【 胸から聞こえる歌 】
◆lxU5zXAveU




30 :No.29 胸から聞こえる歌 ◇lxU5zXAveU :07/06/17 11:37:39 ID:bcoanGxO
 ヨットに乗って世界一周を試みた。嵐にあって船と仲間をなくした。防水バッグに体を支え
られながら泳いでいると、運よく爪先が砂を掻いた。助かった。
 足首に砂を絡みつかせて、びしょ濡れの海岸で眠った。
 目が覚めると、体が乾いていた。白いレースが風に揺れている。木の窓枠と白い天井。シー
ツが軽く、温かい。
 きしむ音がした。首を動かそうとしたら、音源から視界に飛び込んできた。日焼けした肌
の、太った女だった。ドガの絵に出てきそうだ。
「△☆※◎◇■☆、☆◎○○?」
 笑顔。ちぢれた黒髪が、額の深い横皺に引っかかっている。間のすいた歯を見せて、女はま
た喋った。「☆◎○○?」
 弾力のある、よく動く手が頬に触れて、シーツを直した。俺は女が持っていた木の椀を見
て、何が入っているか確かめないまま、また眠った。夢で懐かしい声を聞いた。親の声だっ
た。
 海に行ってくる、もしかしたら死ぬ危険もある、と話したとき親は泣かなかった。我慢して
いる様子もなく、その時には理解できなかったことを言った。
「自分の意志を通しなさい。でも、いつか自分が家族にしたことを後悔する。その時は、苦し
まないで、後悔しないでほしい。後悔されるのが、いちばん悔しい」
 強気な親で良かったと、そのときは思った。どうして夢では、俯いているのだろう。寄港先
から出した葉書を両手で持って、肩をすぼめて、小さくなっている。
 肩に触れて声をかけたが、夢なだけあってリアルさなんか欠片もなくて、通じない日本語が
呪文のように閉じた世界で反響しあった。
 悔やまないでくれ。悲しくならないでくれ。幸せであればいいんだ。
 目を開けると、またドガの女がいた。椀からスプーンで何かをすくって、差し出した。すす
るとココナツの匂いがして、甘かった。「☆◎○○?」
 よく分からないまま頷いて、礼を言った。ついでに、「言っている意味がわかんなかった
よ、お母さん」。
 ドガの女が笑みを浮かべた。やっと言葉が通じたような、何もかも分かっているような顔
で、腕を広げた。汗臭い胸に顔を包まれながら、左右に揺れる。しゃくりあげるごとに、懐か
しい感触で背中を叩かれた。呪文がメロディとともに、胸の間から体ぜんぶに響く。
 たぶん子守唄だ。



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