【 明日へのDistance 】
◆DppZDahiPc




19 名前:No.06 明日へのDistance 1/5 ◇DppZDahiPc[] 投稿日:07/07/01(日) 12:40:13 ID:+Xl9deu1
「敢えて言うならば、この話には一貫性がないから、読んでいて主人公たちがなにをしたいのか理解できない」
 私の言葉に、みすぼらしい小さな男は少しだけ渋い顔をして、でも直ぐに微笑んだ。
「『敢えて』ということは、それ以外はよかったてことかい?」
 子供のようにはしゃぐこの人へ、伝えるのは気が引けたが、これも仕事だと割り切る。
「いいえ。それ以外も駄目ですが、跳び抜けて駄目だった、という意味です。正直、これをこのままで出版することはできません」
「あ、ああ、そうか。うん、そうだよね。はは」
 予想通りの反応に私まで気落ちしてしまう。
 一編集者として、ここまで一作家へ感情移入してしまうのは、如何なことだとは理解しているのだが。
 私は落ち込む彼を視界に入れながら、彼の原稿へ目を落とし探す。
「そうですね。この主人公の恋人の感情は、そう、よく描けていると思います。ですから、次は女性、いえ少女を主役に据えた恋物語が良いかもしれません」
「ほ、本当かいっ」
 ころころと変わる表情に思わず口元が弛んでしまい、それを手で隠した。
「でも、女の子主人公かぁ。難しそうだ」
「まったく。やる前から根をあげてどうするんですか、そんなことでは何時まで経ってもラドクリフ先生には追いつけませんよ」
「はは、僕なんかが彼に並ぶことなんかできないさ」
 自嘲気味に笑う彼は、しかし直ぐに表情を改め、いつもの微笑みを浮かべた。
 今日もまた、キツく言い過ぎたのではないかと不安だった私には、その笑みは救済。
「でも、きみが言うのなら、やってみようかな。少女主人公の恋愛ものも、ラドクリフ越えもね」
 彼がぱちりとウインクをした。私へ向けて。
 心臓を打ち抜かれたかと思った。冗談じゃなく、思考も呼吸も停まって、回復するのに僅かな猶予が必要だった。
 なんてことはない、似合ってもいない気障な動作。
 でも、それだけで私にここまでの影響を与える。駄目だ私。
「冗談はいいですから。作家なら作家らしく、小説を書いてください、アナベル先生」
「勿論だとも、次こそはきみの期待に答えてみせるよ。ヘルガ」
 私は顔に仮面を貼り付け、表情を押し隠す、悟られてはならない、絶対に。
「こちらとしてもそう願いたいですね」
 そう言って私は話を切り上げようとしたが、彼に引き留められた。
「顔赤いよ、風邪かい」
 彼の硬い手が私の額にあてられる。更に顔が赤くなるのが自身で分かるのが嫌だ。
 私は感情を否定するように、彼の手をどかす。

20 名前:No.06 明日へのDistance 2/5 ◇DppZDahiPc[] 投稿日:07/07/01(日) 12:40:30 ID:+Xl9deu1
「いいえ、大丈夫です。それよりも、ファーストネームで呼ばないで下さい」
 なんでこうなんだろうか私は、嫌になる。
 それでも彼は、こんな嫌な女へ笑みをみせてくれる、父のような大らかな笑みを。だから、私は、
***
 ラプラス社。それが私の勤める小さな小さな出版社の名前、出版社の大きさに対して誇大な名前だと、いつも思ってしまう。
 だけれど、そのおかげで日の目を見れた作家も多いというのが編集長の自慢。
 今では出す本全てがベストセラーになるウェル・ラドクリフも、流行作家になる前には書いていた。
 と言っても。短編を三本ほど、それも先年には中央にあるパブリクテイルズに権利を奪われ、書いていたというだけであるが。
 それでも編集長兼社長のコリン・カーターは「あのラドクリフは、このラプラスの出身作家だ」と言い張っている。
 短編の出版権をどれ程の値で売ったか、社長から聞かされていないが、看板の塗装が剥げたままなのをみると良い値ではなかったようだ。
 私は整理だけはされている事務所に入ると、コートを脱いで壁に掛けた。事務所には、まだ誰も来ていなかった。
 同僚たちはそれぞれ担当の作家たちへ原稿の催促をしに行っているのだろう。しかし、社長がいないのは珍しかった。
 いつもは、作家希望の青年たちから送られてくる原稿を読んでいる頃合だというのに、少し早いが昼食にでも出ているのだろうか。
 私は彼から、一応と預かった原稿の校正作業をすることにした。
 最近の彼の頬のこけ方を見ると、たとえ屑でも出版しないと、作家として以前に、人間として終わってしまうかも知れない。
 船の荷降ろしを手伝っていると彼は言っていたが、勉強と読書以外のことをまともにしてこなかった彼に、そんなことができるわけがない。
 だから、この本を出版することによって、少しでも彼の懐を暖めてやるのが担当編集としての仕事、なのだろうか。
 ここ数作、いえ、処女作以降彼はまともな小説は書けていない。送られてくる学生の小説のほうが幾分増しなものを書いている。
 それでも、彼の小説に拘ってしまうのは、それは本当に担当だからだろうか、それ以外の感情が作用しているのではないか。
 それについて考えると、一晩かかっても二晩かけても答えはでない。
 どちらにしても、彼の書いた処女作には私の心を捉えるだけの魔力があったのは確かなのだ。
 あれからもう五年も経つが、今でも読み返す、彼との、彼の世界との出会いを。
 ストーリーはありきたりな冒険ものでしかない。
 だがオーソドックスな話を、独創的に仕上げることによって、読んだ全ての人を魅了した。私もその一人。
 でも、出版された彼の処女作は売れなかった。そもそもの部数が少なかったのだ。
 珍しく返本もなく売り切れたが、その頃のラプラスには再販するだけの力はなく。彼の処女作は知る人のみぞ知る本となってしまった。
 ラドクリフの短編を売却した金で、再販すればいいのにと私は思うが、社長はそれを鼻で笑った。
『もう五年も前の、ただの冒険小説を再販するくらいなら、ラドクリフに頼むさ』
 信奉性ラドクリフ症候群。私は心の中で編集長にそう書いたカルテを押し付けた。
「よかった、いた」

21 名前:No.06 明日へのDistance 3/5 ◇DppZDahiPc[] 投稿日:07/07/01(日) 12:40:46 ID:+Xl9deu1
 声をかけられ竦んでしまった。考えに集中し過ぎていたようだ。
 振り返ると、私の後輩だが私以上に業績のあるチャールズ・ダーレスが扉を背に立っていた。
 それへ、私はおやと思った。
「どうしたの、そんなところに立って」
 彼のデスクは入って直ぐにある。
 ダーレスは相好を崩した、その表情はまるで十字架を踏みつけさせられるキリスト教徒のように見えた。
「なあ、ヘルガ。話がある」
「どうしたの、怖い声出して。座ったら」
 彼は乱暴に椅子を引き寄せると、決められたとおりに波立つ髪を手で撫で付けた。
 珍しいことに彼の目は充血し、コロンも香って来なかった。
「ヘルガ、これは例え話だ。いいか、例え話だからな。だから落ち着いて聞いてくれ」
「分かったわよ、それで」
「ラプラスが潰れるとしたら、きみはどうする」
 その言葉に、私はダーレスの笑えない冗句かと思った。彼は笑えない冗句を続ける。
「今、社長が資金繰りのために走り回っている。だけど、もうこんな小さな出版社に金を出してくれる道楽者はいない」
「分からないわチャールズ、なにを言っているの」
 その言葉に、彼は動きを止め。ああと唸った。
「そうか、きみは知らなかったのか。ラドクリフの原稿、あっちの言い値で買われたんだよ」
「なんで」聞き返すと彼は苦い顔をして言った。
「ラドクリフの奴、俺たちへの恩を忘れてパブリクテイルズについて言ったんだよ『この本の権利は僕にある』ってね」
 それは、確かにそうかも知れないが。納得し難い性質のものだった。
 私が知る限り、ラドクリフはそのようなことをいう青年ではない。彼は、いや、そうか。変わってしまったのだ。
 今のラドクリフは、私たちが知っているあの貧乏学生ではなく。最早別人、今では白亜の邸宅に住んでいる。
 金と立場、それを得れば誰でも変わってしまうものなのかもしれない。
「なんなんだよ、あいつは、クソっ」
 チャールズが机を蹴りつけるのを横目に、私は今朝彼から貰った原稿に目を落としていた。
 私は失業を前にしているというのに、この原稿を私の手で世に出せないのかと思うと、悲しくて涙が出た。
 屑でも彼の作品、彼の想いが詰められたもの。それを、手放さなければならないなんて。
「泣くなヘルガ」
 チャールズは私を抱きしめると、私の背を撫でながら、ある提案をした。

22 名前:No.06 明日へのDistance 4/5 ◇DppZDahiPc[] 投稿日:07/07/01(日) 12:41:02 ID:+Xl9deu1
「ヘルガ、何も俺たちまで編集長に付き合って、こんな沈む船に付き合う必要はない。言うだろ、『ノアはいつ箱舟を造ったか』って」
「どういうこと」
「今度、LHPバンクが新しく出版社を創るんだが、そこに来ないかと誘われてるんだ」
 その言葉へは、ラプラスが潰れるということ以上の驚きはなかった。
 以前からもそうであったのだが、金を持て余した金持ちが、自身や自社に箔を付けるため、文化活動に投資することは珍しくなく。
 特にLHP会長はそうした芸術方面への関心が高く、二年前に美術館を建造したのは記憶に新しい。
 いつかは文芸にも目を向けるのではとは、業界内でも囁かれていた。
 だから出版社を新設することへ驚きはなく、その出版社に実力のあるチャールズが入るのは疑問はない。
「良かったわね。貴方の活躍を祈ってるわ」
「なに言ってるんだ、きみも来るんだヘルガ」
「え、私も」
 チャールズの言葉に、私は耳を疑った。
 私はチャールズほど営業力もなければ、大量の作家を抱えているわけでもない。正直連れて行くメリットはない。
「当然だ、俺一人で行くより仲間がいたほうがいい。そう、心強い仲間がね」
「心強い」チャールズの言葉に驚かされてしまった。「人違いじゃないの」
「いーや、きみじゃないといけないんだ。俺は営業はできても、作家それぞれを親身になって考えてやれない」
「俺にとって連中は商品を生み出す機械に過ぎない、だがきみは違う。作家を作家として扱える、俺に足りない部分を補ってくれ」
 チャールズの提案に私は、ならば彼への想いもやはり編集者故だったのかと、違うことを考えてしまっていた。
 それならば、それでいい。だけれど、私の中にある『なにか』がそれを否定する。
「どうだ、いい話だと思わないか」
「え、ええ、そうね」
「はっきりしないな、なにか気になることでもあるのか。ここと同じかそれ以上の待遇は受けられる、ここにいる理由はない」
 確かにそうだろう。
 ラドクリフの短編を言い値で買い取られてしまった今、もうこの出版社には後がない、主力となる作家がいないのだ。
 これからを考えるならば、ここに留まる理由はない。けれど。
「ねえ、そちらへ移るとして、今まで担当している作家たちもそちらで書かせることは出来るの」
「ああ、大丈夫、それくらいは」
 そこまで言ってチャールズの顔色が曇った。
「もしかして。そりゃ駄目だ、あのアナベルとかいう奴なら連れて行けない」
「何故」

23 名前:No.06 明日へのDistance 5/5 ◇DppZDahiPc[] 投稿日:07/07/01(日) 12:41:18 ID:+Xl9deu1
「分かるだろ、あいつはもう作家としての寿命は終わってる。あいつを連れて行って書かせれば、他所から来た連中になんて言われるか」
「それは編集者としての判断」
 私が訊くと、チャールズは力強く頷いた。
「ああ、そうだ。あいつにこれ以上プロとして書かせるのは、死者へ鞭を打つのに等しい。諦めろ」
 私はチャールズの言葉に「そうね」掠れた声で答えていた。
***
 他所の出版社へ行くため、貴方の小説を担当することができないと告げた時の、彼の微笑みが寂しそうに見えたのは考えすぎだろうか
 彼はそっと私へ手を差し向けると。
「きみの活躍を祈ってる、友人として」
「ええ、私も。私も貴方の活躍を祈っています、本に携わる者として、貴方の友人として」
 それが別れだった。あまりにあっさりした別れに、涙もでなかった。これでいい。
 私は彼の本が読みたいのであって、それ以上の感情などない。そう思い込むのが楽だった。
 それから、私は彼のことを忘れるためかのように、新設された出版社で働いた。
 幾つかの出版社から人員を集めたせいで、そのやり方の違いに悩まされたり。
 ラプラスにいた頃には考えられない多さの作家を担当し、目まぐるしい日々を送り。気づいた時には三年の歳月が経っていた。
 私は失踪癖のある作家を二週間がかりで見つけ出し、締め切りを延ばすことによって、家に帰らせた。
 妻子のある身なのだから、もう少し落ち着いて欲しいとところだ。
 出社するなり副編集長にまでなったチャールズに迎えられた、以前はロメオだったその顔も、今はふくよかになっている。
「帰ったばかりで悪いんだが、この本を読んでみろ、驚くぞ」
 そういって手渡されたのは、薄桃色の表紙のペーパーブック。
「うちはこれまでお堅いもんばかり出してきた、でもこれからは違う、冒険もの、ジュブナイルも出そうと考えている」
 無言の私へチャールズが話しかけてくる、私の目は本の最初の一頁目で止まっていた。
「そう、恋愛モノもね。だから、今その線で一番売れている本を書いてる作家を呼ぶことに決めた」
「そんな、まさか、嘘でしょ」
 それに答えたのはチャールズでも、他の編集部員でもなかった。
「嘘じゃないさ、ヘルガ」
 振り返ると、そこには、

   ――親愛なるヘルガへ。
        アイザック・アナベルより、愛を込めて。




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