【 忘却 】
◆DttnVyjemo




72 :No.17 忘却1/5 ◇DttnVyjemo :07/07/08 23:37:40 ID:a7gW29xM
 その長躯の男が鈴子の家を訪れたのは、七月も終わりに近い、陽射しの強い日のことだった。
遅い梅雨の明けの空にはあまりに白い太陽が、それまでの遅れを取り戻さんとばかり煌々と
輝いている。地上ではそれに負けじと蝉たちが瀑声のような蝉時雨を奏で、短い生命の焔を
燃やしている。
「あ。ヒゲのおじちゃんこんにちは!」
「すげえ! スイカだ! これおじちゃんとこの!?」
「ねえこれ甘いの?」
「まだこの時期だからなあ。雰囲気だけじゃあ。雰囲気だけ」
 一番上は小学校の低学年ぐらいだろうか、三人の子供達は、「ヒゲのおじちゃん」こと
正木信三郎が持ってきた大きな西瓜を、瞳をきらめかせつ見つめている。
「ほら、汚い足で上がらないの。ちゃんと手足を洗っていらっしゃい」
 甘い物に飢えた子供は何処でも同じようなものだ。母親にたしなめられ、三人は我先に
争いながら井戸へ駆けて行った。
「いらっしゃい、正木さん。お疲れになったでしょう」
「いやあ、ご無沙汰です。東京も暑いですなあ。これ、うちの畑で穫れました」
 正木は仔牛の頭ほどもあろうかという大きな西瓜を持ち上げて見せた。
「まあ、わざわざ担いでいらしたの? 重かったでしょう」
「ははは。すっかり温まってるでしょうから、井戸があるなら、それで冷やすといい」
「うちはポンプだからダメなのよ。切って来ちゃうわ。そこからあがってくださいな」
 正木は縁側で靴を脱ぎながら、台所へと消えてゆく鈴子を見つめた。三十も半ばが
過ぎようというのに、鈴子は十年前のあの日の美しさを保ったままであった。

「奥さん、いらっしゃらなかったのね。一度お逢いしたかったわ」
 串切りにされた西瓜を大皿に盛って、鈴子が戻ってきた。薬罐からグラスに麦茶を注ぐ。
首から提げたタオルで顔を拭い、正木は一気にそれを飲み干した。
「うちの女房も、先月四人目を生んだばかりでしてなあ」
「あら、おめでとうございます。四人目なの。……そうねえ。もうそんなになるのねえ」

 戦争が終わって、この夏でちょうど十年になる。ビルマの収容所に一年近くも入れられ、
ようやく正木が日本に辿り着いたのは、やはり今日のように陽射しの強い夏の日のことだった。


73 :No.17 忘却2/5 ◇DttnVyjemo:07/07/08 23:37:57 ID:a7gW29xM
鈴子の恋人であった伸彦の手紙を偶然手に入れた正木は、思い悩んだ末、それを鈴子に渡した。
そこには、もし自分が還らぬ時は、自分のことを忘れてくれろとの事が書いてあった。
 幾星霜が流れ、鈴子の心の空洞にもやがては新たな面影が宿り、三人の子宝にも恵まれた。
正木も郷里に戻り、やはりそこで妻と子を得た。それぞれが、長いようで短い十年を過ごしてきた。

「ところで、今日はわざわざ西瓜を持ってくるためにあがったじゃねんえです」
 扇子をひらめかせながらも妙に改まった口振りの正木に、鈴子は身をこわばらせた。
疑念を振り払うかのように、作り笑いを浮かべながら言った。
「……まさか。もう十年もなるんですよ? 生きているなら、とうに戻って来ている
はずじゃありませんか。それに、手紙のひとつもあったっていいはずだわ」
「鈴子さんは、戦争の後、蘭印のあたりがどうなったか、知っちょりますか」

 大東亜戦争の終結した後、蘭印に展開していた日本兵達の一部は、武装解除せず、
土人達に混じって白人を相手に独立闘争を行った。やがて白人を駆逐し、土人らは
自らの国家インドネシアを興すことに成功した。日本兵の多くはそのまま現地で所帯を
持ち定着したが、幾人かは日本に戻って来ているようだった。

「……じゃあ、伸彦さんは、その中に?」
「人伝てで、蘭印に残って戦った日本兵に、ヨシムラノブヒコという男が居たと聞きました。
調べる限り、どうもあいつのようなんです。それが、このたび向こうからから戻ってきていると
聞いて、これは鈴子さんにも知らせねばと思いましてなあ」
 鈴子の混乱は、まず正木を苛むことで平穏を取り戻そうとした。もう自分には良人がおり、
三人の子をもうけ、それなりに幸福な家庭を築いている。今さらそんな話を持ち出した
ところで、誰に何の得があるのか。
 その憤りがお門違いであることは、承知している、どのような形であれ、彼が生きている
ならば一度は会わねばならぬことも理解している。そのためには、この話を持ってきてくれた
正木に感謝すべきだとも弁えている。
 だが、湧き出ずる拒絶感を禁じ得ないのはなぜだろう。


74 :No.17 忘却3/5 ◇DttnVyjemo:07/07/08 23:38:21 ID:a7gW29xM
 手足を洗い終えやってきた子供達が、大皿に盛られた串切りの西瓜にかぶりつく。三切れ
四切れと次々に西瓜を口にしても咎め立てしない母に、子供達は怪訝そうな表情を浮かべたが、
饕餮の取り憑く年頃の三人は遠慮などするはずもなく、母や客人のぶんまでをあっというまに
平らげてしまった。
「……少し、考えさせてください。いまさらの人に、どんな顔をして会えばいいというの?」
「そりゃあ、尤もです。しかし伸彦だって、きっとあなたが嫌になって去ったわけでもない
でしょう。何か事情があったか、奴なりに思うところがあってのことじゃないかと思います。
鈴子さんにしたって、あいつへの、あの時代へのけじめが要るんじゃありますまいか」
 正木が強引に押し切らなければ、鈴子はいつまでも逡巡したきりだったかもしれない。
そこまで言われて断れるほど、鈴子は押しの強い女ではなかった。

 数日後、三人は逢うこととなった。意外にも伸彦は二年前から東京に住んでいたのだという。
東京に不慣れな正木を案内するという口実で、鈴子は正木と待ち合わせることにした。
 仮に伸彦と逢うことを良人に告げたとしても、それを咎められることはなかっただろう。
だが、鈴子は良人に嘘をついて家を出た。自分でも何故そうしたのかはっきりしなかったが、
それが正しいという確信だけはなぜかあった。

 焼け跡に乱立したバラックは、ところどころ真新しい建物へ姿を変えている。そんな中、
運良く焼け残った「小菊」は、本当に駅から目と鼻の先の距離にあった。
「なんだ、こんな駅からそばにあるなら、案内なんていりませんでしたなあ」
 鈴子の底意を知ってか、正木はそう言って笑った。
 と、店の前に小さな人影が見えた。一人の片端のようであった。鈴子がそれを物乞い
だろうと思ったのは、おそらくは彼女の願望だったのだろう。
「いやあ、伸彦! よく生きて還ってきたなあ」
 正木が殊更に陽気な声を上げたのは、そこはかとなく漂う息苦しさを吹き飛ばそうと
したのかもしれない。伸彦は二人とろくに目を合わせようともせず、ただ消え入りそうな
声で「お元気そうで何よりです……」とだけ漏らした。
「なんだ、中で待ってれば良かったじゃないか。さ、入ろう! いやあ久しぶりだ」


75 :No.17 忘却4/5 ◇DttnVyjemo:07/07/08 23:38:33 ID:a7gW29xM
 伸彦の背中を押すようにして、正木は店に入っていった。覚悟を決めて鈴子は、それと
悟られぬよう伸彦を眺める。焼け魚のような右目。残された目も半ば濁っている。左膝は
へしゃげ、引きずる足を松葉杖で支え、もう一方の手に持った白杖で盲のように探りながら
ようやく歩く。栄養失調が祟ってか、まだ不惑にも届かぬ筈なのに、もはや頭髪は殆ど白い。
 復員船を待った波止場で幾度となく見ては心臓の鼓動を早めたあの光景が、いま現実の
ものとして眼前にある。鈴子の記憶の中の伸彦は、あくまで若く、凛々しく、知性と
優しさに溢れる光をその双眸に湛えていた。それがこの目の前にいる男はどうだろう。
鈴子が好いた伸彦と、この片端とが、どうしても結びつかずにいる。
「それにしても、こうして三人で酒なんて久しぶりだなあ」
 比較的無神経な正木にあって、これしきの言葉を吐くのに努力を要するほど、三人を
取り巻く空気は重かった。よくよく思い返せば、あの頃は必ず鈴子と伸彦が隣り合わせ、
正木はそのどちらかに座っていた。だが今日は、図体の大きい正木が、二人を隔てるかの
ように、間にいる。
「なんだなあ。どうにも調子が狂う。積もる話もあるこつだ。さ、呑みましょう」
 正木の賢明の努力で、なんとか当たり障りのない会話だけは成立した。既に二人とも
結婚し、今では子持ちであること、蘭印がどうの、ソ連がどうの、安保がどうの――。
三人が三人、どうでも良く思っているのは間違いなかった。かつての恋人同士の狭間で
通訳めいた真似をする立場にあっては、さしもの正木にして、酒の味をちっとも感じる
ことができずにいた。
 結局、二時間あまりの間、これといって感慨に浸るでもなく、息の詰まりそうな
空気から逃れるように三人は店を出た。伸彦は杖をついたまま深々と二人に一礼し、
跛をひきながら夜の闇へ消えていった。彼が消え入るような声で残した惜別の挨拶は、
少なくとも鈴子の心には届いていなかった。

 藪入りの時期を微妙に外しているせいか、夜行列車のホームは人もまばらである。弁当や
土産を売る売り子も、どことなく暇そうにしている。正木は売り子を呼び、冷凍蜜柑を買った。
「正木さん。昔、あなたが言ったこと覚えてる?」
「儂、何か、言いましたか」
「……『戦争って、本当に厭なものだ』って。本当にそう思うわ。好きな人を奪った挙げ句、
人をこんなに醜く変えてしまうんですもの」


76 :No.17 忘却5/5 ◇DttnVyjemo:07/07/08 23:39:14 ID:a7gW29xM
「鈴ちゃん、そりゃあない……」
「ちがうの正木さん。
 あの人はちっとも変わってない。見てくれなんてどうだって良いのよ。あの人が生きて
いてくれたってだけでも嬉しいの。それは嘘じゃないわ。今でも本当にそう思ってる。
 醜く変わってしまったのは私のほう。あの人と逢っても、あの頃の想いは戻らなかった。
それどころか、この時間が早く過ぎて欲しい、私の前から消え去ってほしいとすら……。
別にあの人が、今の家庭を壊すわけでもないのにね……」
 バツの悪そうな表情を作り思わず目をそらしたのは正木であった。
「どうしても負い目をね……感じてしまうの。きっと私が一人でそう思ってるだけなのに。
それをあの人のせいにして、『消えてしまえばいい』なんて。勝手にも程があるわね」
「そう卑下したもんでもありますまい。誰だって一皮剥けば、黒い腸が出てきます」
 おもむろに煙草を取り出し、マッチを擦る。ゆっくりとたゆたう紫煙に、正木は目を細める。
「儂があの手紙を鈴ちゃんに渡したのだって、もしかしたら、嫉妬があったのかもしれません。
あの手紙で、鈴ちゃんが伸彦のことを諦めてくれれば、もしかしたら――なんてなあ。
 そんな儂も、今や四人の子持ちだ。二人の仲に楔を打っといて、無責任もいいところです」
「……そう言えば、あの手紙、ちゃんと届いてたってこと、言うの忘れちゃったわね」
「今さら蒸し返すまでもありますまい。それに忘れることは悪いこつじゃありません。
儂など、今日の席で何を喰ったかすら、とうに忘れてしまいました」
 そう言って浮かべた笑みは、どこか力なかった。
「ただの悲しみなら、忘れるのもいいかもしれない。でも自分に罪のある悲しみなら、
せめて背負い続けるのも『贖い』なんじゃないかしら」
「儂には罪とか解りません。鈴ちゃんが仕合わせになったことが、あいつへの背信だとも
思いません。
 ……でも、罪は贖われ消えても、傷は残るものです。理不尽だが、そういうものです」
 発車を告げるベルが鳴り渡る。二人とも何かを言い出しそうで言い出せずにいる。
見つめ合ったまま、列車はゆっくりと走り始めた。鈴子は立ちすくんだまま、正木を
目線で追った。正木はそれすらせず、所在なげな視線で空を見つめていた。
 そう言えば、西瓜の礼を言うのを忘れていたっけ。そんなことを鈴子が思い出したのは、
夜行列車のランプがすっかり見えなくなってからのことだった。



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