【 ほんとうの望み 】
◆DCalVtagfA




16 :No.04 ほんとうの望み 1/6 ◇DCalVtagfA:07/07/15 20:52:46 ID:Zq2WaRw6
 頭上には白い光を放つ電気器具があり、それが一つではないのか、立方体を隅なく照らし
ている。慣れているとはいえ、見上げると眩しかった。
 水洗の洋式便器の隣には、温い水が出る蛇口。
 その周囲の床だけ傾いているのは、明らかに排水溝のためだ。
 排便中に医師は入ってくるだろうか。特に用もなく便座に座り、前方の扉を見つめながら
考える。便器の対角線上には、何に使うわけでもない机がある。
 以前から不思議に思っていた。ペンの類は一切無い、紙だってない。なんの為にあるの
か。食事用だと思っていたが、そんなものは恐らく週に一度より少なく、机の前に座って、
というのは許されていない。
 あるに越したことはないものだ、と口に出さず呟いた。
 していると、錠の外れる重々しい音が響いた。ここはよく音が響くのだ。敷き詰められた
タイルが反響しているのではないかと考えている。
 扉が内側に開いて、白衣の男が入ってきた。眼鏡が伊達眼鏡と言うことは、何度も会って
いるので解っている。初老の男は私をひと目見て、言った。
「君は死にたいのかね」
 私の腕から外れている点滴のことを言っているのだろう。私は口を開いた。声を出す機
会が少ないせいで、上手く声が出なかった。
「別に死にたい訳じゃない。ただ、こうしていれば食事の機会が増えるんじゃないかと思っ
て」
 嘘ではない。理由の一つではある。
「最近体力の消耗が激しいんだよ」
「妙な考えを起こすな。いいか、君が何をしようと、何も変わることはない。君のやってい
る事は、自殺しているのと同じだ」
 深いため息をつく。
「言っても無駄だろうけどね」
 私は立ち上がって、部屋の真ん中あたりに立っている点滴台を取りに行った。
「また君に注射するけどね、僅かでも長く生きたいなら外さないことだ。ジッとしていろ。
君を甘やかす奴なんて、ここには誰一人いない。さあ、腕を出して」
 ずっと以前に机の下から持ってきていた椅子に座り、投げやりに腕を出した。私はこの注
射が嫌いだった。子供が嫌う理由で嫌っているのではない。

17 :No.04 ほんとうの望み 2/6 ◇DCalVtagfA:07/07/15 20:53:03 ID:Zq2WaRw6
 注射針から液体を飛ばしている医師を、嫌悪の表情で見ながら言った。
「それはやらなきゃいけないのか? 何か変な物入ってないか? それをやった後は気持ち
悪くなる」
 しばしば記憶が飛ぶのもその所為ではないか。そう疑っていた。目の前の男だって風貌や
言動こそ医者の様だが、わかったものではないとすら思っている。
「君のためにやっているんだ。気持ち悪いのは自分の所為だと思いなさい。さあ次は点滴
だ。外すなよ」
 訝しげに腕を確認して、不快感を感じながら、青くなった手を差し出した。消毒液を含ん
だ布が再度腕を這う。
 点滴に繋がれた腕に異物感を感じながら言った。
「次はいつ、固形物を食べられる?」
「さあね。明日かも知れないし一月後かもね。まあ、そのときは流動食かも知れないけど」
「一応ステーキをリクエストしておこう」
 そう言った私を呆れた表情で一瞥して、部屋を出て行った。錠の閉じる音が響く。もうハ
イヒールで歩かれたって、足音は聞こえない。
 扉の対角線上を歩いていき、固いベッドに寝転んだ。ひと眠りした後、軽く伸びをする。
 さあ、続きをしよう。
 もちろん脱走のだ。

 ベッドの下のタイルを数枚外す。どういうわけか、ここだけ外れやすくなっていたのだっ
た。それを発見したのはいつのことだろう。二十四時間の生活をしているのかも怪しい人間
が、正確に判断するのは不可能だ。
 いつここに入れられたのかも、なぜ入れられたのかも、もはや曖昧だった。
 やけに柔らかくなった土を出していく。ことによると、入れているのかもしれないが。
 柔らかいのは何度も掘り返しているからだが、おかしな事に発見したその時から、大分掘
り返しやすくなっていたのだった。
 土は机の下に隠す。
 医師は扉の傍から動かないから、万一こうしている間に訪問されても、死角で見えない。
同じ理由で、いくら机下に土がこびり付いていても問題はない。第一元から汚れていたのだ
から、私の責任ではないと言えば、何分かは真実だ。

18 :No.04 ほんとうの望み 3/6 ◇DCalVtagfA:07/07/15 20:53:19 ID:Zq2WaRw6
 数分後、手触りが変化した。
 土の詰まったビニル袋を取り出す。大きさはゴミ袋程度か。計六つ。
 何に使うわけでもない机の引き出しに、唯一入っていたのが数枚の汚いビニル袋だった。
それも机下に隠す。収まりきっていないのだが、前面が扉側を向いているので、横にはみ出
さない限り心配はない。数が増えたら机を少々動かせばいい。
 私は点滴を外した。初期の頃は汚れないように気を使っていたものの、モグラよろしく深
くもぐれる程になると、長さが足りなくなった。かといって点滴を持ったままでは、動きに
くい上に、破れてしまったことがある。それ以来この数時間は点滴を外している。
 随分と掘ったものだ、といつもながら感心する。その後もいつも通りだ。掘って、袋に入
れる。繰り返していく。今日こそは終わるといつも思う。飽きることはない。あるのは期待
だけだ。外に続いていると信じているからに他ならない。
 仮に、外でない終着点にたどり着いたらどうするか。少し戻って、途中で方向転換するか、
別のタイルを外すのだろう。この広い部屋、希望はどこにでもある。私は決してあきらめな
い。どこかにいる誰かの何かの気まぐれで、明日にも出られるかもしれない、とも考えてい
るくらいだ。どんなことにも可能性はある。
 この生活の中で楽しみを見つけてしまったら、確実に外には出られないと心に刻んでいる。
ここでの生活に嫌悪感を抱かねばならない。妥協もいけない。執着心を持ってしまえば、脱
出しよう、などという考えは妄想にしかならなくなる。
 というのも、ここを脱出できるのは間違いないと確信しているからだ。汚れたビニル袋を見
つけたとき、なんだろうと思った。外れたタイルを見て、悟った。不自然にふんわりとした
土にさわって、確信を抱いた。
 ここには私以外の誰かがいたのだ。

 土をビニル袋で戻し始めた。疲れたからではない。そろそろ片付けないと、医師がやって
くる。問題はないと言ったが、なるべく不信感を抱かせたくなかった。点滴だって既に危険
信号の範疇だろう。
 ベッド周りをほぼ元通りに戻し、温い水を浴びる。あらかじめ服は脱いでおいてある。こ
の状態だったら追い返せるだろうか。わざわざ試すことはない。

19 :No.04 ほんとうの望み 4/6 ◇DCalVtagfA:07/07/15 20:53:34 ID:Zq2WaRw6
 シャツで体を拭き、水に濡らして、背中側でタイル周りの土を拭く。これでまずわからな
い。その後シャツを水洗いする。少々の汚れなら黒シャツが幸いして目立たない。水分は汗
とでも言えばいいだろう。濡れたシャツを着るのは気持ち悪いが、仕方がない。
 あと数十分ほどで来るはずだ。
 私はここに来てから自分の体内時計の正確さに気付いた。おかげでモグラの真似をしている
ところを医師に目撃されることはなかったが、いつもそうだとは限らない。事実、時間に正確
な人間とは言えないようで、思いもしない時間に現れることも、ままあった。時間に正確じゃ
ないのは医師ではないかもしれないが、どちらでも同じ事だ。早いに越したことはない。
 錠の開く音がした。危なかった。もう少し欲張って掘っていたら、と思うと背筋が寒く
なった。
 医師は点滴を一瞥してから、背中を見せ、
「固形食だ」
 盆を私の前に置いた。
「君の望み通りの牛だねえ」
「私を甘やかす奴はいないんじゃなかったのか」
 そう言うと苦笑して、
「だから偶然と思いたまえ」
 私は何となく医師の計らいではないかと思った。肉が熱を保っていたらもっとよかったの
に、とは口にしなかった。
「最近疲れてたから元気が出るよ」
 医師は何を言ってるんだ、という表情になって、
「点滴はしないが、薬は打つぞ」
 とあっさり言った。
 久しく忘れていた食事は、本来の歯の使い方を思い出させてくれた。
 活力がみなぎってくるのを感じ、今すぐにでも作業を再開できそうだったが、やはり眠る
ことにした。睡眠はとった方が良い。シャツは脱いだ。

 まともなエネルギーを摂取したおかげか、体がよく動いた。相変わらず脳を圧迫されてい
る感覚はあるが、それほど気にならない。

20 :No.04 ほんとうの望み 5/6 ◇DCalVtagfA:07/07/15 20:53:50 ID:Zq2WaRw6
 私はもう少しだと感じた。なんの根拠もないがそう感じたのだ。そして私の前に同じ場所
を掘っているであろう人間に思いを馳せる。やはり同じ場所で、ここでそう感じたのだろう
か。
 以前から顔も知らぬ相手に奇妙な親近感を持っている。彼だか彼女だか分からないが、そ
の所々に残している痕跡がそうさせるのかもしれない。
 そろそろ時間だな、と感じた。
 しかし止める気はなかった。
 何だか今日こそは出られるはずだと感じたのだ。根拠はない。
 前方が抜け、思いがけずつきのめるが、上手い具合に片手で体勢を保てた。小さな空洞
だった。何の意図もなく、半ば無意識に、頭上の固まりに指を数本挿入した。
 光が差し込む。目の前に浮かんだ帯を視認して、恐る恐る土を掻いてみる。痛みを感じ、
そのとき初めて爪が剥がれていることに気が付いた。
 見上げても、あの部屋ほど眩しくない。その代わりに、青々とした空が見える。
 私は不気味なカタルシスを感じた。
 望んだものが目の前にあるからか。
 いつだったか、遠い昔、同じような多幸感を味わったことがある。
 そのとき、またそれほどの幸福を感じたいと思ったのだろう。
 いま、よく分かる。
 気分は最高だった。
 ようやく気が付いた。
 私は屋外に出ることを渇望していた。
 だからこそ感じる、この絶頂感を。
 これこそが私の望んでいたことだったのだ。
 今ここにいるということは、もう外には出られないんだな。
 そう思った。

「今日も安静にしてたようだね。感心感心」
 医師がにこやかに言った。
「それじゃあ注射だ。もうしばらく肉は食えないだろうから、点滴を外したりはしないよう
に」

21 :No.04 ほんとうの望み 6/6 ◇DCalVtagfA:07/07/15 20:54:18 ID:Zq2WaRw6
 もはや痛みを感じなくなった左腕にも、何かが侵入する感覚はあった。
 私は曖昧になっていく。
 一秒ごとに記憶が失われていく気がする。
 なぜだかそれは、自分が望んだことのようにも思う。
 私は言った。
「肉を食べたのは、いつだったか」
 医師は笑って、
「いつだって言っても分からないだろ」
 瞬間、目線を逸らせて、思い出したように付け加えた。
「日付なんか分かりはしないんだから」
 ここに入れられたのはいつだったか。なぜ入れられたのだったか。
 私はふと、自分は始めからここに入っていたのではないかと考える。
 そうかもしれない。どうでも構わない。
 私は外に出る。
 外に出たい。
 必ずここから出てやろう。
 楽しみだ。
 医師が言った。
「シャツは、いい加減、汚れてたから捨てておいたよ。君がいま着ているのは、何着目
だったか」
 さて、今までに服をくれた事などあっただろうか。私は訝しんだ。
 医師は何かをあきらめたような口調で言う。
「君は変わらないね」
 彼は少し老けた様に見える。
 どうすればここから出ることができるのか。
 独りぼっちの静かな部屋で考える私に、その言葉は不思議と印象的だった。





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