【 生命情報工学とか、頭上の雲とか 】
◆wDZmDiBnbU




25 :No.24 生命情報工学とか、頭上の雲とか ◇wDZmDiBnbU:07/06/17 03:42:04 ID:dLO5c8rc
 なにを言ってるのかまるでわからないとか、弟のくせに生意気だと思う。
 まだ暑くなる前の五月の末、弟が東京から遊びに来た。遊びじゃなくて修士の頃の論文をど
うこう、とか言っていたけれどとにかく来た。折角来たのだから姉弟同士一緒に遊ぼうぜ! 
と、私たちは駅近くのロッテリアに入り込んでそのまま三時間ほどが経過した。弟曰く、太宰
は明らかにダメ人間で、量子力学なんて化学屋にとっては道具でしかなくて、そしてセガサター
ンは白くするべきではなかったとのこと。なにがなんだかさっぱりわからない。
 我が弟ながら、こいつはアホだと思う。控えめに言っても変態だ。二十四にもなって学生で、
しかも東大の博士課程だとか、どう考えても狂気の沙汰だ。おかげで友達に弟の話をすると、
自慢話だと思われてしまう。別にこんなのただの弟だし、と言い訳する私自身、やっぱり自慢
していると思う。一体なにを自慢しているかなんて、まるでわかりもしないのに。
 東大を選んだ理由を聞くと、弟は「俺、英語できねえし」と言う。意味がわからない、と返
したけれど、要は海外の大学すらも前提に考えていたということだろう。彼の言う『大学』は、
私の通ったそれと同じものとは思えない。学歴云々の問題ではなくて、そもそもの感覚が違う。
 意地になって研究の話を聞いてみても、弟は詳しく話したがらない。簡単な説明だけでも、
私にはほとんど呪文同然なのだから当然だ。結局、話題はいつの間にか、どうでもいい漫画の
話に落ち着く。同じ家に育っただけあって、弟は別マや花ゆめの話にまでしっかりついてくる。
帰る、と言ったのは、店員の視線が痛いだけでなく、腹立たしさもあったかもしれない。
 午後三時。弟の帰りの新幹線までにはまだ時間がある。結局、適当にドライブでも、と、弟
は私の車に乗り込んできた。オープンの2シーターなんてミーハーすぎる、と弟は言うけれど、
実は意外とそうでもない。古いし国産車だし、二十万もあれば中古で買える。むしろ屋根がな
いぶん安いんじゃない? と、適当なことを言いながら、私は愛車の幌を開けた。
 日の長いこの季節独特の、抜けるような青空が、頭上に広がる。
 うわ、という小さな感嘆のあと、弟は「落ち着かねえ」と文句を垂れた。言われてみれば、
その通りだ。初めて乗ったときは、なんだか妙な違和感を覚えたのを思い出す。例えるなら、
まるでノーパンのときのような落ち着かなさだ。つまり屋根はパンツだ、と同意してやったの
に、弟は「それは一体なんの呪文だ」と私を叱る。偉そうに叱るくせに、雲を見上げるその目
にはどこか落ち着きがない。なんだか懐かしいその感じに、私はアクセルを踏み込んだ。東大
生だとか、オープンカーにも乗ったことがないくせに、まったく生意気なやつ、と思う。
 車内に風が巻いて、弟の髪が派手になびく。私の髪留めをよこせと言うから、断った。もし
「運転させて」と言われたら、さあどう断ろうか。白い雲が、後ろへと、流れる。  <了>



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