【 日は照り、蝉は鳴き、君も哭き 】
◆NCqjSepyTo




34 名前:No.10 日は照り、蝉は鳴き、君も哭き 1/4 ◇NCqjSepyTo[] 投稿日:07/07/01(日) 18:00:51 ID:PHB/wm34
「明子へ。ぼくは今御前崎の灯台でこれを書いている。有り難いことに天気が良く、海がとても綺麗
です。君にも見せてあげたいよ。隆弘」

 じょわじょわじょわと気の早い蝉が一匹、若葉を広げる樹に掴まって鳴いている。夏に近付く温め
の風がその葉を揺らし、気持ちのいい音を立てて絶え間なく流れていく。正午を少し過ぎた日差しは
アスファルトに照り返り道行く人々を辟易させるが、マンションの二階の窓に差し込むには少し高過
ぎた。まだ小学校にも上がらない子供達が、その日差しに負けないくらい元気な笑い声を上げて道路
を往く。今の彼女自身が出来る限りの家事を終えた韮崎明子は、小さく開けた窓の際に座り、子供達
の笑い声を聞きながらその白い手で何枚かの絵葉書を捲っていた。彼女の口元には小さな笑みさえ浮
かび、何か大切なものを愛でるようなその眼差しはとても優しい。そこには青い海と青い空、そして
何処までも続く海岸線が鮮やかに印刷されている。
まるで美しい海の風景をそのまま切り取ってきたかのようだった。

「明子へ。今日のお昼は鰻を食べた。美味しかった。君にも食べさせてあげたい。少し暑いようだか
ら体調には気をつけてください。外出するときはちゃんと日傘を差すんだよ。隆弘」

 差出人は彼女の夫である韮崎隆弘だ。少し頼りないところもあるが優しい男で、明子は心から彼を
愛していた。二人の出会いは大学時代のサークルに遡る。入学したての明子が友達と入った旅サーク
ルの一年上の先輩として、隆弘は居た。殆ど飲みサークルと化していたその集まりに於いて数少ない
純粋な旅好きであった二人が意気投合するのに時間は掛からず、半年も経たないうちに二人きりで出
掛けるようになった。体があまり丈夫ではなく内気な明子ではあったが、隆弘に誘われるままサイク
リングに出かけ、彼のバイクに二人乗りをして遠出をしたりするうちに段々と自分に自信を持てるよ
うになり、明るい笑顔を見せるようになっていった。「君には笑顔が良く似合う」それでこそ明子だ、
と隆弘が微笑んだ日のことを彼女は今も鮮明に覚えている。
 隆弘は海が好きだった。そして明子は、彼の背中にしがみ付きながら流れていく海の風景を見るの
が好きだった。隆弘は海を見ると嫌なことを全て忘れて生まれ変われる気がすると言い、その海で明
子にプロポーズした。夕日に輝く湘南の海辺で泣きながら頷いた明子は、大学卒業と同時に入籍をし
た。幸せだった。

35 名前:No.10 日は照り、蝉は鳴き、君も哭き 2/4 ◇NCqjSepyTo[] 投稿日:07/07/01(日) 18:01:22 ID:PHB/wm34
「明子へ。やはり海は素晴しい。心が洗われるようだよ。落ち着いたら今度は三人で来よう。今から
それが楽しみで堪らないんだ。君と見る海はどんなにか美しいだろう。もうすぐ帰るから、体には気
をつけてください。隆弘」

 明子の妊娠が分かったのは四月の中旬だった。社会に出て三年目になる隆弘の収入は大方安定して
家族三人を養える程にはになっていたし、結婚二年目を過ぎた二人は親の期待もひしひしと感じてい
た。そして何よりもお互いが待ち望んでいた妊娠であり、そんな二人は手を取り合ってまるで子供の
ように声を上げて喜んだのだ。その報告を聞いた二人の親も、漸く初孫が出来たことに感激して涙声
で祝福をしてくれた。幼い頃から父子家庭で苦労してきた隆弘は、幸せな家庭を作ろうと、半分泣き
ながら彼女に言った。何もかもが順調に思えた。
 しかしそれと同時に、二人の間にある問題が浮上した。その問題とは、五月の初旬にある連休を利
用して二人で四泊五日のツーリングに行こうと立てていた計画である。妊娠初期は出来るだけ安静に
した方が良いことと、明子の体が元々強くなかったこともあって、隆弘はツーリングの計画を諦めよ
うと言ったのだ。
 明子は、彼がどれほどその計画を楽しみにしていたかをよく知っていたし、その競争率の高い期間
に休みを取るために必死で働いていたことも知っていた。だからこそ、明子は隆弘にツーリングに行
って欲しかった。だから「私は行けないけど、一人で行ってきたらどう? いい気分転換になるでし
ょう?」そう言って隆弘に勧めた。彼も最初は渋っていたものの、やはり行きたい気持ちは止められ
ず、明子の言葉に甘えて一人で行くことにしたのだ。
「毎日絵葉書を出すよ。綺麗なやつを買ってさ」
 出かける日の朝、隆弘は満面の笑みで明子にそう言った。
「大事な時期なんだから気をつけてくれよ、心配だからさ」
 そして、今の明子が見ているのがその絵葉書だった。

36 名前:No.10 日は照り、蝉は鳴き、君も哭き 3/4 ◇NCqjSepyTo[] 投稿日:07/07/01(日) 18:01:49 ID:PHB/wm34
「明子へ。この手紙が着く頃にはぼくはもう家に居るかも知れないね。毎日違う葉書を出そうと思っ
たのに、海沿いで売っているのはどれも同じようなものばかりだ。明日帰るよ。お土産、大きなもの
は買えないけど一応楽しみにしていてください。隆弘」

 ぱたり、と音がして葉書に滲みそうになった雫を明子は慌てて拭うと、鮮やかな海の写真にそっと
口付ける。彼女の頬から笑みはすっかり消え、そこにあるのは深い悲しみの色だけだった。
 突然警察から連絡が来たのは、隆弘が帰ってくる予定の五日目、ちょうどこれくらいの時間だった。
朝早く海沿いの県道をバイクで走っている時、居眠り運転のダンプに跳ね飛ばされたのだと言う。
衝突の反動で空を舞った隆弘は、地面に叩きつけられて死んだ。交通事故と聞いて無残な遺体である
ことを覚悟した明子だったが、霊安室で眠る隆弘の容姿は以外にも殆ど生前と変わらず、只そこに魂
が無いというだけに見えた。だからこそ明子は暫く彼の死を理解することが出来なかった。
駆けつけてきた両親と泣き崩れる彼の父親を見た彼女の胸に去来したのは、どうしようもない後悔の
念だった。自分が隆弘に死に行く道を選ばせたのだと、その日の出来事がフラッシュバックのように
彼女を襲い、せめ苛んだ。
 その余りに大きな精神的ショックの所為で、あれだけ皆に祝福され更には隆弘の忘れ形見となる筈
だった胎の中の赤ん坊は恐ろしいほど簡単に流れてしまった。医者は彼女に気を遣い、「羊水過多で
した。お母さんの所為ではありません、仕方なかったんです。ご自分を責めないでください」そう言った。
しかし明子には自分の弱さの所為だという痛いほどの確信があり、誰の慰めも耳には入らなかった。
 続けて二つ、自分の命よりも大事な命を理不尽に奪われた明子はもう泣くことも忘れ、只無機質な
病室の冷たいほど白いベッドの上に横たわることしか出来なかった。そんな彼女に無神経な看護師が
女の子だったと告げた。その時彼女は初めて声をあげて泣いた。
 隆弘の死を以って二人の間の婚姻は解消される。それなのにまだこの部屋を出られないのも、彼の
骨を墓に入れられないのも、彼女の心の整理がつかないからだった。

37 名前:No.10 日は照り、蝉は鳴き、君も哭き 4/4 ◇NCqjSepyTo[] 投稿日:07/07/01(日) 18:02:14 ID:PHB/wm34
「                                                            
                            」

 これが最後の一枚だった。海の写真が印刷された裏側には、只の空白が広がっている。
隆弘が死んだのはこの一枚を買った後だった。彼はこの一枚に何を書こうと思ったのだろうか。もう
決して分かることはない。明子はため息をつきながら五枚の絵葉書を大切そうに布にくるむと、細い
金の装飾が控えめに施された白い箱の隣にそっと置いた。
 突然の着信により手元の携帯電話が振動し、それと同時にちりちり、と小さな音がする。明子の両
親は塞ぎ込む彼女を心配し、実家に戻って来いと頻繁に連絡を寄こした。しかし、今会話をしても徒
に心配させるだけだと考えた明子は受話器を取らず、暫く見つめていた。そのうちに電話は振動をやめ、
乾いた音も止まった。
 明子の携帯電話に着いている根付には、ご当地物のキャラクターらしい踊り子の格好をした猫がす
ました顔で鈴と共にぶら下がっている。隆弘が伊豆を通った際に買ったものだと言う。旅に出た隆弘
は帰って来なかったが、皮肉なことに、一枚の絵葉書を含む彼の購入したお土産の幾つかは全く綺麗
な状態で発見され、警察で暫く保管された後明子の元にやって来たのだった。
 その猫を見つめた後明子は、もう当分海は見れないなとひとりごちると小さなテーブルに突っ伏し
た。それはまだ結婚したばかりの頃、隆弘と一緒に選んで買ってきたテーブルだった。明子の体が静
かに震える。その白い左手首には何本もの傷があり、まだ新しいものがぬらぬらと光を反射して益々
痛々しい。また、子供の笑い声が聞こえた。
 ほんの二月前まで「子供が生まれたら狭くなるし引っ越そうか」と二人と一人で笑い合っていたこ
の部屋も今では彼女一人しかおらず、そのがらんとした空間が更に彼女を苦しめる。

じょわじょわじょわと蝉が鳴く。
短い生の喜びを朗々と歌い上げるその声に、小さな嗚咽はかき消されてしまった。

六月が、去く。


終わり




BACK−願いとお願い◆otogi/VR86  |  indexへ  |  NEXT−春の窓辺◆I.sec9CNws