
いる。
「……どうして」
 ようやく、声が聞けた。声帯の奥からどうにか絞り出したような、
苦しげな声が。
「どうしてそんなこと言うの!」
 誰もいない廊下に響く、感情の爆発。長い髪に隠れがちなそのま
ぶたに、うっすらと透明なものが見えた。
「どうしてって、そう思ったから」
「そんなこと、言わなくったって……」
「そんなこともできないで、叶うと思ってるの?」
「だって!」
 分かってる。でも、もう止められない。
「努力は、したの?」
 最後の繋がりが切れた気がした。彼女の強く握られた拳がわなわ
なと震え出す。息が荒くなって、肩が不規則に上下する。
「散々やったわよ、馬鹿ぁ!」
 叫びがまた、廊下にこだまする。彼女の身体が翻って、黒い長髪
に隠れた背中がこちらを向く。
 知ってるよ。ずっと見てきたから。ずっと一緒にいた、親友だっ
たから。ごめんね、でも――。
「な、何?」
「――えっ?」

61 :No.15 夏の陽に 4/4 ◇rmqyubQICI:07/07/22 23:14:53 ID:GvVVMK6k
 私は、何を望んだのだろう。
 気がつくと、彼女の左手を私の両手が包んでいた。温かい彼女の
手の感触に、一瞬、私の中で時が止まる。
 はっとして正気に戻ると、訳の分からないものを見るような彼女
の目が、私を睨んでいた。しまったと思い、すぐに手を離す。檻を
抜け出す兎のように、彼女は駆け去ってしまった。
 一瞬のことなのに、ひどく疲弊した気がする。廊下の向こうへ消
えてゆく彼女を見るうちに、だんだん視界がぼやけてきた。最後に
見た彼女の目を思い出す。初めて私に見せた、まるで気持ちの悪い
ものを見るような目。
 多分、気づかれてしまったのだろう。ずっと私の心の奥で暴れて
いた、けれどどうしても捨てることはできなかった、淡い希望。彼
女をいたずらに困惑させてしまったなと後悔しつつ、今日のところ
はもう帰宅することにする。



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