【 巣立つ君へのメッセージ 】
◆2LnoVeLzqY




31 :No.30 巣立つ君へのメッセージ ◇2LnoVeLzqY :07/06/17 14:49:18 ID:bcoanGxO
「痛いの痛いの、とんでけ」
 母さんが笑いながら言う。右足小指からの痛みを堪えながら、俺は顔をしかめたまま食卓テーブルに座る。
 そんな俺を見て、母さんはそのおまじないをもう一度、笑いながら言うのだった。
「まるで俺、子供みたいだな……。春から大学生だってのに。くそ、まだ痛ぇ」
「あらあら。母さんから見ればあんたはまだまだ子供よ。ユー・アー・ジャスト・ア・ボーイ。オンリー・ア・ボーイ」
 そうですか。反論する気をなくした俺は食卓テーブルの上に視線を落とす。ケンタッキーにお寿司にグラタン。うーん、やっぱり豪華。……けれどこの豪華さには、ちゃんと理由があったりする。
 俺は明日から、東京で一人暮らしを始めるのだ。大学生として。大方の荷物は、昨日のうちに大学のそばの下宿に送ってある。
 だから、あとは俺自身がそこに移り住むだけ。明日の朝の飛行機で、住み慣れた札幌を、この家を、発つことになる。この夕食は、ある種のお祝い、らしい。
「父さんは今仕事が終わったから先に食べてていいって。けれど由衣はもうすぐ部活から帰ってくるわね。それまで待ちましょうか。……それで、痛みはとんでいった?」
「まぁね。どこに飛んでいったかは知らないけど」
 気がついたら痛みは消えてしまっていた。けれどおまじないが効いたのかどうかは怪しいところだ。爪が割れていないかと、ぶつけた足の指を確認していた俺に、ふと母さんがこんなことを言ってきた。
「……なら、今のあんたじゃ、『痛いの痛いのとんでけ』は言えないわね。痛みの飛んでく先を知らないんだから」
「知るわけないって。どっかそのへんの空気中じゃない? そもそもおまじないひとつに、言える言えないがあったら困るよ」
 俺はいい加減に返事をした。そのときの俺の注意は足の爪に向けられていたのだ。よし、爪は割れてない。けれど俺の注意は、母さんの次の言葉に、無理やり向けられることになる。
「痛みの飛んでいく先はね、おまじないを言った人の心」
「……はい?」
 俺は顔を上げた。母さんは相変わらず笑っている。いつの間にか両手で頬杖までついている。なのに、なんだか真面目な雰囲気だった。人の心? 俺の戸惑いをよそに、母さんは続ける。
「『痛いの痛いの、とんでけ』。……このおまじないを言うときは、こう思いながら言わなくちゃいけないの。『大切なこの人の痛みを、自分が代わりに引き受けてやろう』って。その気持ちがない人は、これを言ってはいけないのよ」
 大切な人? 俺は未だに戸惑っていた。いきなり何を言い出すんだ。そして何より、なんとなく、恥ずかしかった。大切な人。
 けれど、そんな俺の心情ぐらい、たぶん母さんはお見通しだったのだろう。
「このおまじないを言える人になりなさい。明日この家を出て行くあんたに、母さんから言えることはそれだけよ」
 母さんは、微笑みながらそう言った。俺は幼稚園の頃とか、小学校の頃を思い出していた。ケガして帰ってくるごとに、母さんが微笑みながら、俺にそう言ってくれたあの頃のことを。
 そういえば、久しぶりに聞いたな、このおまじない。そう思った途端に、俺は気がついた。母さんがそう言ってくれるのは、今日が最後に違いないな、と。明日俺は、この家を出て行くから。
「ただいまー。遅くなっちゃった。晩御飯、まだ食べてないよね?」
 玄関から声がする。妹の由衣が帰ってきたらしい。ややあって居間に現れた由衣の左手薬指には、湿布が巻かれていた。
「突き指しちゃってさ。しばらく練習は休んでいいって。まぁこのくらいなら、すぐ治ると思うんだけどね」
 笑いながら食卓についた由衣は、それでも突き指を気にする仕草を見せた。そのとき、母さんが俺に目配せをした。ん? と思った。母さんが口だけ動かしている……「お・ま・じ・な・い」
 ……なるほど。最初の相手は突き指をした妹らしい。悪くないなと思う。いや、これ以上ない相手かもしれない。このおまじないを、言える人になりなさい、か。あの突き指、痛そうだしな。
 由衣の薬指を見つめながら、俺は恐る恐る、つぶやいてみる。
「痛いの痛いの、とんでけ」



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