【 鴎 】
◆DttnVyjemo




4 名前:No.02 鴎 1/5 ◇DttnVyjemo[] 投稿日:07/07/01(日) 12:31:31 ID:+Xl9deu1
 初夏の太陽が狂ったようにコンクリートを照りつけている。沖では白い海鳥達が、
水遊びでもするかのように、燦めく海面に飛び込んでいる。淀んだ磯の臭いは
相変わらず好きになれずにいたが、さすがにこの暑さの中ではそんな風すら心地良い。
鈴子は日傘を持ってこなかったことを少し後悔した。

 港は再会を懐かしむ笑顔で満ちあふれていた。船を降りてくる男達は一様にやつれた
姿をしていたが、多くの者が首から白木の箱を吊しつつもなお、その表情は柔かい。
出迎えのある者もない者も、それぞれの感慨を胸に、生きて祖国の土を再び踏めた
喜びを噛みしめているのだろう。
 今日もまた、鈴子の視線の先に求める面影はない。嫉妬しているつもりはないが、
仕合わせに浸るのはこの場所を離れからにしてほしいと思う。いくら一目で彼を探し出す
自信があっても、こうも人の群れに妨げられては、文句のひとつだって言いたくなる。
 時折、看護婦が担架を担いで足早に通り過ぎる。膝より下を失い、松葉杖をつきながら
よろよろと歩いてくる者がある。そうした傷痍軍人達を見かけては、鈴子は鼓動が早く
打つのを感じる。そしてそれが伸彦でないことを確認すると、失礼だとは思いつつも
安堵するのだ。だが次の瞬間には決まって、たとえ片端になろうとも自分の許に
戻ってきてくれればどれだけ嬉しいことかと、かえって暗い気分になった。

 やがて潮が引くように明るい人波は去り、鈴子と同じ境遇の女達だけが港に取り残された。
 先週も来なかった。今週も来なかった。来週こそきっと――。
 何度同じことを考えたろう。いつしか、そう期待することに精神的な努力を要している
自分がいた。本当に諦めたのならば、復員船の出迎えなどやめてしまえばいい。しかし
そうした“潔い”態度を取ることは、きっと自分には不可能だろう。水面が照り返す西日に
目を細めながら、鈴子はぼんやりとそんなことを考えていた。

「鈴ちゃん!」
 聞き覚えのある声に自分の名が呼ばれ、ハッと振り返った。真っ黒に日焼けし、
髯を蓄えた長身の男がそこに立っていた。伸彦の同窓である、正木信三郎だった。
「正木信三郎、本日の船で還って参りした……ハハハ。いやあ、久しぶりだなあ」
「おかえりなさい。お元気そうで何よりだわ」

5 名前:No.02 鴎 2/5 ◇DttnVyjemo[] 投稿日:07/07/01(日) 12:31:49 ID:+Xl9deu1
「いやあ、何とか生きて還って来ましたよ。赤痢で死にかけて、こんなにやつれましたがね」
 確かに正木はもともと痩せていたが、頬がこけ目が落ちくぼみ、伸び放題の髯と相まって、
浮浪者とも落ち武者ともつかない形相となっていた。
「それにしても、鈴ちゃんも無事で何よりだ。こっちも大層な空襲があったと聞いとりますが――」
「お陰様で。何とか家だけは焼けずに残りました」
 伸彦と正木は大学の同窓生である。同郷ということもあり、卒業後もお互いの家を訪問する
仲であった。美形である鈴子と伸彦のカップルは、常に周囲から嫉妬の視線が向けられて
いたが、正木は図体こそ大きいものの草食動物のように温厚で、二人の仲を心から祝福する
少ない友達の一人であった。しばしば三人はつるんで行動したが、有り体に言って正木は
二人の引き立て役のようにも映った。もっとも、正木はそんなことに頓着しない男であった。
「あいつ、まだ来よりませんか」
 鈴子はその問に答えず、そっと目線を落とした。
「なんだなあ、こんな別嬪さんをいつまでも待たせて、けしからん奴だ。鈴ちゃんに悪い虫が
つかんように、あいつが来るまで俺がしっかり見張っとらんいかんかね」
 鈴子は少しはにかんだ笑みを浮かべた。
「いやだわ正木さん。正木さんこそその『悪い虫』なんじゃありませんの?」
「はっはっは。そりゃあ儂とて、鈴ちゃんみたいな綺麗な人だったら、是非とも嫁に貰いたい
もんだが、そんなことしたらあいつと合わせる顔がなくなってしまう」
「……さてね。戻って来てくれるのかしら。『色は黒いが南洋じゃ美人』なんて流行り歌も
あるじゃありませんの」
「なあに、伸彦に限っちゃそういうことはありますまい。あいつの奥手で土人の娘を口説くなんて、
戦に勝つより難儀でしょう。よく鈴ちゃんとくっついたものだと、今でも不思議に思うちょります」
 正木は笑った。鈴子も愛想笑いを浮かべたが、心の餓えはちっとも満たされなかった。
これといって行く宛のない二人は、どちらから言うでもなく、港をぶらぶら歩き始めた。

「いつ、帰って来るんですかのう……」
 沖を眺めながら正木は弱々しくそう言った。いつの間にか陽は沈みかけている。
「鈴子さん。もし、伸彦が戻らんでも、あなたはいつまでもここで待ち続ける気ですか?」
 鈴子はどきりとした。まさに今もそのことを考えていたからだ。
「もしかしたら……いつかは、諦める日が来るかもしれませんわ。でもその日までは、

6 名前:No.02 鴎 3/5 ◇DttnVyjemo[] 投稿日:07/07/01(日) 12:32:08 ID:+Xl9deu1
ここで待ち続けるのが、あの人への義理なんじゃないかしら」
「『義理』と来ましたか。……しかしあなたは、その義理に一生を費やすおつもりですか?」
「愛しい人に義理立てして、何がいけませんの?」
 田舎者だけに正木の言葉は直截だ。痛いところを突かれて鈴子は逆上した。初めて
見るかくも激しき剣幕に、正木は二の句が継げなかった。しばしの沈黙の後、鈴子は
目をそらし、振り絞るような声で言った。
「……あの人のことを……死んだように言わないでください」
「あぅ……面目ない」
 それきり二人は重い空気に包まれた。海鳥の声と波音だけが、夕凪の波止場に絶え間なく
響いている。

「鈴子さん……本当は空とぼけて帰ろうと思ってたんじゃが、やっぱりこれをあんたに
渡さんといけんようだ」
 そう言って正木が懐から取り出したのは、泥に汚れ変色した一通の封筒であった。
「戻りの船の中で、あいつの上官殿から渡されたのです。書き差しだし、内容が内容だけに、
鈴ちゃんに渡したものか、今の今まで迷ってたんだがなあ」
 正木の言葉もそこそこに、鈴子は封筒を奪い取った。そこには確かに見慣れた文字で、
自分への宛名が書かれていた。赤焼けた一葉の薄い便箋を取り出すと、鈴子はそれを
むさぼるように読み始めた。

     *

長崎を発つてからもう幾月が経つたらう。この手紙が届く頃には、梅か桜が咲いて
ゐるだらうか。今こつちは、正月の休戦中だ。常夏だけに正月気分なんて味はへないが、
それでも餅は支給された。固くて小さい靴底みたいな餅でも、雰囲気はでるものだ。

戦局は相変はらずだ。吾々は何とか堪へてゐる。斯くなる上は、大和魂で最後まで
戦ひ抜くしかない。前線は俺達が頑張るから、鈴子は銃後で大きく構へてゐてくれ給へ。

鈴子。君への想ひは今でもちつとも変はらない。それどころかむしろ、二人を隔てる

7 名前:No.02 鴎 4/5 ◇DttnVyjemo[] 投稿日:07/07/01(日) 12:32:23 ID:+Xl9deu1
この距離が、その想ひをさらに掻き立ててゐるかのやうだ。

鈴子。実は今、僕は病に罹つてゐる。どうもマラリヤらしい。同じ病に罹つた仲間達が
次々と力尽きて行くのを見ると、大変心細く感じる。だが僕は君の為に、何としても
生きて日本の土を踏むと約束する。

けれどもし、僕がその約束を果たすことができなかつた時には、どうか僕のことをすぐに
忘れてはくれまいか。きつと君のことだ、僕が戻らなければ、いつまでも待ち続ける事では
ないかと思ふ。しかし、若く美しい君を、白髪の老婆になるまで、待たせる事を考へると、
僕は死ぬよりも辛い気持になる。あゝ、いつそ君が不貞な女であつたなら。あるいは、
これが皆、僕の自惚れの生み出せる妄想であつたなら――。

などと随分弱気な事を書いてしまつたが、今は大分落ち着いてゐる。熱はだんだん
下がつて来たし、とても楽な気分なのだ。だからかうして手紙を書いてゐる。
驚かせたら御免。どうやら幸ひにも、死神に嫌はれたやうだ。

鈴子。僕が日本に帰つたら、

     *

 手紙はそこで途切れていた。
「伸彦のいた療養所が襲われたそうです。その上あいつの隊は散り散りになってしまった。
敗戦後、療養所は臨時の収容所になって、因果なんでしょうなあ、そこに入れられた伸彦の
隊の奴らが、この手紙を偶然見つけたのだと聞きました。
 ……失礼ながら、手紙は読みました。伸彦が最期まで……もとい、今でもあなたを想っている
ことは、親友の儂が保証します。それにどう応えるかは、あなたが決めることです」
 正木の声は半分も耳に入っていなかったようだ。夕凪の細波に、押し殺した鈴子の
嗚咽だけが漏れ聞こえた。正木はひとつため息をつき、頭を掻いた。
「少し喋りすぎましたなあ。鈴ちゃんの言うとおり、まだあいつが死んだと決まったわけでも
ないんだ。こんな手紙見せて、あなたもその気になってから、ひょっこりあいつが帰ってきた、

8 名前:No.02 鴎 5/5 ◇DttnVyjemo[] 投稿日:07/07/01(日) 12:32:39 ID:+Xl9deu1
なんてなったら、とんだ喜劇ですからなあ。
 でも、黙ってこの手紙をほうってしまうには、鈴ちゃんがあまりに、その……不憫に思えて」
 そう言うと正木は、軍帽を目深にかぶりなおし、朱に染まり始めた空を仰いだ。

「……伸彦が戻ってきたら、書き差しの手紙を勝手に渡したこと、侘びておいてくれますまいか」
「いいえ、こちらこそ有り難うございました。わざわざお気遣いまで……」
 涙こそ止まっていたが、去来する想いに、鈴子はそう返すのが精一杯であった。
「儂は親元に戻ります。元気な顔も見せなきゃならんし、年寄りの面倒も見なきゃならん。
兄貴が空襲で焼け死んだもので、田畑も守らにゃなりません」
「そうですか……。そうですよね。誰かがいなくなったら、そのぶん誰かが穴埋めをしないとね。
 ……正木さん。お元気で」
「鈴ちゃんも。伸彦にも、そう、伝えてください」
 二人は見つめ合って微笑んだ。思えばこの人と会うとき、必ず隣には伸彦がいた。これから
正木と会う度、そんなことを思い返すのだろう。正木が田舎に引っ込むのは、鈴子にとっては
かえって幸いなことなのかもしれない。
「それにしても――」
 正木は数歩、海に向かって歩み出た。鳥たちのシルエットが、沈む夕陽に惜別を告げている。
「それにしても、戦争ちうのは、厭なものですなあ」
 誰にともなくそう残し、暮れなずむ港町へと消えていった。

 陽は半ば過ぎまで沈み、雲々を茜色に染め上げていた。鈴子の視線は幾度となく、汚れた
封筒と赤焼けた便箋の間をさまよっていた。
 「僕が日本に帰ったら」。それに続く言葉などわかっている。そんなこと書かなくたって、
めくらになっても、いざりになっても、手ん棒になっても、生きて還ってさえくれれば――。
 ふいに潮風が手紙を奪った、あっ、と思った時にはすでに便箋は天高く、ふわりと風に乗って
沖のほうへ流れて行った。夕陽を背負って風に舞う便箋は、鴎のようでもあった。
 それが伸彦の想いなのだろう。やがて鴎はいずこへと飛び去り、陽は静かにその身を隠した。
時がやがて、何もかもを流し去るだろう。ほんの少し寂しさを残して。世の混乱と、それに伴う
雑多なエネルギーに、暫くは身を委ねることにしようか。幸いにして、やることは山のようにある。
 足下に落ちた封筒を拾い、鈴子はそれを海に投げ捨てた。



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