【 ロンドンと僕と青い空
】
◆2LnoVeLzqY
48 名前:No.13 ロンドンと僕と青い空 1/5 ◇2LnoVeLzqY[] 投稿日:07/07/01(日) 22:58:16 ID:+Xl9deu1
何だか眩しい。おまけに暑い。窓から差し込む光にそそのかされるように僕は目を開ける。そういえば、カーテンを閉めずに寝たんだった。
強めの陽射しが、枕元にある時計の文字盤をきらきらと輝かせていた。午前十時。思ったとおりの起床時間だった。
大きく伸びをしてから僕は、のそりのそりとベッドから這い出る。日光のせいで室内が暑い。もう七月なのだ。
窓を開ける。そこから飛び込んできた涼しい風が、ぼーっとしていた僕の頭にちょっとだけエンジンを掛けた。
昨日は、むしろ今日は午前四時までゲーセンにいた。だからもう少しだけ寝ていたいのが実際のところなのだった。
けれど昼からは大学があるから起きなきゃいけない。仕方ない。部屋を出て階段を降りていくと、居間では母さんがどこかへ出かける準備をしていた。
「おはよ、どこ行くの?」
「何言ってるの、今日はパートがある日よ」
……ってことは今日は水曜か。母さんがパートに言ってるのは月曜と水曜だけど、昨日も大学に行った気がするから今日が月曜なわけはない。だから今日は水曜だ。
「ゲーセンばっかり行ってないで、ちゃんと勉強しなさいよ。朝ごはんは勝手に食べてね。それじゃ、行ってくるから」
それだけ言うと、母さんはすたこらと居間を横切って玄関に向かう。
見送る気は別になかったけれど、僕もその後についていこうとした。
けれど居間に落ちていた新聞にふと目を留めた隙にバタンと音がして、僕が玄関にたどり着いた時には母さんは出ていった後だった。
結局スリッパを履いて、まるで何かを埋め合わせるように僕は玄関のドアを開けた。
見慣れた住宅街の風景が目の前に広がる。鳥が鳴いている。北海道のくせに、セミの鳴き声まで聞こえてくる。
部屋で浴びたような涼しい風はちっとも吹いていなくて、むっとした夏の熱気だけが、僕の頬を撫でる。
こんな熱気に用はなかった。さっさと居間に戻って朝ごはんを食べようと思った。
けれどドアを閉めようとしたとき、ふと思い出したように、郵便ポストの中に手を突っ込んでみた。
あっ、と思った。ポストには手紙が一つ入っていた。
取り出して見て僕はもう一度、あっ、と思った。英語でこの家の住所が書かれている。それは久しぶりの、姉貴からの、国際郵便だった。
お父さん、お母さん、それと悠太、久しぶり。
前の手紙から少し間が空いてしまってごめんなさい。もしかしたら、余計な心配を掛けていたかもしれません。けれど大丈夫、わたしは元気です。
この旅も、三ヶ月経ってようやくアメリカ大陸を抜け出しました。全行程の三分の一が終わってしまったことになりますね。とてもとても、名残惜しいです。
けれど、残りはまだ三分の二もあるんだと考え直して、帰るまでの日々を楽しもうと思っています。
わたしはリオデジャネイロから、ロンドンへと渡ってきました。今いるのはブルームズバリーという地区です。
とても気のいいおじさんが経営している宿を見つけたので、そこに三週間ぐらい滞在して、イギリスを観光する予定でいます。
けれど、三週間で足りるかどうか、ちょっと不安だったりもします。というのは、ガイドブックも買ったし宿のおじさんにも話を聞いたけれど、イギリスは見所が多すぎるようなので。
お金はまだまだ大丈夫。宿のおじさんは、手伝ってくれれば宿泊費はうんとまけてやるとまで言ってくれています。こういう出会いがあると、本当に旅をしていて良かったなと思えてきます。
最後に、いつものように写真を同封します。今回はロンドンの街の写真です。次の手紙は十日ほど経ったら書きますが、そのときは色々な観光名所の写真を載せられたらなと思っています。では。
49 名前:No.13 ロンドンと僕と青い空 2/5 ◇2LnoVeLzqY[] 投稿日:07/07/01(日) 22:58:35 ID:+Xl9deu1
姉貴は大学四年になったとき、たった一人で旅に出た。
それも、ただの旅じゃない。世界一周の旅だった。四月から、卒論提出に間に合う十二月まで。八ヶ月間で世界を巡る旅。大学一、二、三年のときにバイトで貯めたお金で、世界を巡る旅だった。
二月に姉貴がその話を切り出したときは、家族全員が驚いた。確か夕食の席だったと思う。
誰もが箸をぴたりと止めて、大真面目な顔の姉貴を、何も言わずに見つめていた。
実は、大学に入学したときからこれを計画していた。そう姉が言ったときには、全員がもっと驚いた。たぶん驚いていた。その瞬間は、全員が、あっけにとられて何もいえなかったから。
父さんも母さんも、ひとまず反対に回った。大学はどうするの、とか、いくらなんでも危ないだろう、とか。
けれど姉貴はそんな反論も、最初からお見通しだった。そもそもが、とんでもなくしっかり者の姉貴なのだ。
物事を筋道だてて考えることとか、あらゆる可能性を考慮に入れることとか、とにかくそういったことで、姉貴に勝てる人間は家族内にはいなかった。
大学の単位は全部取った。あとは卒論だけ。提出日までには日本に帰ってくる。お金は大丈夫。三年間貯金してきたから。
それに、危なくはないよ。わたしだってもう大人なんだから。言葉は大丈夫。英語は勉強してきたし、フランス語も日常会話までは大丈夫。
手紙は出すよ。必ず。写真も同封するから。
……姉貴に勝てる人間は、やっぱり家族内にはいなかったのだ。
僕はといえば、父さんと母さんに反論する姉貴を、何かのテレビドラマの主人公みたいだと思いながら、ぼんやりと見つめていただけだった。
僕も春からは姉貴と同じ大学の、同じ学部に進む予定だった。けれど向こうが旅行に出かけたせいで、大学内で会う可能性は0になった。嬉しいのか、悲しいのか。僕にはわからない。
向こうが青空の下で見知らぬ街を見て回っている間、こちらは蛍光灯の下で、同じような毎日を繰り返している。
僕が西洋史学の先生の、子守唄みたいな歴史談義を聞いているとき、姉貴はたぶん、その歴史的な場所へと直に訪れている。
僕が英語の先生の、ネイティブですら知ってるか怪しい複雑な文法解説を聞いているとき、姉貴はたぶん、ネイティブが話す本物の英語を聞いている。
僕は姉貴からの手紙を一旦、居間のテーブルの上に置いた。
それから床に落ちていた新聞を拾い上げて、改めて曜日を確認した。確かにそこには、水曜日と書かれていた。僕の推測は間違っていなかったらしい。
新聞を放り投げると、僕はテレビをつけた。大して見たい番組はなかった。完全に、何となくだ。それが、いつもの癖なのだった。
午前のワイドショー番組の中では、朝から繰り返しているであろうニュースを、アナウンサーが一生懸命喋っている。いかにも真剣ですという表情で、カメラの向こうにいるはずの人に何かを訴えかけようとしている。
昨日はどこどこで火災が発生して誰々が亡くなりました。政治家の誰々がまた失言をしてしまいました。
芸能人の誰々が結婚を発表しました。相手はどこどこの大富豪です。今日の天気は全国的に快晴。札幌は今日も暑くなるでしょう。
知りたくもない情報が、画面の向こうから一方的に、絶え間なく届けられてくる。僕はうんざりした。見なけりゃ良かったと思った。けれど、もう遅いのだった。
火災で誰かが死んで、政治家の誰かが失言をして、芸能人の誰かが結婚したこと。それらすべてを、僕は知ってしまったのだ。
そんなの、知りたくもなかったのに。
窓の外には雲ひとつない青空が広がっている。耳をすませばテレビの音に紛れてセミが鳴いている。今日も札幌は暑くなるらしかった。うんざりした。だから知りたくなかったんだ。
50 名前:No.13 ロンドンと僕と青い空 3/5 ◇2LnoVeLzqY[] 投稿日:07/07/01(日) 22:58:54 ID:+Xl9deu1
僕はテーブルから立ち上がって、台所に行ってトースターに角食を入れた。
それから冷蔵庫からベーコンと卵を取り出して、フライパンの上に落とした。
半分だけ切ったトマトがまな板の上に乗っていたから、それももらうことにした。
その間ずっと、テレビ画面の向こうでは絶えず誰かが話していた。その誰かに話しかける権利は、僕にはない。その誰かに反論する権利も、僕にはない。
僕に出来るのは、画面の向こうから一方的にやってくる、僕とは関係のない遠い世界の情報を、受け入れるか拒否すること。それだけなのだった。
テーブルにトーストとベーコンエッグとトマトを置いてから、僕はテレビを消した。
家の中には一瞬だけ静寂が訪れる。その静寂も、すぐにセミの鳴き声に破られる。
僕はトーストをかじりながら、姉貴の手紙に同封されていた写真に目をやった。
馬鹿でかい観覧車を、下から見上げたような写真。これなら聞いたことがある。ロンドン・アイだ。
テムズ川のほとりからロンドンの街並みを見つめる、巨大な機械の目。
その目に乗って写したであろう風景写真も、一緒に手紙に入っていた。
それは青空の下、陽射しを受けて輝くロンドンの街並み。新しそうなビルと、百年単位の年月を過ごしていそうな建物たち。それらがごちゃ混ぜになって作り出すのは、ひとつの秩序ある風景。
その風景を真っ直ぐに横切るのは、大きな大きなテムズ川。ロンドンの街はその河によって、真っ二つに区切られている。
僕はしばらくの間、写真の向こうのテムズ川の、陽射しに光る水面をじっと眺めていた。
実は、姉貴の送ってきた写真をじっくり見るのはこれが初めてなのだった。普段は大抵の場合、母さんと一緒に見ることになる。
けれどそうなると母さんの「すごいわねー」とか「いいなー」って感想がうるさくて、写真を集中して見ることなんてできやしない。
だから僕は、家に誰もいないこのチャンスに、姉貴の写真をじっくり見てやろうと躍起になっていたのだ。
テムズ河の水面は動かない。当たり前だ。そこにかかった橋を行きかう豆粒みたいな車も、ぴたりと静止したままその写真の枠の中に収まり続けている。
僕は写真の表面を撫でてみる。つるつるとして味気ない感覚。写真から僕が得られるのは視覚への刺激のみだった。
けれどそのことが逆に、「その風景を生で見て、感じたはずの姉貴」の存在を、僕に嫌と言うほど意識させてしまう。
写真の中に、飛び込めたらいいのにと思う。
手を突っ込んで、頭を突っ込んで、姉貴が感じているであろうロンドンの風を、匂いを、音を、空気の冷たさを、この鼻で、この耳で、この肌で、僕自身も、感じてみたいと思う。
馬鹿でかい観覧車に乗ってみたいと思う。石畳の上を歩いてみたいと思う。とにかく、姉貴のいる場所に、行ってみたいと思う。
けれどそれらは、無理な相談なのだった。
姉貴からの手紙を、僕はもう一度読んだ。書かれていることはさっきと変わらない。ブルームズバリーってどこだろう。その宿ってどこにあるんだろう。
姉貴の手紙には、宛先だけしか書かれていない。姉貴の居場所はわからない。わざと書かないんだろうか。そうに決まってる。姉貴のことだ。邪魔されたくないんだろう。
僕は姉貴に聞きたいのだ。あるいは姉貴に言いたいのだ。あらゆることを。僕が今思っているすべてのことを。
なのに。目の前にあるのはただの手紙で、僕にはそれに話しかけることも、反論することもできやしない。姉貴の筆跡は何も変わらずに、そこにあり続けている。
姉貴からの手紙は、写真は、まるでテレビみたいだ。
一方的に、とにかく勝手に、僕に情報を届けてしまうから。
51 名前:No.13 ロンドンと僕と青い空 4/5 ◇2LnoVeLzqY[] 投稿日:07/07/01(日) 22:59:10 ID:+Xl9deu1
手紙から顔を上げればそこにはテーブルがあって、食べかけのトーストと、ベーコンと、トマトがその上に載っていた。
その傍には僕が放り投げた新聞が落ちていて、さっきテレビで言っていたのと同じニュースが、そこでは文字になって書かれている。
おまけに今日の日付も載っていて、そこには水曜日、と書かれている。水曜日。
けれど僕は思う。昨日と一体、何が違うんだろう。
テレビの上の時計は十時半を回っていた。そろそろ大学に行かなくてはいけない。昨日も、今日も、明日も、僕は大学に行かなくてはいけない。
僕の毎日は大学と家との往復だ。その過程では宿に泊まったり、ロンドンの観覧車に載ったり、見知らぬ土地の空気を浴びることはない。
――きみの生活は単調で、刺激も発見もなくて、とてもとてもつまらないものなんだよ。
手紙から、そう言われている気がする。そしてきっと、それは正しいのだ。
同じ場所で、同じ空気を吸い続けて、同じ毎日を過ごす。
それが、今の僕の生活なのだから。
姉貴の手紙はそのことを、たった今僕へと知らせてしまった。一方的に。なかば勝手に。まるでテレビみたいに。知りたくもなかったのに、それなのに。
仕方ないじゃないか。僕だって望んでこんな生活しているわけじゃない。
そう反論しようにも相手がいない。目の前の手紙と写真は僕の生活のありさまを、まるで反証でもするみたいに浮かび上がらせる。
知りたくなかったんだ。そんなこと。自分の生活がつまんないだなんて。
僕は残っていたトーストとベーコンと卵とトマトを一気にかき込む。それから顔を洗って着替えてカバンを持って家を出る。
自転車を漕いで、昨日も通った道を通って大学へ行く。頭上では青空が後方へと流れていて、その中を小さな鳥の影が飛んでいる。
この青空をずっと辿っていったらロンドンにたどり着くんだろうか。あの鳥はロンドンにたどり着けるんだろうか。セミが鳴いている。姉貴、たぶんロンドンにはセミなんていないよね。
普段通っている踏み切りが、ついさっき人身事故があったらしくて通れなくなっていた。人だかりができている。けれどその中心まで分け入って、見たくもないものを見る気なんて僕にはない。
だから一旦引き返して、それから他の踏み切りを探して線路に沿った道を走り始めた。辺りは見慣れない風景だ。
すると突然、見知らぬ公園が視界に飛び込んできた。広い公園だった。僕が知らない、見たこともない公園だった。
公園の敷地は、そのほとんどを緑の芝生が占めていた。遊具は公園の縁に沿ってまばらに点在している。奥のほうにはゲートボール場なんかが見える。
けれど今はこの公園の中には、誰もいないようだった。
僕は自転車を押してその中に入る。
陽射しが強く、まぶしくなってきた。馬鹿みたいな原色に塗られたジャングルジムがきらきら輝いている。僕はその横を通り抜けて、木陰に置かれていたベンチに腰を掛ける。
緑の芝生と青い空だけが、目の前には広がっていた。
ざあっと風が吹いて、僕のいる木陰を作る木から葉が落ちてきた。それを拾って触ってみる。
ひんやりと冷たい。表面はつるつるしているようで、実はちょっとだけ、でこぼこしている。僕の持つあらゆる感覚に、その葉は何かを訴えかけようとしていた。
「……大学、今日はサボろっかな」
何となくだけどそう思った。つぶやいてみて、たぶん実際にサボるんだろうなと思った。悪くない。見ず知らずの公園に一日中いるのも、悪くない。
僕はもう一度ベンチに腰掛けて目の前の風景を眺める。緑と青。芝生と空。
52 名前:No.13 ロンドンと僕と青い空 5/5 ◇2LnoVeLzqY[] 投稿日:07/07/01(日) 22:59:27 ID:+Xl9deu1
見たこともない光景。偶然の結果たどり着いた光景。その光景の美しさに僕はとても満足していて、けれどちょっとだけ、そんな自分に嫌気がさす。
踏み切りがいつものように通れたら、たぶんここには来れてないから。
真っ青な空を見上げた。遥か上空を鳥が飛んでいる。あの鳥の名前は何だろう。
姉貴のいるロンドンの空にも、あの鳥は飛んでいるんだろうか。
ふと、バイトでも始めようかなと思った。芝生に視線を戻す。その思いは僕の中で、どんどん強くなっていく。
そうだ、バイトをしよう。バイト代はもちろん貯金だ。三年間。それから単位もちゃんと取ろう。四年になったら、大学に行かなくても済むように。
僕は自転車を急いで引き起こした。最後に風景をぐるりと見渡してから、力いっぱい自転車を漕ぎ出す。
大学をサボる? 前言撤回だ。サボってたって何も始まらない。僕は何かを始めなくちゃいけないのだ。自分から。特別な、何かを。
僕の自転車が向かう先は大学。あるいはいつもの日常。
蛍光灯に照らされた、つまらない、いつも通りの僕の生活。
けれどその生活の先にある、この空の先にある、何か特別な物の影。それを僕は今少しだけ、この手に掴んだ気がしていた。
<了>