【 母さんの櫛 】
◆DppZDahiPc




24 :No.06 母さんの櫛 1/6 ◇DppZDahiPc:07/07/15 22:01:59 ID:Zq2WaRw6
 母さんからもらった櫛がなくなっていた。
 歯が欠けて櫛としては使い物にならなくなっていたものだから、なくなって困るという
わけではないのだけれど。
 なんとなく気になって探してみたら見つからず、あるはずのものがあるはずの場所にな
いと気になるのが人の性質というべきか。気付くと探し始めてから二時間ほど経っていた。
 鏡台、化粧箱、仏壇、神棚、洋服箪笥。ありそうな場所は大概探したように思えるが、
これでも見つからないとなると、いったいどこへいったのだろうか。
 いつもは鏡台の引き出しに入れて、外へ持ち出すということはなかったのだから、家の
中にないとおかしいのだが。そもそも鏡台から持ち出した記憶はないし。
 と、考えている場合ではなかった。
 こうしている間にも、刻一刻と美咲と雄二さんが帰ってくる時間が近づいてきていると
いうのに、櫛を探していて夕食を作るのを忘れていた。
 それに昨日美咲の友達が泊まりに来ていたからと奮発し過ぎて、冷蔵庫の中身を空っぽ
にしてしまった。最後の頼りとも言える卵も朝食で出してしまったし、冷蔵庫には電源を
落としてもいいと思えるほど何もなかった。
 何か買いに行ったほうがいいだろうか、それとも雄二さんに買ってきてもらったほうが
いいだろうか。
「……外出たくないなぁ」
 もう夕方だというのに外ではさんさんと太陽が輝いている、家の中とスーパーマーケッ
トの中はクーラーが効いているけれど、外はクーラーが効いていないし、直射日光も浴び
なければならない。
 けれど、疲れているであろう会社帰りの雄二さんに頼むというのは酷なことだし、雄二
さんは妙に脂っこいものが好きだし、アイスも一緒に買ってきたいし。ここはやっぱり自
分で買いに行くしかないのだろうか。
「ただいまー」
 まるでその考えを推すように娘の声が玄関の方から聞こえてきた。
 たまには外に出るか、私は重い腰を上げて、一先ず玄関へ美咲を出迎えに向かった。

*     *     *


25 :No.06 母さんの櫛 2/6 ◇DppZDahiPc:07/07/15 22:02:16 ID:Zq2WaRw6
 美咲に留守番をさせてスーパーまで歩いていくと、思いのほか買いすぎてしまった。ビ
ニール袋の持ち手が掌に食い込んで痛かったが、オレンジジュースがいつもよりやや安か
ったので良しとしよう。
 なんでそんなに好きなのかは分からないが、美咲あまり食べるほうでもないというのに、
オレンジジュースだけはあればあるだけ飲んでしまう。美咲にとってオレンジジュースは
車にとってのガソリンみたいなものなのかもしれない。
 だから二本買ってきた内一本は冷蔵庫に容れておくとして、もう一本はどこか見つから
ないところに隠しておかないといけない。
 サラダ油とか醤油とかと一緒の場所なら――ああ駄目だ、あの子たまに料理するからば
れてしまう可能性があるかぁと考えている内に、家に着いてしまった。
「ただいまー。て、あれ? あんた」
 美咲は居間のテーブルに教科書を広げた上に小さな鏡を置いて、櫛で髪を梳いていた。
「あ、お帰りお母さん。早かったね」
 そういってえへへと照れたように笑う美咲の手に握られているのは、私が母から貰った
櫛だった。
「その櫛、あんたがもってたんだ」
「うん、これ綺麗だからいいなあって思って」
 琥珀色の櫛は確かに綺麗だけれど、ぼろぼろの櫛を使わずとも美咲には小学生になった
時に買い与えた、マイメロディちゃんが描かれたピンク色の櫛があるはずなのに、そう思
って訊くと。
「あれは、その、踏んづけて壊しちゃったの……ごめんなさい」
「いやいいどさ」
 そんなに熱心に梳くほど髪ないじゃないという言葉は、飲み込んだ。男の子に見間違わ
れるようなショートカットにしているとはいえ、美咲も女の子なのだから。もしかしたら
好きな男の子でもできたのかもしれない。
「あ、オレンジジュースだ、飲んでもいいよね」
 美咲はそういうと答えも聞かず、コップを取りに行ったのだろう流しへ走っていった。
「お母さんの分も持って来てね」

*    *    *

26 :No.06 母さんの櫛 3/6 ◇DppZDahiPc:07/07/15 22:02:31 ID:Zq2WaRw6
 それから一ヶ月ほどして、美咲がお腹が痛いというので病院へ連れて行ったのだが、検
査結果は直ぐに出ず別の病院への紹介状を渡され。その理由を訊ねると、美咲の症状は癌
に酷似しているからと言われた。
 私だけに伝えられたそれは、美咲に伝えることは私にはできなかった、まだ似ていると
いうだけで伝えても不安がらせるだけ。だから雄二さんには伝えたものの、美咲には黙っ
ておいた。
 だが美咲は気付いているかもしれない、会社がある時間だというのに雄二さんも病院に
付いてきてしまったことや、通いなれた小児科ではなく街にある大学病院まで行ったこと
で、なんとなくでも勘付かれてしまう土壌はあった。
 私の思い込みかも知れないが、大学病院へ行った日以来美咲の様子は少し変わったよう
に見えた。
 いわれなくともしていた勉強にあまり手をつけなくなったことや、外に出て遊ぶ機会が
増えたこと。なにより、前は邪魔だからと短く切っていた髪を、伸ばすようになり。男の
子に見違われるような髪も、今では肩に届くほどまで伸びていた。
 ……いや、違うか。髪を伸ばし始めたのは大学病院にも地元の小児科に行く前のことだ
から、関係ないことだろう。
 とにかく美咲はこれまでしてこなかったことをするようになっていた、それはまるで検
査の結果胃癌だと分かると知っていたかのようにも見えた。
 美咲に癌であること伝えても、美咲はそれほど驚いた様子を見せず少しの間ぽかんとし
て「そっかぁ」とだけ呟いた。
 今の胃癌は早期発見さえできれば、昔に比べれば簡単に取り除くことができると言われ、
美咲は大学病院から程近い場所にある癌専門の医療施設に入院することとなった。
 二日に一度といったペースで検査を受ける美咲に付き添ったが、私に出来ることといえ
ば美咲が退屈しないようにと話し相手をすることくらいだ。
 肩にかかる程度に伸びた髪を梳きながら、無言でいるのも耐えられず、思いつくままに
口を動かしていた。
「母さん――ああ、あんたのお婆ちゃんもね、私が美咲くらい小さかった頃癌になって入
院したことがあったのよ。その時もこうして髪を梳いてやったっけ」
「へー。ねえお婆ちゃんてどんな人だったの?」
「あれ、あんた会ったことなかったっけ」

27 :No.06 母さんの櫛 4/6 ◇DppZDahiPc:07/07/15 22:02:47 ID:Zq2WaRw6
 産まれてからも何度か美咲を連れて帰省したと思ったが、思い違いだっただろうか。
 美咲は小さく首を横に振って「ないよ」と答えた。
「そうかぁ。お婆ちゃんはねえ、なんていったらいいのか几帳面な人ね」
「几帳面?」
「そう、綺麗好きというかなんというか。入院してる間も、誰も気にしないだろうにお化
粧はかかさなかったし。そうそう、手術の日にも人前に出るんだからってお化粧しようと
したっけ」
 記憶の中の母さんはいつも綺麗で、いつも優しかった。母さんが入院していたのが私が
十歳の頃だから二十五年も前。あの頃は母さんのようになりたいと思っていたけれど、果
たして今の私はそうなれているだろうか。
「……? どうしたの、変な顔して」
 髪を梳く手を止めたからか、美咲が心配そうな顔でこちらを見上げていた。
「なんでもない。それよりも、私の顔が変だって言うなら、私とそっくりなあんたはどう
なのかなあ。ほれ、ほれほれっ」
 美咲の頬を掴み左右に引っ張ると、美咲はベッドの上で悶えて笑い声を上げた。
「やなこと言うのはこの口か、この口かぁっ」
「ひゃっ、あはっ、やめてよー、もー」
 この子が私に憧れてくれなくとも、幸せに暮らせればそれでいいか。私の中にあった疑
問は娘の笑顔の前に失せた。

*   *   *

 それから二日ほどして、美咲には胃のほかに食道にも癌があることが分かった。
 早期発見できたおかげで、放射線と抗癌剤による治療で取り除くことができるといわれ、
私はほっとした。だが抗癌剤には以前と比べれば軽微であるものの、副作用があると説明
されて少しだけ気になったことがあった。いや、思い出したというべきか。
 母さんの時にも抗癌剤を使用し、その副作用で母さんの綺麗だった髪が抜け、みすぼら
しいからと髪を剃った時のことを。
 私は抗癌剤をしようして現れる副作用が、そうでないことを祈った。信じている神様な
んていないから、天国にいるであろう母に祈ることにした。

28 :No.06 母さんの櫛 5/6 ◇DppZDahiPc:07/07/15 22:03:02 ID:Zq2WaRw6
 けれど、抗癌剤の投与を始めてから美咲の身体には、私の望まない副作用が現れ始め。
美咲はまるであの時の母と同じ様に私へ言った。
「このまま抜けてくなら、剃っちゃったほうがいいよね」
 笑いながら言う美咲に、私のほうが泣きたくなってしまったが、なんとか堪えた。
 病院の一階にある入院患者専用の散髪屋には、私たちのほかにお客さんがいなかった。
美咲は気にしない、少なくとも気にするような素振りを見せないだろうが、私が気にして
しまう。
 いくら、前は男の子みたいな髪型をしていたとはいえ、ショートカットと剃ってしまう
のとでは天と地ほどの差がある。いや、その姿が醜悪だというわけではないが、美咲のそ
うした姿を他の誰かに見られたくなかった。
 ようやく、言われなくとも髪を自分で梳くようになって、少しは女の子らしくなってき
たところだというのに。
「あのねお母さん、ちょっと考えたんだけどさ」
「……なあに?」
 髪をバリカンで剃られていく美咲の背後に立っていた私は、鏡越しに美咲の目を見た。
美咲はどこかのんきな様子で笑いながら言った。
「病気治ったらさ、髪伸ばしてみようと思うんだけどどうかなあ。」
「え?」
「こう、お人形さんみたいに腰に届くくらいの長さまで。ねえ、似合うと思う?」
 無邪気に聞く美咲に私は即答していた。
「似合うわよ、私の娘だもの」
 その言葉に美咲は笑い、満足したように頷いた。
 治療は順調に進み、美咲の内部に巣食っていた病魔は消え去って、美咲は闘病生活を終
え再び学校に通うようになった。
 それから三年の月日が流れても再発の兆候はみられず、美咲は中学生になった。
 美咲は言った通りに黒髪を長く長く伸ばし、親の贔屓目か本当に可愛らしく育ってくれ
たのだが、その横顔に見覚えがあった。私は髪を長く伸ばしたことはないから私ではなく、
その横顔は私の母さんに似ているように見えた。
「ねえ、そういえば、なんで髪伸ばしてるんだっけ。邪魔じゃないの?」
 そう訊くと、美咲は小さく笑って。

29 :No.06 母さんの櫛 6/6 ◇DppZDahiPc:07/07/15 22:03:23 ID:Zq2WaRw6
「あのさ、お母さんには嘘ついてたんだけど。わたしお婆ちゃんに会ったことがあるんだ」
「……え?」
 以前美咲に話したときにはすっかり忘れていたが、美咲と母さんは確かに会えたがそれ
は美咲が二歳の頃、その翌年に母さんは震災で死んでいるのだから、記憶にあるわけがな
い。だが美咲はそんな私の心を見透かしたように笑った。
「違うの、本当に会ったわけじゃなくて、夢の中で会ったの」
 美咲はポケットから母さんの櫛を取り出すと、それをぎゅっと握り締めた。
「癌になる少し前にね、夢見たの。誰か分かんないんだけど、とっても綺麗な人で、その
人が言ったの『もう少しで自由がなくなるから、したいことはなんでもなさい』って。あ
の時は分かんなかったけど、後でお母さんから話聞いてなんとなくお婆ちゃんなのかなあ
って……変な顔で見ないで。馬鹿なこと言ってるのは分かってるんだから」
「え、あ、いや……うん、少し驚いただけよ」
 美咲はそれでもぽかんと口を開けてしまっている私の反応が気に食わないらしく、唇を
尖らせたが、そのまま続けた。
「それでね、その時に『じゃあ髪長くしたいなあ』って思ったの、前から憧れてたんだけ
ど似合わないって考えてたから」
「……それが髪を伸ばした理由?」
 美咲は「うん」と頷いた。
「あ、それにね。癌が分かった日の夜にも、お婆ちゃんに会ったんだ。その時は『大丈夫
だよ』ってそれだけしかいってくれなかったけど。それだけで充分だった。髪剃っても、
ちゃんとまた生えてくるから、それからでいいやって。髪を伸ばすことも、お母さんみた
いに綺麗になることも」
「そうな……へ?」
 戸惑う私に、美咲は照れ笑いを浮かべながら答えた。
「お母さんの娘なのに男の子みたいな私、でもいつかはお母さんみたいに、お婆ちゃんみ
たいに綺麗になりたいなあって思ったんだ。だから髪を伸ばしてみたの」
「……そうなんだ」
 美咲の言葉に正直私は戸惑っていた、こんなグウタラな母親に美咲が憧れてくれてただ
なんて、と。驚きと、それより遥かに大きな喜び。
 せめて美咲に失望されないような母親でいよう、私はそう心に決めた。



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