【 からだのことば 】
◆X3vAxc9Yu6




89 :時間外No.05 からだのことば 1/3 ◇X3vAxc9Yu6:07/06/11 00:34:53 ID:gBATA5Kq
 やあ。
 悪いね、君が完全に眠ってしまう前に、少しだけ聞いてくれ。
 君が運動を苦手と感じ、また苦痛に感じているなら、それはとて
も悲しいことだ。からだを動かすというのは本来とても楽しいもの
である。歌を歌うとか、絵を描くとか、料理を作るとか、そういっ
たごくごく基本的な楽しみのひとつであったはずのそれを、君はい
つしか失ってしまった。
 あるいはそれは、苦手意識からかも知れない。何回振ってもボー
ルに当たらないバットに、打っても打っても相手のコートに届かな
いシャトルに、蹴っても蹴ってもゴールへの道をはばまれるボール
に、嫌気がさしたかも知れない。
 あるいは、深刻に嫌な思い出があるからかも知れない。いじめら
れた。習い事で友達と遊べなかった。親に強制された。色々あるだ
ろう。
 賢い君は、もしかしたら始める前から運動を忌避すべき対象とし
て認識していたかも知れない。君はあんなふうに走れるわけがな
い。あんなに速く投げられるわけがない。そこまで高く飛べるわけ
がない。
 そうなったら、君にはそれを楽しめる理由がない。

 しかし君は、君の人生のために、運動をするべきだ。君の身体の
退化は、君のこころを柔らかい檻に閉じ込める。こころと身体は繋
がっているから、ふたつのスケールが合わなくなったら、不健康
じゃないほうまで損なわれてしまうよ。
 君の大事にしている、君のこころのために、運動しなさい。
 僕自身のためだけに、言ってるわけじゃないんだからさ。ちょっ
とは聞いておくれよ。

90 :時間外No.05 からだのことば 2/3 ◇X3vAxc9Yu6:07/06/11 00:35:25 ID:gBATA5Kq
 これは提案だが、たとえば自転車はどうだろうか。
 頬の横を吹き抜けていく風。高速でホイールは回る。坂を一気に
駆け下りてなお加速し、制御できなくなる寸前でブレーキをかけて
減速する。つまらない筋トレなんかよりずっと楽だし、口笛も、歌
も、君の足がペダルを踏み込むのを助けるだろう。

 他には、水泳はどうだろうか。
 体重も筋肉も関係ないスポーツだ。君は息を止めて、浮かぶこと
さえできればいい。そうしたら、蹴る。まっすぐになった君の身体
は円錐に近い。君はゴーグル越しに蠢く水流を、真っ白いあぶくを
見るだろう。後ろに飛び去っていくプールの壁、もしくは数えきれ
ない砂粒のゆらめき、もしかしたら小魚やプランクトンも見ること
ができる。思いきって顔を水上に出したときの、肺の中の空気の入
れ替わりようと言ったらない! 「気持ちいい」っていうのはああ
いう形で僕たちの前に表れるんだ。

 あとはそうだね、登山なんてのもいい。
 はじめはかるうい山に登るんだよ。それでも君はすぐに、アス
ファルトではない道がどれだけ油断ならないものかを知るだろう。
足を持ち上げるってだけのことが、どれだけ正確に君の体力を奪う
かということにも、水筒の水が減るスピードのすばらしさにも気付
くはずだ。しかしそれにも君は慣れる。苦しさはいつの間にか消え
うせる。代わりに、鳥の声が、森の匂いが、踏みしめる足音が、そ
ばを咲く小さな花の美しさが、歩き続ける君のこころに流れ込んで
くるはずだ。そして登りきったあと、君は麓を見下ろすはずだ。君
は叫ぶだろうか、それともため息をつくだろうか。どちらも悪くな
い。

91 :時間外No.05 からだのことば 3/3 ◇X3vAxc9Yu6:07/06/11 00:35:42 ID:gBATA5Kq
 そうして君が、自分の身体と少しでも会話してくれたら。こころ
に対するのと同じくらいとは言わずとも、その半分でも――追求し
てもらえたら。

 僕はとても嬉しい。
        ――君の最も近くの隣人より、親愛とすこしばかりの希望をこめて。



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