【 胸をつかんでしまった 】
◆QIrxf/4SJM




14 名前:No.05 胸をつかんでしまった 1/5 ◇QIrxf/4SJM[] 投稿日:07/07/01(日) 12:37:43 ID:+Xl9deu1
 珍しいことに、目覚ましが鳴るよりも早くに目が覚めた。
 俺は自分の部屋を出て、階段を下りて食卓へと向かった。
「ちょっと、新聞取ってきて」と母親が言った。
 ぼさぼさの髪の毛のパジャマ姿で玄関を出た。
「ああ、さみぃ」と俺は言った。
 早春の朝は寒い。体が冷えないうちにさっさと戻ろうとして、郵便受けに飛びついた。
 ふたを開け、新聞を取り出す。
「ん?」
 閉めようとして郵便受けの中を見たとき、一つの便箋があることに気付いた。
 真っ白な便箋には切手も貼られておらず、ただ表に「あなたへ」とだけ書いてあった。
 風がびゅうと吹いた。
「さみぃ、さみぃ」便箋をパジャマのポケットに突っ込み、食卓へ戻った。
 しけた朝食だ。砂のような味がする。
 親父は不機嫌そうな顔でコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。母親はワイドショーを見ながら、味噌汁をかき回している。
「宿題は、ちゃんとやったんでしょうね?」と母親が聞いてきた。彼女の泣き黒子がひどく目障りだ。
 俺は無視して、納豆をごはんにかけて口に運んだ。
 トマトを食べようとすると、姉貴が俺の手を払った。
「これはあたしが食べるの」
 俺は舌打ちをして自分の部屋に戻った。
 家族に無関心な親父と、ガミガミとうるさい母親に、いちいち突っかかってくる姉貴。一番年下の俺にとって、この家はひどく居心地が悪かった。みんな死ねばいい。
 制服に着替えようとパジャマを脱いだ。
 そのとき、ひらりと白い便箋が床に落ちた。
 俺は便箋を拾い上げ、「あなたへ」と書かれた文字をじっと見た。裏返しても、それ以外には何も書かれていない。
 ペーパーナイフで便箋を開けると、中には一枚の手紙と、八十円切手と、何かの花びらが一枚入っていた。
 そこには文通をしませんか、という主旨の文章が書かれていた。宛先の後ろにカオリとある。
 俺は机の上にその手紙を投げて、制服を着た。

15 名前:No.05 胸をつかんでしまった 2/5 ◇QIrxf/4SJM[] 投稿日:07/07/01(日) 12:38:01 ID:+Xl9deu1
 部屋の鍵を閉め、家族に会わないように素早く家を出た。
 くだらない授業を受け、友人と馬鹿馬鹿しい話をして、前の席の女の子の下着の色を想像した。
 しけた日常はそんなに嫌いでは無いが、もし地球が滅びるのなら、俺は喜んで寝てすごすだろう。世界なんて、つまりはその程度のものだ。
 今日の最後の授業はホームルームだった。
 話し合いなんてどうでもいいことだが、俺は適当に冗談をかましながら役員に友達を推薦し、議論の邪魔にならないように努めた。
 放課後、やたらなついてくる女の子と肩を並べて下校した。
 別に話したいことなんてないけれど、沈黙はさすがに気まずいので今朝の話をすることにした。
「おまえさ、文通しようって手紙出した?」
「なんのこと?」と彼女は言った。「文通なんて時代遅れだわ。メールでいいじゃない」
 十分な答えだった。
 俺は彼女のパンツの色を言い当て、走って家に帰った。急に文通に対して興味が湧いてきたのである。
 自分の部屋に戻り、机に放り投げた手紙を読み直した。
 とても綺麗な字だった。カオリという名の送り主は、きっと若くはない。この落ち着いていて上品な文章を、二十やそこらの若者に書けるとは思えない。寂しげな未亡人という印象を抱いた。
 近所の文房具やから、一番安い封筒を買ってきた。
 鞄の中からルーズリーフを引っ張り出し、さっそく机に向かう。
 まずは自己紹介から始めることにした。ペンネームはギャラガー。
 趣味は音楽を聴くこと。マーラーを聞きながら、リストを演奏する日常の中で、モーツァルトの短命に涙して、ベートーヴェンのために耳鼻科医になることを決意した。と書いた。真っ赤な嘘だ。
 俺はその日のうちに投函した。
 次の日から、俺は待つことの楽しさを覚えた。学校は相変わらず面白くなかったし、家族はしけた面をしてテレビを見ていたが、自分の部屋にいながら音楽を聞いているときだけは楽しかった。
 約一週間後に便箋が帰ってきた。
 まず第一行目には、「本当の趣味を教えて」と書かれていた。確かにばればれの嘘だったと思う。
 俺はにやりとして、文字を追った。
 カオリの趣味は本を読むことらしい。ヘミングウェイとモンゴメリとシェイクスピアが好きなんだそうだ。彼女はお気に召すままを愛し、グレート・ギャツビーを毛嫌いしていた。
 俺はリバティーンズを聞きながら、ペンを走らせた。返事を書く。
 俺の本当の趣味は、ロックを聴くこと。演奏すること。姉貴とアヴリルのトゥギャザーを熱唱して近所に怒鳴り込まれたことがある。
 俺は好きなバンドを並べた。ミッシェル、ブランキー、ゆら帝―――

16 名前:No.05 胸をつかんでしまった 3/5 ◇QIrxf/4SJM[] 投稿日:07/07/01(日) 12:38:19 ID:+Xl9deu1
 それから嫌いなバンドを並べる。ビークル、エルレ、サム41、グリーンデイ―――日本でパンクをやってるやつは脳ミソに何が詰まってるんだ? ピストルズみたいに尊敬できる奴が全くと言っていいほど存在しない。パンクスはアビィ・ロードでも聞いて改心しろ。
 とちょっと誇張してめたくそに書いた。まだ続く。
 チバがいかに俺のハートを射止めたか、ベンジーのイカれた歌詞の魅力、ファズギターの中毒性、椎名林檎の歌声―――それから、オアシスの二枚目を始めて聴いたときの感動、リバティーンズの危うさ、ファット・ボーイ・スリムの夢に出てきそうなジャケット。
 気が付いたとき、ルーズリーフの裏表にびっしりと文字が刻まれていた。趣味について語ることが、こんなに楽しいものだとは。
 俺の書く字はひどく汚いものだったが、構わず二つ折りにして便箋に入れた。
 その日、夢を見た。アラスカ帰りのチェーンソーに憧れる可愛いスカンクの俺は、夜しか泣かないクロブタに青噛んで熟ってもらっているところを眺めていた。素敵な夢だった。
 返事が返ってくるまでの間に、俺は本を読んだ。親父の書斎や母親の寝室をあさると、目当ての本はほとんど揃っていた。
 まずはカオリが毛嫌いしていると言うグレート・ギャツビーを読んだ。俺にはさっぱり嫌う理由がわからなかった。
 赤毛のアンは面白かった。そういえば、ガキの頃にアニメで見たような気がする。アンの元気を貰ったような気がした。
「あんた、何読んでるの?」と母親が言った。
 俺は黙って本のカバーを見せた。リア王である。
 母親はくすりと笑った。泣き黒子が肌にめり込んで消える。
「本なんか読んじゃって、どういう風の吹き回し?」と姉貴が言った。
「トム・ヨークだって春樹を読む」と言い返しておいた。

 返事が返ってきた。便箋の中に、八十円切手と一緒に五百円切手が入っていた。
 カオリが言うに、五百円は小遣いなんだそうだ。使い道が思いつかないので、机の引き出しに放り込んだ。
 俺は、相変わらず好きな音楽について語った。カオリは本について語っていた。
 カオリは俺の紹介したアルバムを聞き、俺はカオリにすすめられた本を読んだ。
 俺の生活は少し変わった。くだらないと思っていた日常の中に、音楽以外の楽しみが二つ増えたのである。文通と、読書だ。
 ある日、カオリは夫について相談をしてきた。関係が上手く行っていないらしい。付き合い始めた当初から考えると、非常に冷めているのだという。
 カオリのことを未亡人だと決め付けていたので、少し驚いた。
 俺はホワイト・ストライプスを聞きながら、真剣に考えた。
 人生経験の少ない自分に、大人の女性へとアドバイスできることなんてほとんど無い。悩みなんて抱えたことも無いし、困難に直面すれば世界はゴミ箱だと考えることでかわしてきた。
 考えても何も思いつかないから、デートしろと書いた。
 俺が恋をするならば、愛という言葉に火を点けて燃え上がらすような、かっこいい恋をしたい。だから、カオリもそうしろよ。くすぶっていても、消えかかっていても、再び燃え上がらせることは出来る。愛という燃料は無限なんだ。

17 名前:No.05 胸をつかんでしまった 4/5 ◇QIrxf/4SJM[] 投稿日:07/07/01(日) 12:38:36 ID:+Xl9deu1
 とベンジーから着想を得て、広げていった。我ながらいいことを書いたと思う。
 数日後の返事は、とても前向きなものだった。字が躍っている。
 デートをすることにしたらしい。そのことについての相談もあった。
 俺は下北でも歩けばいいとおもったけれど、カオリの年が分からないので、上野動物園を勧めておいた。二人きりで歩き回ることが重要なのだ。
 登校の途中で、その手紙を投函した。
 学校が少し楽しくなった。クラスの連中を勝手にカップリングし、それぞれがどんなデートをするだろうかと想像した。首を絞めあう連中もいるだろう。
「デートするなら、どこがいい?」やたら腕にしがみついてくる女の子に聞いてみた。
「高円寺とか、下北の古着屋に行きたいな」と彼女が言う。
 俺たちは学校を早退して、下北へ行った。小田急側を回るだけで日が暮れてしまった。
「学校を抜け出してデートなんて、素敵ね」と彼女が言った。
「明日くたばるかもしれない」と返した。
 次の日曜日、彼女を連れて上野へ行った。カオリに言ったことに対して責任を持てるようになった。
 家に帰ると、親父がしけた面をしてソファに寝転がっていた。そばに母親が腰掛けて、CDを聞いている。
「このオヤジ、気持ち悪いわ」と姉貴が言った。
「パンツでも見せてやれば?」俺は部屋に戻ってギターを弾いた。

 カオリから返事が来た。五百円切手が三枚入っていた。
 デートは成功だったらしい。二人で肩を並べて歩くだけで、お互いの距離を再確認できた。ずっと二人だけでどこかへ行くということがなかったので、好い刺激になった。と書いてあった。便箋の裏に、赤いタンバリンの絵が書いてあった。
 返事を書く。
 カオリは俺に礼がしたいらしいので、胸でも触らせてくれと書いておいた。あとはいつものように日記じみたことと、音楽についてや、お気に召すままの感想を書いた。

 文通を始めてから、三ヵ月が過ぎていた。特に日常に変化は無いけれど、心の中はどこか変化しているように感じる。
 親父のしけた面は相変わらずだったが、時折嬉しそうに見えた。姉貴にトマトをとられても許せるようになったし、母親はガミガミ言わなくなったように感じた。要するに、心が広くなったのだ。
 カオリは手紙の中でこう言った。「胸? 少しだけならかまわないわ。ついでに、一緒に食事でもどうかしら」
 俺たちは会うことになったのである。
 三ヶ月後の第一日曜日に、池袋のジュンク堂で待ち合わせをすることにしていた。

18 名前:No.05 胸をつかんでしまった 5/5 ◇QIrxf/4SJM[] 投稿日:07/07/01(日) 12:38:54 ID:+Xl9deu1
 その三ヶ月が、俺にとってはとても長くて楽しい時間だった。
「最近、楽しそうじゃない?」とやたらすりよってくる女の子が言った。
「スカートの中を透視する力を手に入れたからな」と俺は言った。「ピンク色」
「やだぁ」と彼女は言った。
 くだらない数学の授業にたっぷりと睡眠をとり、クソジジイの漢文の授業を下着の色に例えて解釈した。
 袖口に忍ばせたイヤホンがメテオラを垂れ流しにしている。
 カオリはどんなパンツを穿いているだろう? 胸を触るよりも、そっちに興味があった。
 夫の趣味が出て、ものすごく悪趣味かもしれないし、そもそも穿いていないかもしれない。いくらでも想像は出来た。
 
 俺はジプシー・サンディーをリピート再生しながら丸ノ内線に乗った。ちょっとサディスティックな気分になる。
 待ち合わせよりも一時間ほど早く着いた。
 ラスト・ヘヴンズ・ブートレグを聞いていると、角から一人の女性が現れた。時間ぴったりである。――カオリだ。
 カオリはすごく美人な中年女性だったが、泣き黒子があった。どうやら俺は両親の離婚の危機を救っていたようだ。
「はじめまして。ギャラガー」とカオリは言った。「こんな人でごめんね。」
「黒だな」と俺は返した。「ロザリンドのパンツの色は」
 カオリは笑った。
「んじゃ、約束どおり」俺はカオリの胸をつかんだ。ちょっと揉んでみる。
 想像以上に柔らかくて、ひどく変な気持ちになった。
 俺たちはジュンク堂で沢山の本を買った。
「何をおごってくれるの?」と俺は聞いた。「ハンバーガー食いたいんだけどな」
「マック?」と彼女は言った。「フレッシュネスでもいいわ」
「んじゃあ、モスで」
 カオリはくすくすと笑った。泣き黒子が消えた。
 
 まだまだカオリとの文通は続いている。
 さっきも、俺はシャロンを聞きながら、シトロエンの孤独について書いた手紙を投函した。
 今日の夕食も、ちょっとだけ美味しかった。




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