【 夏子の初体験 】
◆RXTd1d7x/I




30 :No.08 夏子の初体験 1/5 ◇RXTd1d7x/I:07/07/22 20:21:21 ID:GvVVMK6k
「単なる噂話だ」と自分に言い聞かせたとき、悲鳴のようなカラスの声を耳にして、夏子は顔を上げた。
 周囲を里山に囲まれた水田が、山々の稜線の向こうに沈みかけている夏の夕日を淡く反射している。
 道は山沿いに緩やかなカーブを描き、暗い林道に続いていた。
両側から木々が折り重なるように林立するその道は、空も見えぬほどに生い茂った葉に頭上を覆われ、
夕刻ともなれば足元が覚束なくなるほどの闇に包まれる。
 不意に、水田に平行して走る側溝の手前から一匹の黒猫が躍り出て、畦道のカラスに飛び掛った。
カラスは再びガアと鳴き、翼を広げて夕焼けの空に飛び立っていく。
黒い炎が燃え狂うようなその姿に悪い予感を覚え、夏子の脳裏に不吉な記憶がよみがえる。
 噂を耳にしたのは、ついさっきのことだった。
「何人も人を殺した殺人鬼が、警察の手を逃れて郷栖地区に潜んでいるんだって」
 夏子の横を歩く女生徒の一人が、そんなことを口走った。
 郷栖の集落からは少し離れた廃屋に、それは住み着いているのだという。
「郷栖って、何だか薄暗くて気持ち悪いところだよね」
 別の女生徒がそんなことを言ったが、彼女たちと並んで歩く夏子は口をはさまずにいた。
 規模の小さい地方都市ながら、中心市街地はそれなりににぎやかだった。
スーパーの店先で世間話に興じる主婦や、仕事帰りに居酒屋を物色するサラリーマンなどが
それぞれに街の活気を彩る要素になり、夕刻の商店街は穏やかなにぎわいを見せる。
 山道をひとり帰路についていると、女子生徒たちが並んで歩きおしゃべりに花を咲かせている姿を、
ずっと過去に目にしたような感覚におちいる。彼女たちはそれぞれの家路へと散り散りに別れていき、
バスを乗り継いでこの郷栖地区に来るまでに、夏子は一人きりになっていた。
 夏子は立ち止まり、背後へ顔を向けた。
夜の帳が下り切った東の空の下、彼女が歩いてきた道の先は暗く、薄闇が覆っている。
人影はなかった。ただ、人の気配がしないかといえば、そうでもない。
 先程から、誰かの視線を感じていた。

31 :No.08 夏子の初体験 2/5 ◇RXTd1d7x/I:07/07/22 20:21:42 ID:GvVVMK6k
 夏子は立ち止まり、振り返った。視線の先で、雑木林の中から小さな白い顔がこちらを見つめている。
小さな男の子だ。喉までせり上がってきた悲鳴をかろうじて飲み込み、夏子はその目を見返した。
まだ5歳くらいだろうか。身長は背の高い雑草に届かぬほどだ。何かを量るような光を瞳にたたえ、
左手には黒く毛羽立ったものをぶら下げている。
 おかしい。
 先刻、見たことの無い男が前方から歩いてきたのに気付き、夏子はそっと雑木林の中に分け入って、
木の後ろに隠れた。たるんだ顎にゴマ塩の無精ひげが目立つその男が、
口を半開きにしながら何かぶつぶつと呟きながら歩み去って行くのを、息を殺してやり過ごした。
 人気の無い道を女ひとりで歩くため、常に人の気配には敏感になっているつもりでいたのだが、
その夏子に気付かれず、子供は突然現れたような印象があった。
 所々に色の濃い汚れが目立ってはいるが、子供は上等な服を身に着けている。
郷栖集落の、郡司と書かれたひのきの表札がかかった、立派な門構えの屋敷に出入りしている子供かもしれない。
明瞭には憶えてはいないが、顔が似ている。
「郡司さんの家の子でしょ」
 夏子の問いかけに、子供は無表情なまま黙っている。
肯定も、否定の色も知覚させないその顔に夏子は言い知れぬ不安を感じ、次に発する言葉に迷った。
ひぐらしの羽音が、二人の間に生じた沈黙を縫うように白々しく辺りに響き渡る。
「ぼく、名前は?」と、夏子は思いついた言葉を口にした。
 ぱかっと、子供が口を開いたが、そこから言葉を発することはなかった。
弛緩したその表情からは、動揺する夏子を格下の人間と認識したような傲慢さすら感じさせる。
「何とか言いなさいよ。喋れないの?」
 言葉に力を込め、夏子は子供を睨んだ。
相手はまだ年端のいかぬ少年だという思いが無いではなかったが、
ささくれ立つ気持ちが声に出てしまうのを抑えられなかった。
 子供はただ、ぼうっと夏子を見つめている。
 その黒目がちな瞳に対し、苛立ち通り越した焦燥を感じ、夏子は慌てて視線をそらした。
子供に背を向け、暗い林道へ向けて歩き出す。

32 :No.08 夏子の初体験 3/5 ◇RXTd1d7x/I:07/07/22 20:22:00 ID:GvVVMK6k
 ガサッと、雑草をかき分ける音が背後でした。そのまま、足音が夏子の後を追ってくる。
郷栖集落に住む子供なら、向かう方向は一緒だろう。
 夏子は、歩調を速めた。すぐに、背後の足音が小走りに近いものに変わる。
夏子と一定の距離を保って、子供は付いてきた。徐々に林道の入り口が近付いてくる。
 意を決し、夏子は立ち止まった。背後の足音もぴたりと止まる。
「どうして私の後をついてくるの」
 振り返り、半ば怒鳴るように夏子は言った。
 子供は黙って、上目遣いに夏子を見つめている。夏子の怒気に臆する様子は露ほども感じられない。
 あきらめて夏子が顔を背けようとしたとき、少年の手に握られているものに目が留まった。
毛羽立った塊から黒い液体がぽたぽたと滴っている。目を凝らして確認したそれは、猫の死骸だった。
驚愕に全身がすくみ、行き場に困った視線が、血の滴り落ちる首の切断面を無意識に捉えてしまう。
 ひいっと喉が鳴る。夏子は後じさり、砂利道にかかとを取られて転倒した。
したたかに腰を打って動けずにいる夏子に、子供が歩み寄ってくる。
嫌がる夏子へ押し付けるように、猫の骸を突きつけてきた。
「あ」
 服が汚れるのも構わず、夏子は尻をついたまま砂利道の上を後じさりする。「あんたが殺したの?」
 夏子の悲壮な問いに、初めて満足げな笑みを浮かべ、少年がうなずいた。
「オレが殺した」
 夏子は慌てて立ち上がり、子供から逃げるように夢中で走り出した。
 暗がりの林道に入り、日の光が届かぬほどに木々の葉が茂る中を惑うように走る夏子の後を、
引き離されること無く子供が付いてくる。息が上がり、前屈みに数歩よろめいて、夏子は立ち止まった。
林道の入り口の明かりも見えなくなり、道は既に夜になったような闇に包まれている。
「ねえ」
 夏子は振り向いた。
「どうして付いてくるの?」
 子供は、黙って上目遣いにこちらを見ている。
いつの間にか猫の死骸はその小さな手から無くなっていた。どこで落としたのかと、
夏子は自分が走ってきた道に目を泳がせたが、視界はほとんど夜のそれに近かった。
地面に小動物の死体が転がっていたとしても、視認することは困難なほどに。

33 :No.08 夏子の初体験 4/5 ◇RXTd1d7x/I:07/07/22 20:22:17 ID:GvVVMK6k
 そんな夏子の困惑を目にして、またしても彼は形のいい唇の端を上げて笑った。
 どうやら、何事にも純粋に驚く夏子を、子供は気に入ったようだ。
自分の意図したとおりに動くオモチャを弄ぶような感覚なのだろう。
先程の猫にしても、彼の無邪気に近い残虐性の犠牲になったに違いない。
 ふと、夏子は最近目にした新聞記事を思い出した。
このあたりで動物の死骸が多数発見されているといった内容で、
蛙、鳥、猫などの切り刻まれた死体が見つかっているという。
「あの猫、どうして殺したの」
 夏子が問うと子供はちょっと考え事をするように首を竦め
「動物を苛めたらダメって、コウタに言われたから」と答えた。
コウタとは、彼の知り合いの子供だろうか。その名を口にした時、
子供の顔に侮蔑と嫌悪の色が色濃く浮かんだ。
「ダメって言われること、どうしてするの」
 おそるおそる聞く夏子に「うん」と少年は満足げな笑みを浮べる。
「だって、オレの方が強いから」
「そうなんだ」
 夏子はにっこり微笑んだ。
「強いんだね、ぼく」
「オレ、最強だよ」
「じゃあ、おばちゃんが強い子にいい物あげるからおいで」
 夏子は少年を手招きし、暗い林の中に伸びる細い獣道に入っていった。
しばし間を空けて、子供も後を付いてくる。
「おい」
 しばらく歩くと、不満と不安の入り混じった声で子供が呼び掛けてきた。
「どこまで歩くんだよ」
「おばちゃんの家だよ。お前の声が、他の人に聞こえないくらい森の中さ」
 夏子が笑って答えると、子供の目にはっきりと怯えの色が浮かんだ。

34 :No.08 夏子の初体験 5/5 ◇RXTd1d7x/I:07/07/22 20:22:34 ID:GvVVMK6k
「オレ、もう帰る」
 踵を返し、走り去ろうとする子供の髪の毛を掴み、夏子はバッグから包丁を取り出した。
子供がはっと息を飲む。
「たすけ」と救助を求める叫び声を上げたその白い喉に、刃を振り下ろした。
鮮血が迸り、夏子の顔から胸元にかけて熱い飛沫が降りかかる。
どっと地面に倒れ伏した子供の喉から、ヒューヒューと乾いた音が間歇的に続き、やがて止んだ。
「可愛げのない子だよ」
 子供の骸を見下ろし、夏子は毒づいた。
 商店街で夏子の脇を歩いていた女生徒たちの噂話通り、
夏子は今までに複数の人間を手にかけてきたが、子供を殺すのは初めてだった。
殺害に伴う気持ちの振幅がもっとあるかと予想していたものの、
平常心を自覚できる程度に夏子は静かな気持ちでいる。
「便所の垢を落とすようなものね」
 靴の先で子供の顎を押し上げると、口の中に溜まっていた血がさらさらと流れ落ちてきた。
 変わり果てたその姿に夏子は笑いかけ、背を向ける。
 ここから少し歩けば、夏子が住み着いている小さな家がある。
何故、あの廃墟のことが噂になってしまったのか夏子には全く心当たりが無かった。
或いは、あの子供に対してそうであったように、
小さなものへの油断から廃墟への出入りを目撃されたことに気付かなかったのかもしれない。
 いずれにしろ、地元の子供が行方不明になったと知られれば集落に動揺が広がり、
下手をすれば山狩りが始まるだろう。
「引越ししないと」
 林の中の隠れ家に向かって歩きながら、「私、子供嫌いだったんだねえ」と夏子は呟いた。
子供を持ったことのない夏子にとって、そんなことは今まで自覚すること機会が無かったが、
思いもかけない形でそんな事実に気付かされ、少なからず彼女は動揺していた。
考えてみれば「嫌いなもの」と「そうでないもの」が夏子の価値観のほとんどだった。
「でも」
 次なる獲物への想像を巡らしながら、夏子は微笑んだ。
人殺しは、楽しい。




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