【 「孤独な花」 】
◆yUaiYxytCc




17 :No.05 「孤独な花」 1/5◇yUaiYxytCc:07/07/22 20:14:59 ID:05UVLOw8
今日も私は、このドアの前に立つ。しばらくの間、目を閉じて、微かに聞こえるピアノの音色を拾い集める。
これが今の私に許されている、唯一の楽しみ。そして、唯一の慰み。
…いつも感じる。どの曲も、どこか空しいと。

曲が終わるのを待っていたかのように、練習室のドアがノックされた。
「失礼致します。ルジェ様、お部屋のお掃除に参りました」
両手一杯に掃除用具を抱え、人懐っこい笑顔を浮かべた少女が静かにドアを開けて入ってくる。最近メイドとして入ったエミールだった。俺より七つ上の十七歳だ。
「申し訳ありません。掃除が済むまで、お部屋でお待ち下さい。すぐに済ませて報告致しますわ」
どういう訳か、彼女は常に笑顔を絶やさない。反対に、俺はいつも人形のような表情を浮かべているだけだ。
「いや、いい。ここで待っている」
エミールは一瞬だけ表情をなくした。しかし、すぐに困ったような笑みを浮かべる。
「ですが…」
俺は黙って首を横に振った。そして、邪魔にならないように部屋の隅にピアノ用のイスを運んで座った。エミールは俺を見て微笑むと、掃除に取り掛かった。
最初に、さっきまで俺が弾いていたピアノの掃除を始める。
エミールは、元はアミアン家の令嬢だった。
何故メイドなんかに成り下がったか。
俺の家、ブラン家によってアミアン家は潰されたらしい。
詳しい事情を俺は知らない。親父や兄貴達が何をしたかなんて、知りたくもない。
そして、ブラン家は没落したアミアン家の一人娘を受け入れることにした。
下働き、メイドとして。
アミアン家にとって、これほど屈辱的なことはないだろう。
それを、俺の家はあえてやったのだ。
俺はただじっと、エミールの働く姿を見つめていた。
やはり、他のメイド達と違って、動きに戸惑いのようなものを感じる。やはり、今まで掃除らしい掃除をしたことがなかったのだろう。
俺がここにいることによって、エミールにプレッシャーを与えていて、さらに動きをぎこちないものにさせているのかもしれない。
「エミール」
「はい」
エミールは手を止め、俺の方に振り返った。
「俺がいると、掃除しにくい?」
エミールはただ笑っただけだった。つまり、俺は邪魔らしい。エミールは再び手を動かし始める。


18 :No.05 「孤独な花」 2/5◇yUaiYxytCc:07/07/22 20:15:45 ID:05UVLOw8
窓から昼下がりの陽が強く差し込んだ。陽に照らされ、俺とエミールの茶色の髪が蜜色に透けて光った。
不思議で堪らない。何故、エミールは俺達ブラン家を恨まないのか。エミールからは恨みなどは一切感じられない。伝わってくるのは、戸惑いと懸命さ。エミールはただ一生懸命に仕事をこなし、覚えようとしている。
家族と引き離され、挙句敵の元でただ働き同然で使用人をさせられている。なのに、何故辛そうな顔をしないんだ。どうして俺達を恨まないんだ。
「ルジェ様」
エミールの呼び掛けに、俺はハッと現に戻された。
「ルジェ様、ピアノはお好きですか?」
人懐っこい笑顔。どうしたらそんな風に笑えるのだろう。
「…好きじゃないよ」
俺は顔をしかめ、そう答えた。正直な気持ちだった。ピアノなんて大嫌いだ。
「でも、毎日たくさん練習してらっしゃいますし…」
「それが決められた日課だから」
「…そうなのですか」
エミールはどこか寂しそうに笑った。
「私はピアノが大好きです。弾くのも聞くのも大好きですわ」
エミールも元は俺と同じ立場の人間だ。ピアノくらい弾けてもおかしくはない。
「私、もうピアノは弾けなくなってしまいました。けれど、毎日ルジェ様が弾かれているのを聞けて、嬉しいのです」
正直、俺は困った。あんなただ楽譜通りに弾くだけの演奏を好きだなんて、それがエミールの慰みになっていたなんて。
「…エミールは何の曲が好き?」
ピアノは嫌いだ。だけど、エミールを喜ばせる事ができるなら、これからも毎日弾こう。エミールの好きな曲を、毎日、心を込めて。十歳の俺がしてやれる事なんて、それくらいしかない。
「孤独な花、という曲が好きです」
エミールは嬉しそうに微笑んだ。
孤独な花。
俺はその言葉にドキッとした。まるで、エミール自身のようじゃないか。
「エミールはその曲、弾けるの?」
エミールは笑顔で頷いた。
「弾いてみてよ」
すると、エミールは急に顔を強張らせ、首を横に振った。

19 :No.05 「孤独な花」 3/5◇yUaiYxytCc:07/07/22 20:16:27 ID:05UVLOw8
「いけません!そんな、私はただの使用に…」
「誰にも言わない、俺とエミールだけの秘密。一回聞いただけでもだいぶ弾きやすくなるじゃない。だから、弾いてよ」
「え…」
エミールは俺の言葉に驚き、じっと俺の顔を見つめた。
「俺、その曲練習して上手に弾けるようになる。そうしたら、エミールは嬉しいんでしょう?」
「ルジェ様、どうして…」
「エミール、早く」
俺はエミールに駆け寄って手を取り、半ば強引にピアノへと向かわせた。それ以上は聞いて欲しくなかった。俺自身、何故エミールにそこまでしたいと思うのか、よくわからないのだから。
エミールは鍵盤を見下ろし、その黒い瞳を困ったように泳がせた。
「エミール」
俺は名前を呼び、演奏を促す。エミールは俺の顔を恐る恐る覗く。俺は微笑んでみせた。…微笑んでみせた?
エミールは安心したように微笑み返し、立ったままペダルに足を乗せ、鍵盤に指を置いた。
なめらかに、ゆっくりとエミールの指は踊り、静かで、どこか悲しげな音色が部屋に溢れた。嬉しそうにピアノを弾くエミールが、ひどく悲しく見えた。この寂しげな音色が俺にそう見せているのだろうか。
「…終わりました」
エミールは鍵盤から手を下ろし、横で聞いていた俺に笑みを投げる。
「綺麗な曲だね。…でも、寂しい曲だね」
「えぇ。…では、お掃除続けますね」
俺は部屋の隅の椅子へ戻った。あの音色が耳から離れない。そして、エミールの悲しくも嬉しそうな、あの笑顔も。ふと、思い返す。
―――俺、さっき笑ったよな…。
正直、驚いている。社交辞令の場では、あんなに苦労して笑顔を作っているというのに。
「…エミール」
俺はまたエミールを呼んだ。彼女は正直迷惑しているだろう。しかし、そんな素振りは微塵も見せず、いつものように微笑んで振り返る。


20 :No.05 「孤独な花」 4/5◇yUaiYxytCc:07/07/22 20:16:51 ID:05UVLOw8
「はい」
「エミール…」
言葉に詰まった。何か言いたかった訳ではない、何か聞きたかった訳でもない。ただ、エミールと関わりたかっただけ。
「あ…」
俺は斜め下に視線を落とす。エミールは首を傾げた。そして、クスッと笑い、
「おっしゃりたいこと、忘れちゃいましたか?」
俺は黙ってエミールを見つめた。
「思い出したら、いつでもおっしゃって下さいね」
エミールは窓辺に移り、ガラスを磨き始める。エミールの蜜色に光る髪が綺麗だと思った。

書店に大量に納められている楽譜の中から、一時間かけてあの曲の楽譜を見つけた。漁っている最中、作者を聞き忘れた事を痛烈に後悔した。
俺はそれを買い、帰ると早速開いて譜面台に乗せた。
俺のまだ小さなこの手では弾きにくい曲だ。音を減らさなきゃならないかもしれない。何日かかっても、この曲を完成させてみせる。エミールのために。
俺はゆっくりと、拙くではあるが、鍵盤を叩いた。

「エミール!」
俺は廊下の窓辺に立っていたエミールの背中を見つけた。無駄に広い屋敷中を探し回って、ようやくだ。
エミールは振り返る。俺はエミールの前まで駆けていく。
「エミール、ちょっと来てよ」
俺は有無を言わさず、エミールの手を引いて走り出した。顔が見えないからわからないけど、きっと困惑しているだろうな。
あの日、エミールがピアノを弾いた部屋のドアを開く。俺達は人目がないか確かめてから部屋に入りドアを閉めた。エミールの手から離れ、ピアノの椅子に飛び乗る。
「エミール、聞いていて」
俺は蓋を開き、鍵盤に指を、ペダルに爪先を乗せる。
あの日のエミールのように、なめらかに、うたうように、鍵盤を叩いた。
これほどピアノを弾くことを気持ちいいと感じたことはない。
俺はエミールのことを思いながら、白と黒を一つ一つ真剣に追いかける。
…演奏が終わる。
エミールを見ると、彼女は俺を見つめたまま両手を口に当てて、涙を流していた。
俺は驚いて椅子から飛び下りてエミールの元に駆ける。


21 :No.05 「孤独な花」 5/5◇yUaiYxytCc:07/07/22 20:17:14 ID:05UVLOw8
「エミール…?」
どうして泣いているのかまったくわからない。俺は涙を流し続けるエミールをただ見上げるしかできなかった。
エミールはしゃがみ、ぎゅっと俺の肩を抱き締めた。親にすらこんなことをしてもらったことがない。俺はますます混乱した。
こどもをあやすように、俺はエミールの頭をそっと撫でた。しかし、逆効果だったらしい。エミールはついに声を漏らして泣き出した。
…エミールはとてもいい匂いがした。香水の匂いなんかじゃない。柔らかで、落ち着く香りがした。できることなら、ずっとこうしていて欲しい。もちろん、泣かれたままでは困るけど。
「エミール…どうしたの?」
俺は静かに尋ねる。
「ルジェ様、ありがとうございます…!私、本当に嬉しくて…」
エミールは俺から離れ、両手で涙をぬぐった。
「とっても上手でした。綺麗で、繊細で…」…違う、そうじゃない。エミールはもっと、別のことで泣いている。俺はなんとなく、そう感じた。そして、得体の知れない恐怖が体の中を走った。
「エミール、俺毎日この部屋でこの曲を弾くから、だから毎日聞きに来て。ドア越しでもいいから…毎日、毎日聞きに来て!」
どうしてかはわからないが、俺は必死でエミールに訴えた。嫌な胸騒ぎがした。
エミールは立ち上がり、俺に今までで一番綺麗な笑顔を見せてくれた。そして、静かに部屋から出ていった。部屋にはドアの閉じる音だけが響いた。

それから、エミールは姿を消した。
なんでも、ブラン家より少しばかり勢力のある家のご子息が、エミールをいたく気に入り、その子息にエミールを譲り渡したらしい。もちろん、表向きにはエミールは幸せな花嫁だ。
…だからあの時、エミールは泣いたんだ。
これからの生活に、自分の運命に、そしてきっと…あの演奏で、俺の想いに気付いて泣いたんだ。
腹の中が煮えているようだ。悔しくて、腹立たしくて、寂しくて、悲しくて、俺は声を殺して涙を流した。
誰もいない、黒く艶やかなグランドピアノがある広い部屋の隅で、エミールの姿を眺めたこの場所で、俺は膝を抱えて小さくなり、声を殺して泣いた。
エミールの匂いは、もうしない。

fine



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