【 珍酒の里 】
◆DttnVyjemo




38 :No.10 珍酒の里 1/1 ◇DttnVyjemo:07/07/15 23:32:54 ID:Zq2WaRw6
 信越国境にほど近い柿谷村は、かつては欠谷村と記していた。村の中央を流れる
鳶野川は、東を芦野山系、西を天狗原山系に挟まれた谷間を流れているが、丁度
それが欠谷村のあたりで開け、また、このあたりだけ地面が隆起しているため、
確かに谷が欠けているようにも見える。歴史を遡ってみれば、室町後期の武将・
嘉納法眼がここに砦を築いた際に「欠谷原之砦」としたのがこの地名の最初で
あり、それまでは何と呼ばれていたか判っていない。「西文寺略年代記」に
登場する「菱ヶ原」または「葦ヶ原」という名がそれではないかという学説が
あるが、これも定かではない。いずれにせよ、室町時代以前は無人であるか、
落ち武者や山賊などの逐電者が隠れ住む程度であったと推測されている。

 さて、そこから時は下って江戸も後期にさしかかろうという寛政年間。幕府の
特産品推奨という名目の減反政策により、欠谷村でも米以外の作物に力を注ぎ
始めた。中でも水はけの良い欠谷で作られる良質の葡萄は、干して葡萄菓子に
したり、葡萄酒にするなどして好評を博すようになった。だが、山間の村である
欠谷はどうしても貧しい村であった。幸いにして村には温泉があり、これに
珍果を用いた食べ物や酒を出せば、中山道を通る旅人がこの村に立ち寄って
些かの路銀を落としてもいこうということで、今でいうところの観光村おこしを
する運びとなり、中山道のあちこちの辻に斯様な看板を立てた。

「里之谷欠、里之酒珍」

 これを見た旅人は、こんな山奥にさてどんな酒池肉林があったものかと期待に
股間を膨らませながら欠谷を訪れたが、確かに珍酒こそあるものの、鄙びた
温泉村であり、旅人達はみな釈然としない顔でこの村を発ったという。看板に
騙されて訪れた旅人も次第に減り、結局欠谷の貧しさは明治まで続いたという。



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