【 口は悪いわ、がさつだわ 】
◆xH05ifMtvA





29 名前:口は悪いわ、がさつだわ 1/4 ◆xH05ifMtvA [] 投稿日:2007/06/24(日) 23:17:06.52 ID:fNWibAH80
1.その前の日

 似合わないな、とおれは言った。とても似合わない、おまえに、そういう感傷的な曲は。
 いいじゃない、たまには、と鍵盤から指を離さずに、美香は笑った。おれはうなずいた。まあ、悪くない。たまには、たまにはな。そうだな、今夜くらいは
悪くない。悪くはないよ。悪くは。
 窓から夕陽が差し込んで、部屋は薔薇を撒いたような紅に燃えた。黒髪に透かした朱を曳いて、美香は扇のようなまつげを伏せた。美しいと、思った。
 この部屋、どうするつもりなの、と美香がピアノを奏でながら訊いてくる。目線が鍵盤から動かなかったから、それは、おれに対する質問なのか、と反
問した。美香は笑って、当たり前じゃない、と言った。だってこの部屋には、わたしと兄貴しかいないもの。ふたりきりだもの。そうでしょう?
 そうだな、と腕を組んだ。それから、部屋をみまわした。ピアノ、本棚、机、ベッド。いや、ものに限らず、天井、壁、床、そして沈殿する空気、部屋には
もう、どうしようもないくらいに美香の匂いがこびりついていた。おれは首を振った。このまま残すさ、おまえが、いつでも帰ってこられるように。ああ、で
も、帰ってくるなよ、絶対に帰ってくるな。いいな。
 答えないまま一曲を弾きおえた美香は、ねえ、覚えてるかな、と首をかしげた。おれは腕を解いて、美香の肩に手をかけた。なんだよ、なんの話だよ。
 わたしが迷子になったときだっけ、兄貴、真っ先に見つけてくれて、おんぶしてくれた。日が暮れそうで、そう、ちょうどこんな夕焼けで、わたし、悲しく
て、寂しくて、泣いた。わたしが五歳くらいだったから、兄貴だってまだ小学生だったのに、大丈夫だって言ってくれた。何度も何度も。ねえ、覚えてる?
 覚えてないな、とおれは嘘をついた。ぜんぜん、覚えてない。
 本当に、血みたいに真っ赤な空だった、と美香は窓の外を見た。道も真っ赤で、雲も真っ赤。その道に、影だけが、黒いの。兄貴が、一歩一歩、赤い
道を、歩いていくの。わたしを背負って。ねえ、嬉しかったな、あのとき。
 覚えてないんだ、本当に、とおれは言った。肩から手を離して、扉へ向かった。ノブに手をかけて振り返ると、美香がまっすぐにこちらを見ていた。おれ
は笑った。今夜は早く寝ろよ。花嫁が寝坊じゃあ、格好がつかない。
 うん、という美香の答えは背中で聞いた。扉を閉めてから、親父、と呟いた。

30 名前:口は悪いわ、がさつだわ 2/4 ◆xH05ifMtvA [] 投稿日:2007/06/24(日) 23:17:47.44 ID:fNWibAH80
2.遠い約束

 親父の遺言は今でも覚えている。ベッドの上で、意識ははっきりしていたのだろうか、しゃがれた声で、やけに聞き取りやすい声で、おれの名前を呼
んだ。末期の相手に、おれを選んだ。
 母さんは弱い女だ。美香はまだ小さい。だから、これからはおまえが支えてやれ。頼むぞ。なあ、できるよな、お父さんとの約束だぞ。できるな、でき
るよな。
 十歳の子供に言うことじゃない。今思えばむちゃくちゃな話だ。それでも、当時のおれはうなずいて、親父の手を取った。細く、冷たい小指を絡ませて、
できるさ、と言った。約束する。おれは、父さんの子供だからな。
 さすがだ、自慢の息子だ。それでこそ、俺の息子だ。それが、最後の言葉になった。能面を貼り付けたように表情を変えない医者が、なにかを言った。
おふくろが泣き崩れて、おれと美香を抱き寄せた。
 美香は覚えていないのか、覚えていてわざと言わなかったのか、夕焼けを歩いたのは、迷子になったからじゃない。あの日、葬式の準備やらで忙しい
おふくろの目を盗んで、美香はふらりといなくなった。これ以上おふくろに心配をかけちゃいけないと思って、一人で探しに行った。
 近くの路地でうずくまっていた美香は、泣きながら、お父さん、と叫んだ。いやだいやだと首を振った。手を引いても立ち上がらないから、背に負った。
それから、おれは言った。大丈夫、大丈夫。なにが大丈夫なのか、これからどうなるのか、なにもわからなかった。それでもおれは言い続けた。大丈夫、
大丈夫。
 親父がいないなら、代わりにおれが背負ってやる。おれが守ってやる。だから泣くな。大丈夫だ。おまえが大人になるまで、おれはずっと、傍にいてや
るから。約束するから。約束したから、親父と。
 美香が二十歳になるのを待つようにして、おふくろも鬼籍に入った。明日の式では、だからおれが両親の代わりをする。腕を取って、ヴァージンロード
をふたりで歩く。それから花婿に引き渡す。
 夕焼けは終わろうとしていた。明日も晴れるだろうか。晴れてくれるだろうか。

31 名前:口は悪いわ、がさつだわ 3/4 ◆xH05ifMtvA [] 投稿日:2007/06/24(日) 23:18:31.80 ID:fNWibAH80
3.ふたたびの約束

 だれも遅刻しなかった。問題はなにもなかった。空はよく晴れた。梅雨にしては、奇跡に近い晴天だった。当然だよな、とおれは呟いた。苦労したんだ。
大変だったんだ。これくらいの報い、あって当然だよな。
 今日を選んだのは、六月の花嫁に憧れたからじゃないと思う。親父もおふくろも、雨の日に死んだ。六月だった。美香はなにも言わなかったけれども、
せめてもの孝行をするつもりだったに違いない。
 線の細い花婿に、タキシードはよく似合った。たぶん、ケンカは弱い。眼鏡をかけていないのが不思議なくらい、弱そうで、真面目そうで、誠実そうな男
だった。
 なにがいいんだかな、あんなやつの。控え室の壁に寄りかかって、おれはそう言った。口は悪いわ、がさつだわ、見てくれはまあ悪くないだろうが、そ
れにしても、嫁にしたいと思う男の顔が見たいもんだ。
 そうですか? ならどうぞ、好きなだけ見てください、と花婿は笑った。ぼくはね、そういうぜんぶが好きなんです。好きになっちゃったんです。たぶん、お
義兄さんと同じように。
 なかなか言いやがる、とおれは笑った。まったく、なかなか言いやがるよ、おまえ。
 よく言われます、と楽器の似合いそうな細い指で、花婿は頬を掻いた。おとなしそうな顔して、口が悪いって。
 そうじゃなきゃ、あのじゃじゃ馬の相手は務まらないだろうな、とおれは笑った。口が悪いのも、がさつなのも本当だぜ。ただ、苦労したぶん家事はできる。
頭も悪くない。性格だって口ほど汚くない。なあ、兄馬鹿って言葉はあるのかな?
 さあ、聞いたことはありませんね、と花婿は言った。たぶん、ないと思いますよ。
 じゃあ、いいよな。今日くらい、褒めたっていいよな。笑うなよ。絶対笑うなよ。あのな、あいつ、いいやつなんだ。顔だってかわいいだろ。おふくろの看病
もよくしたし、里芋の煮っ転がしなんて最高にうまく作る。苦労したんだ。大変だったんだ。だからよ、だから――。
 はい、とそこで花婿は答えた。おれは息を呑んで、頭を下げた。
 だから、妹のこと、幸せにしてやってください。
 はい、と花婿はまた言った。必ず。かならず。

32 名前:口は悪いわ、がさつだわ 4/4 ◆xH05ifMtvA [] 投稿日:2007/06/24(日) 23:19:12.42 ID:fNWibAH80
4.ヴァージンロード

 兄貴でよかったよ、と美香は言ってくれた。親父じゃなくて悪かいな、貫禄ないだろう。そう訊ねたおれに、微笑みながら。
 お父さんもお母さんも、きっと見ててくれるよね。美香は空を見上げた。おれは、当たり前だろ、と言った。わざわざ六月にしたの、そのためじゃなかっ
たのか。美香は一瞬呆けた顔をして、ああ、と言った。違うよ。それもあるけど、違う。
 じゃあ、なんでだ、と首をかしげたおれに、美香はうつむいて、兄貴、来週誕生日でしょ、と言った。三十になったら、自分のために生きてね。わたしの
ことは、もういいから。わたし、もう人のものになるから。だからさ、兄貴もいい人見つけたりしな。なんなら、いい子紹介するよ。
 なにを言ってるんだといいかけたところで、手を引かれた。さ、もう行かないと。エスコートしてよね、最後まで。
 ヴァージンロードは赤かった。その道を、ゆっくり歩いた。赤い道を、ゆっくり歩いた。美香と腕を組んで。隣でぼそりと、あのときみたいだね、と呟く声が
聞こえた。昨日のピアノの幻聴が、それに重なった。感傷的だと、おれは笑った。
 ようやくたどり着いた花婿の顔を見て、美香の腕を差し出した。そこで、美香は正面からおれを見て、ねえ、と言った。ねえ兄貴。見てよ。わたしのこと、
ちゃんと見てよ。ドレス姿、一回もちゃんと見てないでしょ。ねえ見て。わたし、どう? わたし、綺麗かな? 綺麗になったかな?
 馬鹿だな、と言ってから、顔を上げた。純白の花が、そこでひっそりと開いていた。ああ、と吐息は洩れた。ヴァージンロードの真ん中で、おれはなにを
しているんだろうと思った。綺麗だよ、と言った。世界でいちばん、綺麗だ。たぶんな。
 ありがとう、と美香は言った。声が震えていた。今まで、今日まで、ありがとう。本当にありがとう。
 ああ、と答えてから、見てるか親父、と心でさけんだ。おれはちゃんと、約束を果たした。ちゃんと、美香を育てた。ここまで育てた。たぶん、結婚相手も
そんなに悪い男じゃない、もう大丈夫だ、約束は果たした、と。よくやった、親父のそんな声を、聞いた気がした。
 おい、新郎、とおれは言った。なんでしょう、と花婿は答えた。約束は守れよ、とおれは言った。はい、必ず、と新郎は答えた。
 よし、じゃあ、よく聞け。おれはこいつをここまで育てた。それをおまえにくれてやるんだ、次はおれの番だ、だからよ、だれかいい女、紹介してくれ、と言
うと、美香はふき出すように笑った。新郎も笑って、もちろん、と言った。何人でも紹介しますよ。
 よし、約束だ、とおれはうなずいた。そうだな、せめて、おまえの嫁よりいい女を紹介しろ。
 新郎は首を振って、それは無理です、といった。そんな女、ぼくの周りにはいませんから。世界中探したって、いませんから。なにしろほら、お義兄さん
の妹ですよ。そんないい女、いるわけないでしょう?
 だろうな、とおれは笑った。そうだよな、いるわけ、ねえよな。いるわけがねえんだ。本当に、こんないい女、いねえからな。くそ、いいな、泣かせるなよ。
泣かしたら祟るぞ。殴るぞ、いいな。頼んだぞ。お願いだぞ。幸せにしろよ。
 視界が滲んだ。体中から力が抜けて、おれはその場に座りこんだ。ヴァージンロードの真ん中でなにをやってるんだと思った。でも立ち上がれなかった。
顔を覆った。嗚咽が洩れた。
 おれは、泣いた。

(了)


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