【 例えれば青リンゴの私は 】
◆D8MoDpzBRE




67 :16 例えれば青リンゴの私は 1/5 ◇D8MoDpzBRE :07/07/08 23:33:24 ID:a7gW29xM
 冷房の効いたバスを降りると、アスファルトから立ち上る熱気が鼻をついた。夏の陽炎が、風のない雑木林の
葉を揺らしている。しばらくして遠ざかるバスの排気が立ち上り、更に景色をゆらゆらと歪めて消えた。
 私は通学鞄の中からハンカチを取り出し、セーラー服の襟口から胸元にかけて、汗ばんだ肌をぬぐった。行
儀の悪いことはお止めなさい、とたしなめる母の顔が一瞬浮かんだが、すぐさま蝉の声にかき消された。
 なんで汗が止まらないのだろう。やたら暑いのに、坂道を息を切らせて登っているのがいけないのだろうか。
体温が上がりすぎてオーバーヒートしないように、汗が適切な体温を保ってくれているんだと聞いたことがある
けれど、ならばうら若き乙女の体臭という悩みにも耳を貸してくれればいいのに、と思う。
 急な上り坂を半分も登り切らないうちに、私の足腰は音を上げ始めた。ふくらはぎの辺りが軋みをあげて、肺
と心臓から送られる酸素では不十分だと抗議する。逸る心についてこれない体力を恨めしく思いながら、息を整
えるようゆっくりとした歩調に切り替えた。
 ひとたび通りを外れると、田畑の中に民家がぽつぽつと建っているだけの、田舎道へと変わる。急斜面でも適
応できるように、短い間隔で段々に作られた水田を見ると、稲作にかける執念に思わず感心してしまう。この暑
さでは田んぼが煮立ってしまうんじゃないかと、意味のない心配をしてみた。
 一息ついたところで、私は再び駆けだした。目の前に迫る山のてっぺんから、白く輝く入道雲が頭を出してい
る。あの上に乗れたら楽だろうな、と孫悟空の筋斗雲みたいなものをイメージしながら、最後の百メートルを走
り抜けた。
「ただいま」
 勢い込んで家のドアを開けると、案の定、見覚えのある男物のスニーカーが玄関に並んでいた。
「おかえり、綾乃。浩介さん来てるよ」
 リビングから母の声が聞こえたが、「着替えてくる」とだけ言葉を返して、階段を上って二階にある自室に飛び
込んだ。現状で人前に姿を見せるなど、とんだ自殺行為である。
 熱がこもってサウナのようになった部屋のカーテンを全て閉じて、とりあえず日光と風景を遮断した。暗くなった
室内は、いよいよ本物のサウナのような空間へと変貌した。こんな時に限って臨時営業するな、と心の中で毒づ
きながら、鞄をベッドの上に放り投げた。
 汗を吸い込んだ高校の制服は一種の劇物になっているから早々に脱ぎ捨て、脇の汗を吸い込んだブラジャー
からは更に危険な香りが漂っているので、同じく速攻で脱ぎ捨てた。パンツ一枚だけになっても、何か一枚気持
ちの悪い膜に包まれているような違和感が、体全体を覆っていた。澱んだ部屋の空気のせいかもしれない。シャ
ワーを浴びたいという衝動にさっきから駆られっぱなしだけれど、浩介さんが来ているときに浴びるのもなんだ
か気が引けたから、とりあえずウェットティッシュで済ませることにした。
 パンツも含めて下着から全部取り替えて、一番お気に入りにしていた服を衣装ダンスから取り出して手早く身

68 :16 例えれば青リンゴの私は 2/5 ◇D8MoDpzBRE :07/07/08 23:33:56 ID:a7gW29xM
につけた。水色のキャミソールと白いミニスカート。少し大人っぽさを意識してみたチョイスだったけれど、鏡に
映る自身の姿を見ても大人の気品が感じられないのは、衣服の中身のせいだろうか。
 最後に、脇にいつもの倍くらいスプレーを吹き付け、臭いサウナから逃げ出した。

「こんにちは、綾乃ちゃん。また少し大きくなったかな?」
 クーラーの効いたリビングに入ると、まず浩介さんに話しかけられた。自分の胸元を意識しつつ、そんなところ
を見ているわけがないか、と我に返る。果実と言うにはほど遠く、まだつぼみといった方がいいかも知れない。
洗濯板、と私をからかう級友の顔が浮かんで、それらを空想の手で追い払った。
「百六十二センチ。最近はもうあんまり伸びてないよ」
「じゃあもう、大人と変わらないね」
 少し気恥ずかしくて、私は曖昧にうなずいた。
 テーブルの上には冷えた麦茶とお菓子が置いてあった。二人分。片方には手がつけられてなかったから、多
分私の分だろう。
 ソファには浩介さんが背筋を伸ばして座っている。形だけは上品なマネキンを見ているようだった。スラリとし
た長身で、お互い立って並ぶと浩介さんの方が頭一つ分くらい余る。昔はスポーツマンだったという体格も健在
で、とにかく均整がとれていて、メタボリックとはやし立てられるお父さんとは大違いだった。
「お姉ちゃんは?」
「千穂さんは、お買い物に行っているよ」
 浩介さんはお姉ちゃんと付き合っている。二人は大学在学中に知り合って、卒業と同時くらいに付き合い始め
て、同じ会社に就職した。浩介さんが初めてうちに来たのは去年の暮れくらいだったけれど、付き合いはもう二
年ちょい続いているようだ。
 お姉ちゃんと付き合って何をしているのだろう、という疑問が絶えず消えなかった。私の知らないところでデー
トでもしているのだろう。普段の姿からはあまり想像出来ないけれど、好きだよ、とか言い合ったりしているのだ
ろう。ドラマなんかで見る、あんなことやそんなこともしているのだろう。
 だけど、冷静になって分析する私の頭脳を押しやるように、心はその結果を受け入れなかった。根拠のない
空想が心を支配して、抑制が外れた夢の中では空想が妄想に化けた。
 好きになっていた。どの瞬間から好きになったのかもはっきりと思い出せないけれど、浩介さんと初めて会っ
て以来のどの瞬間を思い出しても、私は浩介さんのことが好きだったような気がする。
 会えることがいつも楽しみで待ち遠しかった。
「今日はお仕事ないの?」


69 :16 例えれば青リンゴの私は 3/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/08 23:34:10 ID:a7gW29xM
「会社の創立記念日で休みなんだ」
 浩介さんの隣に座りながら麦茶に手を伸ばし、カラカラになった喉を潤すように、一気に麦茶を流し込んだ。
思わずぷはーっと言いそうになったが、それは何とかこらえた。その代わり軽いムセの衝動が突き上げた。
「大丈夫?」
 私のことを気遣って、浩介さんが声を掛けながら背中をさすってくれた。うん、と軽くうなずく。
 大きなぬくもりが私の小さな背中を包んで、優しく撫でている。親猫にあやされた子猫のように、私の心は安
心感で満たされていった。
 この優しさが全て私の方を向いてくれたらいいのに、と思う。
「浩介さんは、普段どんな音楽を聴いているの?」
 とりとめのない話題で場をつなぐ。もう何回同じ質問をしたか覚えていないけれど、答えはその時々によって
違い、時にはクラシックだったり時には少し古めのJ−POPだったりして、その変化が楽しく嬉しかった。
「夏だったらサザンは欠かせないね。綾乃ちゃんは?」
「私はレンジとかかな。サザンも知ってるけど、古いのはあんまり分からないよ」
「そっか、いい曲いっぱいあるんだけどなあ。そうだ、僕の車の中にサザンのCD入ってるから持ってくるよ」
 え別にいいよ、と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。わざわざCDを取りに行ってまで聞かせたいと言う曲
なら、聞いてみたいという思いもあった。
 浩介さんの背中がリビングのドアを出て隠れた。その瞬間、私にはある別の発想が浮かんだ。
 私は、そっと立ち上がって浩介さんの後をつけた。忍者のように足音を忍ばせながら、ゆっくりと。

「あれ、何してるの? 綾乃ちゃん」
「せっかくだから、ドライブしながら聞かせてよ。そっちの方が感じも出るじゃん」
 青いミニバンの助手席を占領して、熱くなったシートベルトを装着した。清潔感溢れる車内だったが熱がこも
ることだけは防ぎようもなく、私は早くエンジンをかけてクーラーをつけるようせがんだ。
 参ったな、という顔をしながらも人の要求を断れないのが人のいい浩介さんのいいところであり、ある意味悪
いところなのかも知れない。とにかく車のエンジンキーが回された瞬間、私の勝利は確定した。哀れ敗者に成り
下がった浩介さんは、「千穂さんに怒られるよ」なんて言いながらも車を発進させた。
 車高の高いミニバンからの眺めが気持ちよかった。私がさっきバテバテになりながら登った坂を、車は一気
に下り切って交差点を右に折れ、峠道へと向かった。木陰と日向がアスファルトの上にくっきりとしたコントラス
トを描いている。中央分離帯の白いラインが、緑深い山道へと私たちを案内してくれていた。
 車内にサザンオールスターズの曲が流れ始めた。どこかで聞いたことのある曲だったけれど、タイトルは知ら


70 :16 例えれば青リンゴの私は 4/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/08 23:35:43 ID:a7gW29xM
ない。夜の都会を舞台にした歌のようだ。切ない感じや情熱的なムードが漂っていて、よく分からないながらも
気分が高揚するのが分かった。
「『Love Affair〜秘密のデート』って曲だよ」
 秘密のデートか。私は隣のシートに座る運転手の方に視線を向けた。
 浩介さんの優しい面持ちが、しっかりと前方を見据えている。ここにいられることを少しだけ嬉しく思った。誰
が何と言おうと、これが私にとって生まれて初めてのデートなのだ。
 車は更に山道を分け入った。木陰の道はいかにも涼しげで、冷房の効いた車内から眺めていたせいなのだ
ろうけど、強い日差しにも清涼感が溢れてた。
 しらばくすると峠道の脇に休憩所のような場所が現れ、そこへ車は進入した。車が三台くらい駐車できるこの
小さな休憩所には、自動販売機とトイレが備え付けられている。他に車や人の影はなく、木陰のスペースは私
たち二人に独占されていた。
「何か、飲みたいものある?」
「お茶がいい」
 短いやりとりの後、エンジンをかけっぱなしにしたまま、浩介さんは自販機へと向かった。
 車内には物悲しい曲が流れている。聞いたことはあるけれど、やはりタイトルは思い出せない。サビの歌詞か
ら、涙のキスか最後のキス、みたいな感じだと思う。出しっぱなしになっていたCDのケースを拾って確認した。
『涙のキッス』。山あいの休憩所で聞くにはちょっとしっとりとし過ぎかも知れないけれど、私はしたこともないキ
スの味を空想の中で思い描いた。
「はい」
 気がつくと浩介さんは車に戻ってきていて、私にペットボトルのお茶を差し出してくれた。ぺこ、と頭を下げて
それを受け取る。キンキンに冷えていて、暑い夏にこれを味わえる贅沢をありがたく思った。
「じゃ」とつぶやいて、浩介さんがハンドルに手をかけた。
「待って」
 とっさに、私は浩介さんの腕をつかんだ。おそらく、これからUターンをして家に向かうのだろう。せっかくのデ
ートを終わらせたくないという気持ちが、反射的に私の手を突き動かした。
 ずっとここにいたい。
「浩介さんはお姉ちゃんのこと、本当に好きなの?」
 ここまで私のわがままに嫌な顔一つしないでいてくれた浩介さんの顔に、初めて深い困惑の色が浮かんだ。
「もちろんだよ。千穂さんのことが好きだから付き合ってるんじゃないか」
「そうだよね」

71 :16 例えれば青リンゴの私は 5/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/08 23:35:57 ID:a7gW29xM
 およそ予想がついた返答だったけれど、やはり私の心を落ち込ませるには十分だった。そもそも落胆するよ
うな答えでないはずだし、ここで私のことを好きだとか言い出すようならそれはそれで困ったことに違いないの
だけれど、私が浩介さんのことを好きだった分、やっぱり心は平静でいられなかった。
「……キスして欲しい」
 浩介さんの眉間のしわが、一層深くなった。こんな台詞が出てきたのは、サザンの歌詞に触発されたせいか
も知れない。
「ごめんね綾乃ちゃん、それは出来ないよ。君にも悪いし、君のお姉さんを裏切ることになる」
「私は大丈夫。ずっと秘密にしておけば、お姉ちゃんだって裏切らない」
 執拗に食い下がる私を前にして、浩介さんが深いため息を吐いた。何か考え事をするように浩介さんの視線
は空中を泳ぎ、しばらくして再び私を見据えた。
「恋人同士は重い秘密を持っちゃいけないし、そういう秘密を持つこと自体が裏切りなんだよ。それに今ここで
僕が綾乃ちゃんからファーストキスを奪っちゃったら、将来綾乃ちゃんと付き合う人からも綾乃ちゃんのファース
トキスを奪うことになっちゃうわけで……」
 気がついたら、私の頬を止めどなく涙が伝っていた。浩介さんの言っていることは筋が通っているし、分かる。
分かるんだけれども、私の心はそれを頑なに受け入れようとしない。
 涙のキッス、それは果たされなかった別れのキスなのだろうか。何となくそう思ったのは、お預けになった私
のファーストキスが宙ぶらりんになって、車内に流れるメロディと共鳴していたからだろう。くるくると踊る木の葉
のように、私のファーストキスは夏の陽炎に溶かされて天へと昇った。
 帰り道、浩介さんは変な例え話を私に聞かせた。私はまだ青リンゴなんだ、と。熟れていない果実を収穫する
ことがどれ程の罪なのかを、色々な角度から説かれた。車内音楽は『真夏の果実』だった。曲のタイトルから誘
導されたインスピレーションが思わぬ例え話に化けたことに、私は軽く苦笑した。だったら、泣きはらした私は歌
詞の最後に出てくる『涙の果実』なのだろうか。
 秋に収穫されるリンゴは、夏真っ盛りのこの時期にはまだ青々としている。青い真夏の果実だなんて、ちょっ
と格好が悪いと思った。
 収穫の秋までには熟した果実になってやろうと、私は心に決めた。素敵な収穫者の姿を、空想の中でふくらま
せながら。



BACK−酌み交わす思い出◆PUPPETp/a.  |  INDEXへ  |  NEXT−忘却◆DttnVyjemo