【 幸福論 】
◆QIrxf/4SJM




11 :No.03 幸福論 1/5 ◇QIrxf/4SJM:07/07/15 11:57:48 ID:Zq2WaRw6
 氷上は珈琲に砂糖を山ほど入れた。
「甘いほどいいの」と彼女は言った。「角砂糖の城にひとりぼっち」
 小指を立ててスプーンを持ち、ゆっくりとかき混ぜた。
「さとうきびの爪をかじる」ぼくは珈琲に指を突っ込み、氷上に咥えさせた。「きっと甘いよ」
「苦いわ」と氷上は言って、指を舌で弄んだ。
 氷上の考えていることは分からないけれど、好みやほくろの位置は知っている。彼女はいつも、ぼくが孤独であることに同情して、自分も孤独であろうとした。
 母親を殺して生まれてきたぼくは、結果的に父親も殺すことになった。たいしたことではない。身近な人間が二人少なかっただけだ。
 ぼくは、氷上の口から引き抜いた指を舐めて、服になすった。
「あなたはアリスみたいね」と氷上は言った。「私はあなたに本を読んでやれる」
「ぼくは、鏡の国を楽しむことが出来るよ」
「違うアリスよ」氷上はくすくすと笑い、その甘ったるい珈琲を飲んだ。「とても苦いけれど、飲めなくもないわね」
 ぼくは飲みやすいようにミルクを入れてあげた。こげ茶色の中に、白いうずまきが描かれ、くるくるとまわりながら曖昧になっていった。
「私の飲む珈琲は、あなたの飲む珈琲でもある」
「同情しなくていいんだ。ぼくは平気だよ」
「だから、砂糖を入れるの」
 ぼくは氷上の珈琲を飲んだ。ひどく甘かった。
 喫茶店を出ると、冷たい風が頬を刺した。
 氷上がぼくの腕にしがみつく。
「寒いわね」
 ぼくたちは、二人で同じマフラーを共有して歩いた。
 風は相変わらずぼくたちの頬を突く。アスファルトの上を流れていた枯葉が、電信柱に引っかかって揺れている。
 ぼくはいつも一人だったけれど、氷上がいてくれるときだけは孤独を意識せずにすんだ。死んだ魚の目をしているクラスメイトは、どれもぼくに心を許そうとはしなかったし、道行く人々は、ぼくを流し目で一瞥するだけで通り過ぎてゆく。
 氷上は手を握ってくれた。
「きみまで、悲しくなるんじゃないか」
 氷上の右頬が、ぼくの左頬に重なった。
「あなたが離れてしまうこと以上に、悲しいことなんてないもの」
「どうして」ぼくの目は、しばたたくほどに渇いていく。
「愛おしさは、似ているのよ」と氷上は答えた。「それだけのこと」
 ぼくは目をこすって、マフラーを巻きなおした。

12 :No.03 幸福論 2/5 ◇QIrxf/4SJM:07/07/15 11:58:15 ID:Zq2WaRw6
 氷上の体はとても細くて華奢だったけれど、大きな温もりに満ちていた。もし、氷上が寒さに負けて凍りついたとしても、ぼくは同じように凍りつくことで、氷上の温もりを感じ続けようとするだろう。
 触れ合った頬から、悲しみが流れていかないように、ぼくは目を瞑った。
「少年アリスを読んだわ」と氷上は言った。「絶望できるほどの幻想ね」
「ぼくにはわからないな。夢も現も同じなんだ」
 公園にある小川を、濡れないように石の上を伝って渡る。ちっぽけな英雄の、ちっぽけな自尊心は、ぼくにとって大切なものだ。硝子細工の猫のように、空っぽの書棚がよく似合う。
「すずめが死んでいるわ」氷上は前を指差した。「親すずめに捨てられたのかしら。それとも、親すずめを捨てたのかしら」
 氷上は白い息を吐いて、それを掴もうと手を伸ばした。
「ただ、失くしてしまったんだ」ぼくは、そうとしか言えなかった。
 風に吹かれて、マフラーが揺れる。底冷えのする寒さは、氷上と二人でいるのには丁度よかった。
 雪でも降れば、この気持ちを台無しにしてくれるだろう。
 氷上の家の前で、マフラーを解いた。
「明日も寒いだろうから、珈琲が美味しいでしょうね」
「たくさん飲めるよ」とぼくは言った。「今日は金曜日だ」

 目が覚めると、空は朝焼けの前の群青色をしていた。
 真夜中に目を覚ますことは珍しくなかった。外の暗い朝は、ぼくにとって最も悠然とした時間だ。今日に限って、その時間が少しずれ込んだのである。
 氷上のことを冷子と呼ぶ夢を見たけれど、そっと心の奥にしまうことにした。求めてはならないのだ。
 廊下は冷え切っていて、歩くたびに足の裏が凍りつくように感じられた。水で顔を洗い、髪の毛をとかしてから歯を磨く。体は刺すような冷たさに震えていた。
 誰もいない一軒屋の中で、ぼくは一人、何も入っていない珈琲を飲む。目玉焼きにサンドイッチというささやかな朝食を、時間をかけてゆっくりと食べた。
 父親がいなくなっても、することは変わらなかった。金は十分にあるし、面倒な手続きは誰かがやってくれた。
 それに、ぼくは一人でも生きていける。たとえ氷上が離れていってしまっても、彼女が生きているのならば、それでいい。求めてはいけないのだ。
「矛盾している」とひとりごちた。「傷ついても構わないんだ」
 ぼくは、九時前に家を出た。すずめの鳴き声を聞いていると、まるで春の朝であるかのように思われた。が、凍てつく寒さは、どう考えても二月のものだ。
 ぼくは、顔を上げなくても氷上の家にたどり着くことができる。道路の染みは全て覚えているし、方向を転換するまでの歩数が、すべて五十三の倍数であることも知っていた。
 氷上の家の前に来て、ベルを鳴らそうとしてやめた。
 待ち合わせ場所が、駅前の噴水だったからだ。
 ぼくは氷上の塀の前にもたれかかって、本を読んで待つことにした。
 持つ手が冷たくなってきたら、息を吹きかけてポケットに突っ込む。何度も繰り返した。
「あら?」氷上の声がした。「来てくれたのね」
 彼女はキャスケットを被り、ふわふわとしたファー・ジャケットの下に、桃色のニットの半袖を着て、ツイード・スカートを穿いていた。白いブーツは膝下まで高さがあり、細い彼女の脚を、少しだけ凛々しく見せている。

13 :No.03 幸福論 3/5 ◇QIrxf/4SJM:07/07/15 11:58:35 ID:Zq2WaRw6
 氷上の黒くて長い髪が、帽子の隙間から流れ出ているように見えた。
「どこが待ち合わせだったか、忘れてしまったんだ」とぼくは言った。
 氷上はくすくすと笑い、ぼくにマフラーを巻いてくれた。
「マフラーもしないで。鳴らしてくれれば、家に入れてあげたのに」
 ぼくは顔をマフラーに埋めたまま、上目遣いで氷上を見た。
「もう、ふてくされないでいいのよ」と氷上が言った。
 待ち合わせ予定だった駅前まで、ぼくたちは歩いた。
 太陽はにこやかに照らしていたけれど、気温は少しも上がらない。
 水溜りは凍っていて、氷上は何度も滑りそうになり、そのたびにぼくが彼女を支えた。
「少しだけ、嬉しくなるわ」
「ぼくも嬉しくなるよ」
 駅前の噴水には、誰もいなかった。
 相変わらず吐く息は白く、水しぶきはダイヤモンドのように輝いていた。
「珈琲が飲みたい?」
 自動販売機には、たくさんの珈琲が揃っていた。
「けれど、私は我慢するの」と氷上は言った。「これから、どこへ行く?」
「電車に乗ろう。どこか、小さな喫茶店へ行きたいな」
「それなら、いいところを知っているわ。少し歩くけれど」
「構わないさ。歩くのは好きなんだ」とぼくは言った。
「隣の駅なの」
 ぼくたちは電車に乗り、とてつもなく遠く離れた隣の駅で降りた。
 駅は無人で、切符を回収するためのポストだけが置かれている。
「キセル乗車をすればよかったわ」氷上がポストの中に切符を入れた。
「隣の駅だよ」とぼくは言って、ポケットの中に切符をしまった。端に書かれた四桁の数字が、五十三の倍数になっていたからだ。
「悪いことは、きっと返ってくる」
「そんなことないわ。努力が報われないのと同じことよ」
「言われてみれば、そうかもしれない」
 死んでしまったすずめに、水を与え続けるのと同じこと。父親は死んでしまったのだ。
 駅を出て、小さな道を進んでいった。辺りには、霜の融けていない田畑が広がっている。
 真っ白で、光っていて、とても綺麗だった。

14 :No.03 幸福論 4/5 ◇QIrxf/4SJM:07/07/15 11:58:55 ID:Zq2WaRw6
「しもやけって、あんなふうになるのかしら」
「きっとそうだよ」
 氷上の言う喫茶店までの道のりは、ひどく長かった。
 通り過ぎたバス亭には、ささやかな待合室があった。きっと、バスは一時間に一本も通らないだろう。そんな外観だった。
 三十分強歩いて、喫茶店にたどり着いた。
 扉を開けると、からん、と音が鳴った。
 入り口には奇妙な人形が置かれていて、ウェルカムと書かれた表札を持たされていた。
 橙色の照明は少し暗めで、骨董品のような椅子やテーブルが並べられている。素敵な雰囲気だった。
 ぼくたちはカウンター席に座り、珈琲を一つ頼んだ。
「気に入った?」
「本を読むには暗すぎるけれど、音楽を聴くには丁度いいよ」
「けれど、足りないものがあるわ」
「いいんだ」
 目の前に置かれた珈琲からは、真っ白な湯気が立っている。
 氷上は砂糖を沢山入れて、スプーンでかき混ぜた。
「恋焦がれる蜜の味ね」
「もし、砂糖を入れなかったら?」とぼくは言った。
「私が溶けてなくなってしまうわ」
 ぼくは悲しくなった。少しでも、求めてはいけないのだ。
「きみの入った珈琲は、きっと甘いだろうね」
「どうかしら?」氷上は笑った。「少し辛口かも」
 それでも、ぼくは甘いと言うに決まっている。 
 ぼくたちは夕方になるまで、喫茶店で過ごした。特に何もせず、二人で座っていた。時々静かに話をして、珈琲のおかわりを頼んで、ケーキを食べた。
「どうして?」とぼくは聞いた。
「空っぽのおもちゃ箱の中に、私だけがぽつんと立っているからよ」
 おもちゃ箱の中にあるのは、彼女だけでいい。他には何も必要ないのだ。
 ぼくにはそれしかないけれど、それ以上はなにもいらない。ただそう思えることが、ぼくにとっての幸福なのだろう。
 店のオーナーはとてもいい人で、ぼくたちのことに理解を示してくれた。彼の披露する珈琲の知識はとても深くて興味深いものだった。きっと、この喫茶店にはまたお世話になる。

15 :No.03 幸福論 5/5 ◇QIrxf/4SJM:07/07/15 11:59:13 ID:Zq2WaRw6
 ぼくたちは喫茶店を出た。
 もと来た道を辿って、駅へと戻る。
 途中で、ぽつぽつと雨が降り出した。
 ちょうど、バス停の待合室があったので、その中のベンチに座って雨宿りをすることにした。
 雨のせいで、空気はしっとりと濡れていて、とても冷え込んだ。
 かじかむ手に何度も息を吹きかけたが、大した効果はない。
 ぼくは、マフラーを氷上の首にも巻いてやった。二人で寒さと暖かさを共有する。
「こうしているのが、一番好きかもしれないわ」と氷上が言う。
 ぼくは何も答えることができなかった。ただ、頬を氷上の頬にくっつけて、手を繋いだ。
「このまま凍りついてしまったら?」
「きっと、すごく幸せ」
 ぼくは泣きそうになった。空っぽの硝子玉は、少し握るだけで壊れてしまうけれど、美しく透き通り続ける。手のひらの上で、ずっと転がしていればいい。
「大学はどこを受けるの?」
「家から通える範囲なら、どこでもいいんだ」
 場所も人も関係ないのだ。人はぼくに関心を持たないし、場所はぼくを受け入れない。すごく悲しいことだ。それならば、ずっと住んでいた家に居続ける方が楽だ。
「私も同じ」氷上は目を細めて微笑んだ。「あなたの家に、たっぷりの砂糖と、珈琲はあるかしら?」
「砂糖は買ってくるよ」
「きっと、すぐ無くなるわね」
「もっと沢山買えばいいんだ」
 氷上はくすくすと笑った。
 バスは一度も通らなかった。車でさえ、二台ほどしか見ていない。
 雨が少し弱くなった。
「終電までには、やむかもしれないわね」
 雨に、やんでくれとは願わない。
「手を出して」と氷上は言った。「角砂糖の城に二人きり」
 手を差し出すと、氷上はぼくの薬指に甘噛みをした。
 ぼくは氷上の手を取って、薬指にそっと歯形を付けてやった。
「甘かったでしょう?」と冷子は微笑んだ。 
「すごく甘かったよ」
 歯形はすぐに消えてしまうけれど、それ以上は望まない。指輪は、しっかりと互いの薬指にはめられている。



BACK−だましたい◆h97CRfGlsw  |  INDEXへ  |  NEXT−ほんとうの望み◆DCalVtagfA