【 Einst/系譜 】
◆DppZDahiPc




22 :No.06 Einst/系譜 1/4 ◇DppZDahiPc:07/07/22 20:18:08 ID:GvVVMK6k
 十年以上が過ぎて思い出してみると、幼かった頃の感情は思い出すことができないのは
なぜなのだろうか。
 人間が記憶できる限界だと言われれば、そこまでの問題だけれど。あの頃――いや、限
定的な話ではない。俺が生きてきたこれまでの間に考えたことや思ったことは、確かに俺
の中にあったはず。
 なのに俺すら気づかない内に失われているのはどうしてなのだろう。

 幼稚園に通っていた頃、父がいないというだけでイジメにあった。
 イジメといっても、今の俺からすればたいしたことはない、ただのじゃれあいのような
ものだったが。小さな俺にとっては、幼稚園に行きたくなくさせるだけの効果があった。
 思えば、その時には性格が出来上がっていたのかもしれない。辛いことから直ぐに逃げ
出し、現実から目を背ける――情けない。そうと自分で言えてしまう性格。
 あの時は母さんが助けてくれた。
 行きたくなければ行かなくていいと言ってくれた婆ちゃんの影に隠れていた俺に、母さ
んは言った。
「いい? お父さんは東京でお仕事してるの。きみが元気に育てるように、遠くからちゃ
んと見ててくれてる。だから、友達にまた同じこと言われたら、『東京にいるんだ』って
言い返してやりなさい」
 それが最初だった。
 物心ついてから初めてできた父親像、それが『東京で働いてる』
 幼い俺には、たったそれだけで充分だった。俺には母さんがいて、姉さんがいて、爺ち
ゃんと婆ちゃんもいる。そこに輪郭だけとはいえ、父親まで加わったのだ。不足している
ものなんてなかった。
 けれど、それから少しして幼稚園で七夕会という父兄参加のイベントが行われることに
なり。土曜ということもあって、みんな父親が幼稚園に来ることから浮かれていた、おそ
らく俺も。
 だから、みんなが親子揃って参加している中、俺だけ母さんしか来てくれなかった寂し
さが生んだ幻影かも知れない。それから十年間、母さんに聞くまで、俺はその日父さんが
来てくれたのだと思っていた。
 いや、正確に言えば思っている、だ。

23 :No.06 Einst/系譜 2/4 ◇DppZDahiPc:07/07/22 20:18:26 ID:GvVVMK6k
 母さんから「お父さんは来なかった」と否定された記憶は、否定されても記憶として残
っている。夢の中の父は、ブランコに乗った俺の背中を押していた。
 その夢はいつ形成されたのかは俺には分からないが、その夢を繰り返し見た。
 父の夢を見るたび、俺の中で父に会いたいという衝動は高まっていき。実際に会うと、
父への乾きは増した。
 実際に会った父さんは、野球選手でもスーパーマンでもなく、ただのおっさんでしかな
かったが。それらと同等の価値があったからだ。
 今まで欠けていたピースが埋まりパズルが完成した時のような喜び。
 反抗期を迎えつつあった俺には厳しいこともいう母さんより、会うたび小遣いをくれる
父さんのほうが優しく思えたからかもしれない。
 俺に必要なのは母さんではなく、父さんだと思うようにすらなっていた。
 だから小学校にあがった俺は、半年に一回ペースで会っていた父さんに提案したことが
あった。
「お父さんの家で暮らしたら駄目なの」
 父さんの答えは覚えていない。だが、それから数日とせず仕事から帰ってきた母さんが、
その頃流行っていたアザラシのぬいぐるみを買ってきてくれた。
 それからしばらくは俺は父さんと暮らしたいとは言わかったように思う。そういえば、
あのぬいぐるみはどこへ行ったのだろうか?
 母子家庭。仕事の都合でなかなか俺たちが起きている時間に帰って来れないことから、
子供たちに優しかった母さんは、それから輪をかけて甘くなった。姉さんが叩かれるのを
みたことはあったが、俺は一度も誰からも殴られず成長していった。
 誰か、誰でもいい。俺の甘えた根性をしかりつけてくれる人がいれば――それが甘えだ
と知りながらも、考えてしまう。
 父さんがいないと虐められた頃から十五年弱が経過し、俺は逃げていた。様々なこと、
簡単にいえば現実から。
 誰を責めることも出来ない、逃避を重ねて辿り着いた現実。
 空想を吐くことでしか情緒を維持できない腐った性根。
 三年半勤めたバイト先からも逃避し、無職になった俺を待っていたのは、コールタール
でできた泥沼。

24 :No.06 Einst/系譜 3/4 ◇DppZDahiPc:07/07/22 20:18:46 ID:GvVVMK6k
 たいした学歴もなく、やる気に満ち溢れているわけでもない俺が掴めるような仕事場は
なく。熱意のない俺は、もがくこともせず、沈んでいった。
 母さんはそれでも俺を叱責せず、焦らずやればいいと言ってくれた。
 母さんは誰よりも優しい、けれどその優しさは今の俺には必要ないもの、俺に必要なの
はもがく力。それは予想もしていなかった方向から与えられた。
 職探しに行き詰っていた俺へ母さんが告げたのは、優しい言葉ではなく。父さんが胃癌
で入院しているという、直ぐには飲み込めない言葉だった。
 俺は幾つかの疑問を抱いた。「いつから?」とか「治るのか?」とか、だが俺が考えて
いたより胃癌というのは、初期に発見できれば簡単に取り除けるものだそうで、盲腸と変
わらないらしい。
 ただ父さんの場合、以前胃を手術していたせいで、胃が普通の人の三分の二しかなく。
癌を取り除く為には、胃を全て摘出する必要があるのだと教えられた。
 これまで十数度と会ってきたというのに、そんな傷のこと知らなかった。
 それで、俺は初めて自分が父さんの何も知らないということを思い知った。
 今まで思っていた父さんは、俺が考えてきた空想でしかなく、現実の父さんとは別だと
いうことも。
 でもそれは当然のことだ。
 俺が知るのは、俺が知る一面だけでしかなく。母さんだって姉さんだって、俺が考えて
いるのと違う顔を持っていてもおかしくない。
 そこへ加えて、この十数年間東京にいるものだと思っていた父が、俺と同じ街に暮らし
ているのだと聞かされて。胃癌だということよりもショックを受けた。
 父と暮らしたがっていた俺にそのことを伝える危険性を考えれば、言わなかったのは正
しいことだともいえる。
 両親に騙されていた。そうとすら考えてしまった。
 人と人なんてそんなものだと斜に構えることできたが、寂しくて、そんな虚勢を張るこ
とすら出来なかった。
 胃癌になってから会った父は以前よりやつれたように見えた、入院してから二日足らず
だというのに。寝巻き姿と洗うのが面倒だからと剃り上げられた坊主頭は、それだけ見た
目に衝撃があった。
 父さんも俺が無職になったことへ何も言わず、入院しているというのに小遣いをくれた。

25 :No.06 Einst/系譜 4/4 ◇DppZDahiPc:07/07/22 20:19:00 ID:GvVVMK6k
 いつもなら直ぐに手をつけるというのに、財布に入れることすらできなかった。
 それから一週間もせず、俺はアルバイトを見つけることができた。
 父さんは食道と大腸にも癌が見つかっても、数少ない趣味である競馬だけはやめられな
いようで、俺を呼び出すと検査で出かけられそうにない自分に代わって買って来るように
言った。
 いや、そうでもないとやっていられないのかもしれない。異常に際して異常な対応を行
うよりかは、フェイクであっても平常であるほうが楽なのかもしれない。俺には分からな
いが。
 俺は話半分で馬券の買い方を聞いて、あることを父さんに訊いた。
 幼かった頃、七夕、ブランコに乗った俺の背を押してくれた記憶。母が父じゃないと否
定した夢。
 父さんは気まずそうな顔をして、頷いた。
「母さんからは行くなって言われてたんだが。その、少し近くを寄る用事があったから、
少しだけな」
 そういって苦笑いする父さんは、俺の尻を叩き。
「言うなって言われてたんだから、母さんにはいうなよ。つか、早く行け。今日もバイト
あるんだろ」
 俺は頷き、病院を出た。
 何かが埋まったような、満たされたような、そんな感覚。
 時間と共に記憶は薄れていっても消えることはなく、たしかにここに存在している。感
情も思い出も、何もかもが現在の俺を形成する要素なのだから。
 今はコールタールの中、もがくことしかできずとも、いつかはそこから抜け出すことが
できるはずだ。
 小遣いを渡すことでしか子供へ親心を示すことのできなかった不器用な父さん。
 どうしても父性を求めてしまう俺を突き放さずにいてくれた、不器用だけれど優しい母
さん。
 どうしようもなく遠回りで、つたない手段だったけれど、確かに俺へ届いたのだから。
もがくことを、歩み続けることを止めない限り、いつかは抜け出せるはずだ。
 ――必ず。




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