【 目覚め 】
◆D8MoDpzBRE




40 :No.11 目覚め 1/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/22 21:17:48 ID:GvVVMK6k
 最悪な寝覚めは、何もかもが空っぽな熱帯夜に訪れた。
 ひどく不規則な生活がもたらした日時に対する混乱が、覚醒した直後の意識に漂う混濁と絶妙に絡み合いな
がら頭の中で耐え難い不協和音を奏でる。視界は闇の中で焦点を掴めずに彷徨う。
 乱暴な手つきで蛍光灯から垂れ下がったヒモを探り当て、引いた。ガラス管の中で、小さな稲妻がひび割れた
陶器のような微かな音を立て、殺風景な部屋に薄明るい光をもたらした。
 目に入るのは、食い散らかされたコンビニ弁当の残骸、ペットボトル、煙草の吸い殻。食べた弁当の中身など
覚えていない。
 シャワーを浴びて着替えを済ませた頃には、だいぶ頭もはっきりしてきた。要は、昼夜が逆転しているせいで分
かりにくいのだが、また退屈な一日が始まったと言うことらしかった。それでも俺はこの一日に“何か”を期待して、
いつものように髪型を入念にセットした。
 ドアを開けて、むさ苦しい六畳一間の自室を出た。一歩外界に踏み出すと、漆喰に食いつぶされたように深い
闇が辺りを覆っている。路地裏に充塞した空気が梅雨時独特の湿気を孕んで、果てしなく澱んでいた。気持ちの
悪い汗が頬をしたたり落ちた。
 その日暮らしに将来の展望などあろうはずもない。
 夜空を見上げた。赤く染まった新宿のビル群が、深遠な宇宙の闇や星座の群れを追い払うようにそびえている。
赤い照明が、高層ビルの頂辺で単調かつ間延びしたリズムを刻んでいた。
 ガード下をくぐり、歌舞伎町へと足を踏み入れた。真夜中であるにも関わらず、同じような顔をした女の群れが
至るところで目に付く。暇をもてあましては夜の街を彷徨うことを、もはや生業としたような連中だ。若しくは、刺
激に常に飢えている中毒患者なのかも知れない。同じことだ。
 パチンコかスロットの看板を目指した。すっかり癖になってしまった煙草を吹かしながら、下らない遊戯に漫然
と時間と金を費やすことが日課になっていた。大当たりが出ればそのまま風俗業の顧客になる、いつものパター
ンを思い描く。それだけが変調に乏しい生活を彩る数少ない愉悦なのだ。
 俺もまた退屈という名の悪魔に心を蝕まれ、刺激に対して中毒になっていたのだろう。
「ヨシくん?」
 背後から声をかけられるなど、全く予期していなかった。しかも十年来『ヨシくん』なる呼称を耳にすることも無
かった。振り向けば、コマ劇場を背景にして立っている女が目に入った。真っ直ぐに伸びたセミロングの茶髪、
花柄のブラウスに茶色のロングスカートが都会のそよ風に揺れている。この辺りをうろついている典型的な女た
ちとは違う雰囲気。どことなく場違いさを漂わせていた。
「悦子か」
 どちらかと言うと思い出したくない名前だった。十年前、高校を卒業すると同時くらいに別れた元恋人だ。資産

41 :No.11 目覚め 2/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/22 21:18:04 ID:GvVVMK6k
家の娘だった悦子はその後大学に進学し、俺は地元の土建屋に就職した。
 そんな久しぶりに見る悦子は、懐かしさと言うよりはむしろ異世界の香りを放っていた。
「なんかヨシくん、別人みたいになってたから一瞬迷っちゃった」
 そう言って、悦子はむずがゆくなるような笑顔を見せた。
 目の前の悦子は、十年前とほとんど変わり映えがしなかった。垢抜けないのもオドオドしているのも相変わらず
だった。もっとも俺の中にある悦子の記憶など、まるで澱んだ深海の奥底で砂をかぶって横たわっている太古の
化石のような曖昧さと不確かさに覆われていたのだが。
「何してるんだ? こんな真夜中の歌舞伎町で」
「……家出したの」
 何とも子供じみた弁解だな、と思った。二十後半にもなる大人が口にする言い訳ではない。そして彼女は家出
までして何をしたいのか、と言う部分にまでは答えてくれなかった。
「酒でも飲みながら話そうか。時間は大丈夫か?」
 俺の問いに対して、悦子が控えめに頷いた。己の意見に自信が持てない人間の頷き方だ。
 梅雨時の湿った空気と都会が吐き出す濁った排気とが共に醸成されて、湿気た煙草のような匂いを鼻腔に充
満させていた。

――春の風が、薄ピンクと黄緑が混ざり合った葉桜を揺らしていた。暖かな陽気に愛された田舎の春は、別れ
の春だった。整備された桜並木を、制服姿の俺たちは二人並んで歩いていた。悦子は泣いていた。その表情の
細やかな部分までは、どうしても追憶のピントが合わない。ただ、背中を丸めた淡いシルエットが小刻みに震えて
いるだけだ。視界が波打つように、潤んで潤んで仕方がない。そうするうちに、思い出の輪郭は磨りガラスの向こ
う側へ、曖昧なまま途切れて消えた。
 トイレに行った悦子を待つ間、俺の脳裏に甦ったのは苦い記憶だった。それは消化しきれなかった食残のよう
に俺の臓腑の中に留まり続け、忘れた頃になって夢の中に出てくるなどして、俗に言うトラウマという名の疫病神
に姿を変えていた。
 あの日、俺と悦子の間を隔てたのは生まれついた境遇の差だった。裕福な家庭に生まれた悦子と、高卒まで
しか面倒を見てくれなかった貧困家庭に生まれついた俺。当然のごとく俺たちの交際は悦子の両親に反対され、
挙げ句妨害を受けるまでに至った。
 その悦子と再び出会ってしまった。掘り出された太古の化石には、俺自身の傷跡が生々しく刻まれているに違
いない。
 居酒屋店内のトイレから戻ってきた悦子が、そのまま席に着いた。

42 :No.11 目覚め 3/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/22 21:18:19 ID:GvVVMK6k
「久しぶりだね」
「ああ」
 短いやりとりが交わされ、再び沈黙が訪れる。下手な言葉が腫れ物のような記憶を呼び起こしてしまうのを避
けるあまり、ぎこちない膠着に手足を縛られていた。
「最近ヨシくんは何をしているの?」
「フリーアルバイター、主にバイク便」
 半月前までは、という言葉を呑み込んだ。ふうん、という気のない返事だけが返ってきた。
 安っぽい雰囲気の居酒屋では、ムードなどというものは到底望むべくもない。周囲の雑音が、ただでさえ弾まな
い会話を要所要所で遮った。
 結局、居酒屋での会食は一時間と持たなかった。ほとんど酒に酔うこともなく、俺たちは店を後にした。
 ネオン街は夜の度合いを深めても、眠りにつくそぶりすら見せなかった。煌々と点滅する電飾が昼でも夜でも
ない亜空間を作り出し、歩く者を幻惑する。この街は、朝が来るまで眠りに落ちることはない。
 十年の時が隔てた二人の心の溝は思いのほか深かったのだろう。依然、俺たちは何ら共通の話題も見いだ
せぬままだった。むしろ期待外れに終わった再会が、逆にトラウマを水に流してくれはしないだろうか、などと考
えていた。
「私の婚約者がつい先日、死んだの」
 突然、悦子が語り始めた。どういうリアクションを返すのが適切なのか分からなかったが、悦子の語りは淡々と
同じ調子を保っていたため、ただ聞き流す風にして耳を傾けた。
「お父さんが勝手に選んだ人だから、最初は好きでも何でもなかった。でも誠実で優しい人だった。四年付き合っ
て、ようやく結婚しても良いと思えるようになったの」
「何でその婚約者の人は……」
 素直な疑問が口を突きそうになった瞬間、聞いてはいけない質問だったかも知れない、という自制心が俺の言
動に急ブレーキをかけた。しかし、そんな俺を余所に悦子は事も無げに会話のアクセルを踏み込んだ。
「自殺したのよ。元々実業家で事業そのものは順調だったんだけど、対人関係の軋轢が溜まりに溜まったのが原
因だったみたい。私には最後まで何の相談もなかったのに……」
 そこまで話し終えて悦子は再び押し黙った。
 悦子を深夜の歌舞伎町での徘徊にまで追い詰めた背景には、喪失感という感情があったのだろうか。結婚を
意識までした人を失った彼女の心の内にどれ程の寂寞が渦巻いているのか、想像することすら憚られた。
 しばらくの沈黙を挟んだ後、悦子がその細い指を俺の掌に滑り込ませてきた。しっとりと夜の湿気を吸い取った
悦子の指の感触が伝わってくる。たった一つの粒子の欠落すら無いのではないかと思われたくらいきめの細か

43 :No.11 目覚め 4/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/22 21:18:34 ID:GvVVMK6k
な肌触りだった。
「駄目?」
 悦子が上目遣いで聞いてくる。断れなかった。力ない笑顔を作り、首の仕草で同意を示した。
 なぜ、再会してしまったのだろう。こんな奇跡じみたタイミングでかつての恋人と出くわすなんて、運命という言
葉の持つ何らかの力を連想せずにはいられない。俺は、知り得なかった悦子の十年間を知りたいと思った。夢
の続きが見たいという感覚にも似ていた。
 悦子と十年ぶりの口づけを交わした。懐かしい感触がもたらす新鮮な高揚感に煽られて体の芯が熱くなる。ひ
び割れた古傷に潤いを与えるため、悦子の口からむさぼるように唾液を掠め取った。
 いつまで経っても、中空になった十年間の渇望は満たせない気がした。

 俺たちは、ネオン街の外れにある汚いホテルに体熱の余韻を持ち越した。
 その時まで俺は悦子を知らなかった。悦子の体が描く滑らかな曲線に初めて触れた。凝り固まった劣情が尖ら
せた乳首の先を荒々しく吸い上げる。吸えば吸っただけ乳頭は鬱血して熱い果汁を充満させていった。恥部の
柔らかみに触れた。淫靡な感情をあまねく受け止める暖かな泉に、俺自身の全てを傾けた。浮遊感を伴った絶
頂が脳髄の殻をぶち破って溢れ出したとき、悦子の体もまた電撃にもみくちゃにされるように引き付けていた。
 夢の中を浮遊していた。中々現実感を伴わない幻想の時間に眩惑され、すっかり酩酊していた。上下も左右も
前後もおぼつかない。いつか訪れる夜明けの存在さえ忘れていた。
 悦子が上気した顔こちらに向けている。懐かしい表情。はにかんだ悦子の表情が好きで、次第に好意を覚えて
いったのは高校一年生の頃だ。放課後の教室に二人だけ居残ってとりとめのない雑談に花を咲かせていたあ
の頃は、そばにいるだけで幸せだった。同級生の悦子がたまらなくまぶしく見えた。
 きっかけは、些細な好意に過ぎなかった。
「ありがとう、今日はヨシくんに助けられたよ」
 回想は中断され、目の前にいる裸の悦子に焦点が合わさる。
「俺が助けた?」
「うん」
 悦子が眠そうにうなずいた。ただの戯れ言の類だと根拠もなく思い、聞き流すところだった。
「死のうと思ってたんだ。夜が明ける頃、電車に身を投げるかビルから飛び降りるかして」
 思わず耳を疑う。そう言えば、悦子は婚約者を失ったばかりであった。死のうと思って家出をし、死ぬ場所を探
して歌舞伎町を彷徨っていたということか。
「私、孤独なんだなって思った。婚約者だった人が、私に心を開かないまま自殺したんだなと思うと悲しくて。だか

44 :No.11 目覚め 5/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/22 21:18:49 ID:GvVVMK6k
ら今日、ヨシくんに会えて本当によかった」
 悦子が俺に口づけを求めてきた。柔らかい唇が俺の口を塞ぎ、優しく絡み合う。
 カーテンの向こう側が白み始めていた。離れたくないという思いが胸の辺りにまでこみ上げ、俺は必死で悦子
の体にすがりついた。
「悦子、俺と一緒に暮らそう」
 俺を見返す悦子の頬を涙が伝って落ちる。あふれ出る感情を押し殺すように表情を保ちながら、悦子はゆっく
りと口を開いた。
「ありがとう。きっと私、ヨシくんと一緒になれたらどんな困難にだって立ち向かっていける。ヨシくんとだったら何
処にでも行ける」
 そう言って、悦子は俺の体に絡ませていた腕をふりほどいた。少し距離を置いて俺と相対している悦子の顔に
は、決然とした意志の力が浮かんでいるように思えた。
「日本に住んでいる限り、うちの家族はどんな手を使ってでも私のことを探し当てる。でも、いつかきっと会えると
信じてるから、私はこれから逃げるんじゃなくて戦わなきゃいけない」
 歌舞伎町の夜がようやく眠りにつく頃、現実社会は目を覚まして動き出す。一度は捨てるつもりでいた悦子の
人生もまた、抗いがたい流れに翻弄されるのだろう。それでも彼女の意志は遠く濁流の果てに見据えた対岸に
向かって拙い力で泳ぎだした。
「必ず迎えに行く」
「待ってるよ、ヨシくん」
 最後に短いやりとりを交わして別れた俺たちは、もう後ろを振り返らなかった。
 朝の新宿西口を勤勉な日本人が行き交う。見るからに場違いな俺はその流れをすり抜けて、自宅を構える裏
路地を目指した。
 何を変えられるのだろうか。分からなかった。きっと、その答えを導き出すことから始めなければならない。
 新宿中央公園の緑を視界の端に入れながら、いつもはゆっくりと歩いて下る坂道を足早に駆け下りた。心臓が
疼きながら、いつもより早い鼓動を刻んだ。

[fin]



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