【 さやかにひかる 】
◆0YQuWhnkDM




51 :No.12 さやかにひかる 1/5 ◇0YQuWhnkDM:07/07/08 21:30:35 ID:WOIoR4Ed
 夏休みになると、母は必ずわたしを連れて田舎へ行った。
 母の実家では祖母が子供達のところへ身を寄せるでもなくひとりで暮していて、母は娘としてそれが心配だっ
たのだろう。夏休みのほとんどをそこで過ごすこともあった。
 心配される側だというのに祖母は毎日畑仕事をするほどに元気で、忙しくしていてもわたしの話をないがしろ
にすることはなかった。

 祖母の家の近くには小高い山があり、腕白だったわたしは当然のように探検に行こうと友達に提案をした。し
かし、友達は皆難色を示し、「子供は山に入ってはいけないきまり」と言う。なんだ意気地なし、と思ったわた
しは、その企みをやめたふりをしてこっそりとひとりで山に入ることにした。
 山には小道があり、やっぱり人が入るんじゃないかと気を大きくしたわたしは探検を開始した。何せ都会には
こんなに鬱蒼と木が繁った場所はない。最初は少し怖くもあったが、自然と心が高揚していく。薄暗い中に木陰
から零れる陽射しのきらめき、むせかえるような草いきれ。カブトムシだって居そうだ。何故皆怖気づくのだろ
う。まるで勇者にでもなったような心持ちで、ますます勇ましく次の一歩を踏み出した時、小さなお堂が見えた。
 小さい私の身の丈ほどの、本当に小さなお堂だった。道はそこまでで途切れており、苔もむさずに小奇麗にさ
れたその前にはお供え物か、饅頭が置いてあった。
 そこでわたしはいたずら心を起こし、饅頭に手を伸ばした。いつお供えされたものかわからないし、勿論食べ
るつもりはない。友達に証拠品として持ち帰ってやろうと思ったのだった。
「こら」
 ところがそこに突然かけられた声。完全にこの山に自分ひとりしかいない感覚に陥っていたわたしにとって、
それは青天の霹靂だった。驚きのあまり総毛立ち、反射的に出していた手を思い切り引いて逃げ出そうとしたが、
足がもつれ尻餅をついてしまった。
 訳もわからずただ叱られると思い目をぎゅっと瞑っていたが叱責の声は降って来ない。恐る恐る顔をあげた。
「見ない顔だ。郷の子?」
 そこには、浴衣を着た細身の人が立っていた。多分、男の人。顔は狐の面で隠されていて、聞こえてくる声で
しか判断出来ない。「彼」との最初の出会いだった。
「……ううん、おばあちゃん家に来てる」
 お祭りでもないのに浴衣にお面、どう見ても不審人物だ。人さらいかもしれない。でもその時のわたしには、
なぜか危機感がなかった。彼の周りに吹いている風が、夏だというのに妙に涼しかったせいかもしれない。
「そう。郷の子供はなかなか入らないから、珍しいと思ったよ。名前は?」
 訊かれてつい答えそうになり、不信感も顕わに睨みつける。怖い気持はあったから、きっと虚勢を張りたかっ

52 :No.12 さやかにひかる 2/5 ◇0YQuWhnkDM:07/07/08 21:30:50 ID:WOIoR4Ed
たのだ。それを拒否と捉えたのか、彼が手を制するように軽くあげた。
「そうか、先に名乗るべきか。だが私には名前がない。おまえのものも聞かないでおくよ、街の子」
「名前がない?」
「ないよ」
 不思議に思ったから問い返したのに、あっさりと肯定されてしまってむずむずとした気分になる。余りに納得
のいかない顔をしていたのか、彼がお面の奥で笑う気配がした。
「私はひとでないからね。さあ、お帰り。出来れば私に会ったことは言わないように」
 とんでもないことばを投げかけ、そのまま会話は打ちきられてしまった。嘘じゃない、と本能が言った。
「また来る」
 負けた訳じゃないぞ、という精一杯の主張だった。「え?」酷く意外そうな声を背にわたしは駆けた。その声
がやけに幼く聞こえたことが愉快だった。
 帰ったわたしを待っていたのは、初めて見る祖母の眉の吊り上がった顔。友達のうちのひとりが山へ行くわた
しを見ていて告げ口したらしい。足が痺れて立てなくなるまでお説教は続き、次は絶対にばれないようにしよう
とわたしは心に誓った。子供はそうそう懲りない。
 しかしその機を逃がしたままに程なくしてわたしの夏休みは終わりを迎え、山に入ることの出来ないままに田
舎を去ることになった。なんだか彼に「また来る」と言ったのに嘘をついてしまったような気がして、帰りの電
車の外を眺めながら唇を噛んだ。駅も遠い田舎のこと、車窓から山は見えなかった。

 季節は巡り、また夏がやってくる。一年もたてば記憶も薄れるかと思ったが、あの時の声は驚くほど鮮明にわ
たしの中にあり、わたし自身をも急かすのだった。早く、もう一度会いに行かないと。約束を果たさないと。
 望みが叶い祖母の家へと向う途中、わたしはずっとどうやって山にひとりで潜り込むか考えていた。祖母が忘
れてくれていればいいが、あの説教の強い調子を思い出すとそれは考えにくい。
 案の定、祖母はそれとなくわたしの行動を見張っているように思えた。子供じみた自意識過剰だったのかもし
れないが、その時は間違いないという確信すらあった。なかなか山へ行けない。
 しかし好機は突然訪れた。夏祭りだ。人の少ない田舎ではあるが、そこそこの規模のものが開催される。わた
しは夜店にしか興味がなかったが、祭りの間はそこに人の目が集中している。違う山の神社から出る昼の神輿を
見ながら、ぴんときていた。夜だ。
 計画は意外なほどにすんなりと成功した。適当に夜店を見て友達に会えたら一緒に回るのだと母と祖母には言
い、家を飛び出した。出掛けに浴衣を着付けられてしまったのは誤算だったが、下手に逆らわない方がいいと下
駄を鳴らして夜店へまっすぐ向った。

53 :No.12 さやかにひかる 3/5 ◇0YQuWhnkDM:07/07/08 21:31:04 ID:WOIoR4Ed
 子供にも知恵がある。夜店へ行くと言って何も持たずに帰っては不自然だろう。邪魔にならない程度のもの、
と思い真っ赤なりんごあめを買うと、知合いに呼び止められない内にそっと脱け出した。
 一年ぶりの山はとても暗く、月明かりがあっても木に遮られてしまう。道がなければ大変だっただろう、と思
いながら歩く。不思議と恐怖心はなかった。もうすぐ約束が果たせることで頭がいっぱいだった。
「こら」
 お堂の屋根が月に照らされた、と思った瞬間に声がした。自分でも意外なほどにその声を待ちわびていて、何
故か涙が出そうになった。慌てて振り払うように周りを見ると、すぐ側に彼が立っていた。
「夜にこんなところに来たら危ないだろう」
「うるさい、また来るって言ったから来たッ」
 泣いてしまいそうになった自分が恥ずかしくなって怒鳴る。顔が熱かった。
「……街の子か。男の子じゃなかったのか」
 驚いた声に、覚えられていたことに誇らしさと少しの憤りをおぼえる。確かにわたしは黒い棒っ切れのようだ
ったけれど、浴衣を着ないとわからないものか。
「みやこ」
「ん?」
「京、わたしの名前」
 ミヤコ、と繰り返す彼の声は戸惑いを含んでいるようだった。けれどその顔はやはり狐のつんとした面に隠さ
れている。なんとなく腹立たしくなって、その脛を蹴った。
「あいたっ」
「来年も、その次もその次も来てやるんだから」
 証拠として買ったはずのりんごあめをぽいと彼へ放った。以前と同じに背を向けて駆け出す。
「もう来てはいけないよ」
 暗い道を駆け、気付くとまだ続く賑いの中。背中が汗で気持悪い。りんごあめをもうひとつ、買って帰った。

 そうして次の夏を待つのだと思っていた、突然両親が離婚するまでは。
 わたしは母に引き取られた。一緒に来るかと母には訊かれたが、父には訊かれなかったからだ。きっと夏に父
をひとりで置いて田舎で楽しんでいたツケが回ってきたのだと思った。
 母は実家へ帰り、わたしは春に郷の子になった。友達は元々いたし、苗字が変わることに多少の居心地の悪さ
はあったが、慣れるまでにそれほど時間はかからなかった。ただ、ひどく淋しかった。
 ある日、学校の帰りに友達と別れてから山へ向った。生活に慣れることに必死でそれまで忘れていたのだが、

54 :No.12 さやかにひかる 4/5 ◇0YQuWhnkDM:07/07/08 21:31:18 ID:WOIoR4Ed
淋しさを感じる余裕が出てくると無性に彼に会いたくて仕方がなくなったのだ。
 山は新芽の息吹に溢れていた。初めて見る春の姿に、本当に自分がここで暮していくことになったのだという
ことを改めて思い知らされる。涙が溢れてきて、わたしはただとぼとぼと途方に暮れるように泣きながら歩いた。
「どうした、街の子」
 彼はお堂の少し前で、道の傍らに座っていた。手に赤いものが見える。りんごあめだった。それを目にした瞬
間何かが堰をきったように溢れだし、わたしはその腕にしがみついて声をあげて泣いた。自分が世界でたったひ
とりになったような気持ちでいたこと、もう街の子ではないこと、会いたかったことを途切れ途切れに話し、そ
の間彼はずっと黙って、傍らに置いてあったらしい何かの実をつまんでは口をもぐもぐとさせていた。後々考え
ると彼は面を斜に着けて顔を隠していなかったのだが、その時の私は自分のことで精一杯で、
「都からミヤコが郷へきたか」
 下らない駄洒落に気をそらされた時、彼がとてもやさしい目でこちらを見ていたことに気付いたのだった。そ
の姿は普通の人と何ら変わらず、狐の面が本当の顔だったのではないかと思っていたわたしには意外だった。
「……面白くない」
「そうか」
「その実、なに」
「ナツメ。やらない」
 ちょうだい、と言いかけた先を制されてわたしは膨れる。彼はまたひとつ茶色い実を口へ放った。
「この山の物は山の者のためにあるからだよ。私がこの赤いのを食べられないのとおなじことだ」
 しがみついたままだった手に持ったりんごあめを軽く振って見せられる。では、あの時の饅頭はどうなったの
だろう。動物たちが食べたのだろうか。そんなことを考えながら、それでもりんごあめを手放さずに彼がいたこ
とに嬉しさを覚えたものだった。
「もう来てはいけないよ」
 また彼が口にする。わたしは首を横に振った。
「ひとりはさみしいから」
「家族も友達もいる、郷の人間はひとりではないよ」
「ちがうよ、だって郷に行かないんでしょ、ずっとひとりでしょ」
「……私のことか」
「また来るよ」
 そう言い捨て、腕を離すとわたしは三度彼に背を向けた。名を呼ぼうとして逡巡するような嘆息が聞こえた。
 それから、わたしは人の目を盗んで山へ通った。夏に無花果、秋に柘榴。彼の口にする果実が季節を教えてく

55 :No.12 さやかにひかる 5/5 ◇0YQuWhnkDM:07/07/08 21:31:33 ID:WOIoR4Ed
れた。わたしはもうそれをくれと言わず、彼もわたしに来るなとは言わなくなった。
「あの山には子供が入ると魅入られる、山の実を食べると取込まれるっていう言い伝えがあるんだよ」
 祖母がどこか諦めたような顔をして告げた。祖母はもしかしたらずっと気付いていたのかもしれない、と思い
つつも「大丈夫だよ」としか言葉には出来なかった。何が大丈夫なのかはわからない、現にわたしは魅入られて
しまっていたのだから。ただそれは、山にではなく。

「おまえはいつまで郷にいるのだい」
 ふと彼が呟くことに思考が引き戻される。わたしは今も山にいた。母に負担をかけたくなかったから大学へは
行かず、仕事も少ない小さな村役場で働きながら、彼と人の減っていく郷を眺めていた。
「りんごあめ、あげる」
 祭りの夜、質問には答えず彼に赤いあめを放る。受けとめた彼が面を外す。静かな顔をしていた。
「郷の者が山に入らないのは私の為だったようだ。おまえに私は『さみしい』を教えられてしまったよ」
「ねえ」
 制するように声を出すと彼は口を噤む。喋り過ぎたと思ったのかもしれない。
「わたし、お父さんに何も言えなかった。何か言って拒まれるのが怖かったから、お父さんはわたしが嫌いに違
いない、だから訊く必要はないって自分に言い聞かせた」
 彼は黙って頷く。月の明るい夜だった。りんごあめがきらりと光った。
「後悔した。何でちゃんと話さなかったんだろうかって、とても。もうそんな諦め方をするのは嫌なんだ」
 じっと彼を見つめる。わたしはその背丈に追い付いて、並べるようになった。彼は何も変わらない。だから、
ずっと考えていたこと。
「その実をわたしにちょうだい」
 彼のもう片方の手には、まだ割れていないあけびがあった。
「……これはまだ、熟れていないよ」
 その言葉に何も返さずじっと見つめていると、おもむろに彼がりんごあめの袋を破いた。驚くわたしに構わず
がりりと音をたてて齧る。声をあげそうになったが辛うじて抑えた。
「何してるの」
「余り旨くはないなあ。食べてみたかったんだよ、一度。……おまえにばかり背負わせることもない」
 彼には見たところ異常はない。一応の安堵をしながら手に渡されるあけびの重みを感じ、わたしは考えていた。
彼が人の実を食べ、わたしが山の実を食べ、ふたりの距離は詰まるのだろうか。
 いつかふたつの間で、わたしたちは手を取り合えるのだろうか。



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