【 愚か者と悪魔 】
◆HRyxR8eUkc




30 :No.07 愚か者と悪魔 1/2 ◇HRyxR8eUkc:07/07/15 22:37:53 ID:Zq2WaRw6
 人の欲とは何物だろう。それは時には人の形をして親しげに語りかけるが、その実
中身の無いがらんどうである。でなくては、人が何かをし得るということも無い。
その空洞で、自分を見る者や自分自身の目を自分から反らすことが無い限り、何事も
成就しないからだ。
 ある所に一人の男がいた。そして一人の悪魔がその傍に立っていた。
その男はただ己の憂鬱と日々の退屈から逃れるために悪魔を呼び出したが、既に後悔
し始めていた。ただ勿論、早晩男はその壜の栓を抜いただろうし、抜かずに壜を捨てて
しまえば一生悔いを残すことになっただろう。
「望みは何だ」
「無いが、せめて私を大金持ちにしてくれ。一生金に困らない程に」
 男は望みを叶えられ、山程の黄金を手に入れた。だが男は恐れるかのようにそれを
土の下に埋めた。
 男はその金を恐れたのだ。黄金は手に入ったが、既に手に入ってしまったことであるから、
自分の所業については恐れなかった。恐れても仕方なかったのだ。しかし手に入ってそこに
在る黄金に対しては、何か背筋が凍るような不安というものを抱いたので、男は仕方なく
黄金を埋めた。そして男は安心して、そこを離れた。
そのまま男は、暗くなるまで森の奥へと入って行き、そこに留まった。悪魔は出て来て言った。
「お前は金も無くて困っているようだな。良かったら俺が助けてやろう」
「わかった、ではここに大層な屋敷を建ててくれ。そこに俺の召使を住まわせて、だらしなく
淫蕩に耽って過ごしたい」
「随分な口を利くな。良かろう、俺が言ったことだ」
 男はそこに造られた豪奢な屋敷に、大勢の使いの者と共に住むことになった。
ひっそりとした森の中に屋敷が立っているのは異様でもあったが、屋敷のある森の奥深くまで
やってくる人間は誰もいなかった。
 男はやがて老い、悪魔はまた男の元へやって来た。
「調子はどうだ」
「悪くない。だが何も起こらん」
「お前は埋めた黄金を掘り出しにも来ない。悪いがこのまま老いてもらう訳にも行かんのだ」
「なら私は今一度、妻を娶って平凡な暮らしがしたい。不満不平を言い、身をやつして
暮らすような日々だ。妻が子をもうければそれを育てる。俺が長く生きれば他人の面倒に

31 :No.07 愚か者と悪魔 2/2 ◇HRyxR8eUkc:07/07/15 22:38:09 ID:Zq2WaRw6
なることもあるだろうが、それでも結構だ。兎に角俺は、平凡な暮らしがしたいのだ」
「それは困る」
 悪魔は言った。
「お前には不幸になってもらわないと困るのだ。俺を呼び出したからには、お前は深い絶望の
淵に立って、そこで苦しんでもらわねば俺の立つ瀬が無い。お前が今更そんなことを言い出し
ても、最早俺にはどうすることも出来ん」
「そうか」
 男は言った。
「別に俺は格別自分が不幸だとは思っていない。それどころか、今の所俺は幸福だ。
俺は人より不幸かも知れんが、幸福なのかも判らん。そう云うことなら、俺はここでこのまま
暮らしていたいと思う。実際の所俺はそれで全然困らないし、これで十分なのだから。俺は
最近それがわかったのだ。俺は一生ここを出て行かないで暮らしたい」
 悪魔はそれを聞くと、笑って言った。
「そうかそうか、ではお前が望む通りにしてやろう」
 たちまち辺りの森は殺風景なビルとマンションに変わり、高架と鉄道のレールが縦横に通る
市街地の中心になった。屋敷は消え失せ、代わりにプラットホームになった。男は何時の間にか、
プラットホームの中心に立っていた。
 悪魔の入った小瓶は、消えて無くなってしまった。
もう永遠に見つかることはないだろう……悪魔もその小壜も。
またその正体を知る人間も二度と現れない。そんなものはもう無いのだから。





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