【 きかせて!般若心経 】
◆O8W1moEW.I




58 :No.57 きかせて!般若心経 ◇O8W1moEW.I:07/06/17 23:24:37 ID:s3iEwa6p
 また悶道の声だけが周りとずれてきている。いつものアレがはじまったなと住職は思った。
 見ると、顔は火照り表情は恍惚とし、息は荒く、もはや読経できる状態ではなかった。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空――」
 お堂では毎朝、百人ほどの僧が集まって般若心経を読む。彼らの出生や年齢は様々である。悶道は農民の家の三男坊であった。
一月前に彼は出家し、この寺に迎え入れられることになったのだが、この齢十一の少年、いささか問題があった。
「か、感じ……ぁい……ぼさつ……ぎょうじん……はにゃぁ……はぁっ……らぁぁ……んんんっ!」
 悶道が搾り出すような声を上げると同時に、お堂の中には栗の花の匂いが立ち込めた。悶道は読経中に射精していた。この一月、毎朝ず
っとこの調子である。以前このことについて、住職は悶道に問いただしたことがある。彼曰く、お経、特に般若心経の発する腹にズシリとくる重
低音の響きと、堂の中を一瞬にして聖域に変えていく呪文の如き一語一句の優美さを聞いていると、体が熱くなって疼いてくるらしい。
とにかく、非常に変わった性的嗜好の持ち主であることは確かだった。住職は破門も考えた。悶道をここに置いておくと、他の僧の修行の邪
魔になりかねない。だが、住職の考えを察知した僧らは、破門取り消しを哀願した。無理も無い。毎日のように聞かされる、悶道のまだ声変わ
りもしていない十一歳の幼い喘ぎ声は、禁欲的な生活を余儀なくされる僧たちの慰み物となっていたのだ。
「ご、ごめんなさい……! ボク、またヘンな気分になっちゃった……」
 住職の手前、何が起きようと僧たちは読経を止めるわけにはいかない。自らの煩悩に打ち勝とうと、それまでより腹の底から声を出して読
経を続ける僧たちであったが、それが結果的に悶道をさらに苦しめることになり、それによって僧たちはそれまで以上にムラムラさせられることに相成った。

 御山の周辺の村々でも、悶道は評判だった。他の僧は托鉢の時以外は山を降りることは滅多に無かったが、悶道はこっそり寺から抜け出し、田植えや収穫を手伝っていた。悶道は僧たちにも可愛がられ、村人たちにも愛されていたのだった。

 秋になって悶道は突然倒れた。原因は、治療法が見つかっていない流行り病であった。これに感染した者は十中八九命を落とすとされ、彼もその例外ではなく、次第に衰弱していった。悶道は薄れゆく意識の中で、そっと呟いた。
「お願い……きか……せて……」
 僧たちは他の寺や、周辺の村からも人をかき集めた。その数は五百人にも上り、彼らによって悶道のためだけに般若心経が捧げられた。
 悶道は逝った。かつてないほどの恍惚の表情と共に。皆、悶道の死を心から嘆き悲しんだ。
  
 死後、僧や村人たちの協力により、中に遺骨を入れた、悶道の生前の姿を模した仏像が作られることになった。
それから五百年が経った今日でも、悶道の仏像はどこかの寺で毎日般若心経を聞いているという。                    <完>



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