【 父のキモチ/兄のキモチ 】
◆2LnoVeLzqY
68 :No.18 父のキモチ/兄のキモチ 1/5 ◇2LnoVeLzqY:07/06/10 23:27:49 ID:yXi0zTAD
二階には階段を登ってすぐの場所に、向かい合わせに俺と妹の部屋がある。
大学から帰ってきた俺が階段を登りきると、そこには高校二年生、妹の春奈が俺を待ち構えるように立っていた。しかもその可愛い顔を、何故か真っ赤にして。
何かを言いたげな春奈の口。けれどそれは曖昧に動くばかりで、恥ずかしさ以外に何も伝わってこない。
愛しの妹を赤面させるようなことを俺はしただろうか。想像を巡らせるけど結論は出ない。社会の窓だって開いていない。エロゲは秘密の棚の中だから見つかりはしない。
向かい合ったまま時間だけが気まずく経過する。
「……あのさ、これからレポート書かないといけないから」
困り果てた俺は、嘘八百の出任せを言い放って自室に入ろうとした。
途端、ようやく妹の口が聞き取れる言葉を紡ぎ出す。静寂の中、その言葉が自然と俺の耳に飛び込んでくる。
「お兄ちゃん、あのね……」
俺が、生涯忘れないであろう言葉が。
「彼氏が、できたの」
うつむいたまま春奈はそう言うと、彼女の部屋に飛び込んでドアを閉めた。ばたん。それからしんとした静寂。
俺はしばらくドアとドアの間に立ち尽くしたあとで、「そうか、彼氏か」と、精一杯の強がりを込めて、つぶやいた。
「……そうか、彼氏が出来たのは春奈じゃなくて、ココアの方だよな。間違いない。妹に彼氏だなんて、そんな」
ココアというのは我が家の中で飼っているミニチュアダックスのことだ。ちなみにメス。
彼氏が出来たのは妹じゃなくて犬。ありがちな展開じゃないか。そういえばさっきの春奈の言葉、主語が無かったし。
自室での瞑想によってそう悟った俺は、パートから帰ってきた母さんに聞いてみた。
「ココアってさ、最近お見合いとか、した? ほら、他のオスと」
「ええ? するわけないじゃないの。それよりあんた、洗濯もの取り込んでおいてくれた?」
俺の推測はあっさりと否定。しかし春奈に彼氏がいる事実は、否定しようがなくなってしまう。
俺はふらふらと二階への階段を登る。そういえば母さんには、春奈に彼氏ができたことは言わなかった。
もう知ってるだろうか。春奈の性格を考えたら……いや、言わないだろうな。ってことは母さんは知らない。
春奈の部屋のドアは閉まったままだ。
彼氏はどんな奴なんだろう。どっちから告ったんだろう。自室のドアを開けながら俺は考える。
俺は、春奈の好きな芸能人だって知ってるし、性格だってだいたい把握してる。ちなみに春奈には秘密だがブラのサイズだって知ってる。そりゃあ、生まれたときから一緒に生活しているんだから。
親父が死んでからの一週間、「おとうさん、会いたい」ってベッドの中で泣いてたことも、知っている。
けれど俺は……春奈の彼氏を知らない。
自室に入りドアを閉める前にもう一度、正面にある妹の部屋のドアを見る。閉まったまま。まるで頑なに何かの秘密を守っているみたいだ。
晩飯の時間になるまで、俺は自室で悶々と過ごした。
69 :No.18 父のキモチ/兄のキモチ 2/5 ◇2LnoVeLzqY:07/06/10 23:28:16 ID:yXi0zTAD
俺が初の彼女を作るより先に妹が彼氏を作りやがった悔しい! とかそんな気持ちが心を占めていたわけじゃない。まあその気持ちもあるにはあったけれど。
嫉妬。俺が感じていたのはそれだった。彼氏を作った春奈にじゃない。春奈を彼女にした彼氏にだ。
春奈、可愛いもんな。兄の俺が言うんだから間違いないさ。ちくしょう、幸せもんめ。
キスとかすんのかな。もうしたのかな。どうだろ。……考えたくない。
いつも通りの家族三人での晩飯は、こんなことがあってもいつも通りだった。
春奈は好きなアーティストが出演しているテレビを見てはしゃいでたし、母さんはパート先の愚痴をこぼしてたし、俺はそれらを聞きながら味噌汁をすすっていた。
春奈はさっきまでの赤面が嘘のように、俺に対してもいつも通りに話をした。
彼氏の話には誰も触れない。
親父が生前座っていた場所に置かれたご飯と味噌汁だけが、それについて、まるで何かを言いたそうに並んでいた。
春奈は日を追うごとに女の子らしくなった。いや生まれた時から女の子だけど、そんな意味じゃなくて。
薄くだけど化粧するようになった。部屋の前ですれ違うとたまに香水の匂いがした。
新しいブラが洗濯ものの中に混じってたりした。
よく開けっ放しになっていた彼女の部屋のドアが、閉まっていることが多くなった。
心なしか、これまでより会話数も減った気がする。
ついこの間、春奈の左手薬指に、銀色の細い指輪が嵌っているのを見た。
「お兄ちゃん……」と囁きかける画面の向こうの二次元妹は、簡単に廃人化する方法を暗黙のうちに教えてくれる。
けれどリアル妹に彼氏ができたときの対処法なんて、教えてくれるはずもない。
それでも俺は溢れる情熱に逆らえない。むしろ春奈との会話が減ったぶん、それを埋め合わせるかのようにパソコンへ向かっている気がする。
パソコンのおかげで、俺はまだ現実から目を背けていられた。
春奈に彼氏がいるのを無意識のうちに看過していられた。銀色の指輪だって、見ないようにすれば精神的に無害だった。
春奈は相も変わらず、俺のたった一人の妹だった。
あの出来事が起こったのは、そんなある日のことだった。
午後の講義が奇跡のオール休講。この世には、重なって嬉しい偶然と嬉しくない偶然がある。これは圧倒的に前者だ。
有り余る午後の時間を積みゲーの消費に当てることを即決定。誰もいない家の中でゆっくりと大音量でゲームを楽しめる。
俺の気分は珍しく明るかったのだ。
……開けた玄関ドアの向こうに、春奈の靴と、男物のスニーカーを見つけるまでは。
玄関ドアを開ける音は、轟音を立てて家の前を走るトラックにかき消された。それが唯一の幸運だろう。いや……不幸かもしれなかった。
70 :No.18 父のキモチ/兄のキモチ 3/5 ◇2LnoVeLzqY:07/06/10 23:28:40 ID:yXi0zTAD
何で春奈がもう家に。午後の授業をサボった? 彼氏と一緒に?
春奈の部屋から漏れているのは、春奈の好きなアーティストの曲と、二人ぶんの笑い声。俺はそっと玄関ドアを閉める。
それからゆっくりと、音を立てないように階段を登る。
春奈の部屋のドアは思ったとおり閉まっていた。
ドアの向こうから、音楽に混じって聞こえる男子の声は明らかに高校生のもの。特徴のない声。
こんな声の奴なら俺の高校時代のクラスにもいた。これが春奈の彼氏か、と思った。
俺は音を立てないように自室に滑り込んでドアを閉める。気づかれた様子は……なかった。
ドアを二枚隔てた向こうからは、相変わらず音楽と、話し声。
閉めたドアにもたれ掛かって、正面の窓から見える空を眺めた。
どうして俺はこそこそしてるんだろう、と思った。
その疑問の答えは出ない。けれど体は勝手に音を立てないように硬直している。おまけに聞き耳だけはしっかり立てている。
……俺は何がしたいんだ?
わからない。けれどしばらくの間、ずっとそうしていた。十分、二十分、あるいはもっと。俺はドアの向こうから漏れてくる音楽と、話し声を聞き続けた。
ふと、ドアの向こうで音楽が止まった。
春奈が「あっ」と、普段出さないような一オクターブ高い声を出した。
そしてぎしんと一度大きく鳴るベッド。
どきんと鳴る俺の心臓。
逃げ出したい。とっさにそう、思った。逃げなきゃ。
また「あっ」という春奈の声。俺は叫び声をあげたくなる。ドアを開けて隣の部屋に飛び込みたくなる。でも飛び込んで……何をする?
また春奈の声。玄関に二足の靴を見つけたときからこうなることぐらいわかっていた。違うか。違わない。俺は自問自答を繰り返す。それなのに。
俺は無言で、無音で、聞き耳を立て続ける。
ドアの向こうから聞こえ続ける春奈の声。リアルな声。ゲームのそれとは違う声。
春奈が抵抗をしないのは、これが初めてじゃない証拠。
逃げ出したい。けれど逃げ出したくない。もっと聞いていたい。理解不能で正体不明の感情が俺を支配する。
ベッドが音を立ててきしんでいる。春奈が声を上げる。堪えてるであろうその声は、けれど次第に大きくなる。
俺はこぶしを握り締めた。きつく。まるでその中の汗を握るかのように。春奈はシーツでも握ってるんだろうか。それとも彼氏の手を? 背中を?
春奈が声を出す間隔が短くなる。それに伴って声も大きくなる。もう堪えていない。そして。
「んあっ」
彼氏の声。俺の頭が、一気に冷える。足が動いた。逃げられる。今なら。
逃げたくないその気持ちが消えて、今頃になって逃げろという命令が俺の脳に届く。
71 :No.18 父のキモチ/兄のキモチ 4/5 ◇2LnoVeLzqY:07/06/10 23:29:01 ID:yXi0zTAD
立ち上がれた。だから逃げた。部屋から。大きな音を立ててドアを開けて。春奈に気づかれたかな。
もう何もかもが手遅れ。笑っちゃうな。俺は階段を駆け下りて。靴を履いて。よろけるように。家を飛び出す。ただ、逃げたかったから。だから、逃げた。
……でも一体、何から。
走り続けた。疲れ果てるまで。体力が底をついて、俺の足が歩きに変わった頃になってようやく周りを見渡す余裕ができた。
気がつけば電車の駅の近くまで来ていた。
学生の姿は、ほとんど見られない。あれ? と疑問に思うけどすぐ思い出す。そうか、まだまだ昼下がり。午後が休講だったんだもんな。忘れてた。ポケットに入れっぱなしのケータイを見ると午後の二時半。
膨らんだ買い物袋をぶら下げた主婦と、大きすぎるランドセルを背負った低学年の小学生。歩いてるのはそのくらい。
俺はなんとなく、改札の傍の壁に寄りかかってさびれかけた駅前の様子を眺め始めた。
主婦を、小学生を、一人一人観察しながら。
あのおばさんヨン様好きそうだな。あの男の子、小学生のくせに髪染めてるよ。親のせいかな。お、あの女の子は、大きくなったら春奈みたいに可愛くなりそうだな。
……春奈。
涙が出てきた。俺、何、やってるんだろう。
春奈の声がまだ頭の中で残響してる。追い出そうと頭を振る。その度に目から涙が溢れた。なんで、悲しいんだろう。なんで、涙が出てるんだろう。
改札からはたまに、授業をサボったに違いない高校生が出てくる。からっぽの目をして。世の中なんてつまんねえみたいな顔をして。
そいつらは泣いてる俺を視界の隅に認める。ん? って顔をする。でも近寄っても来ないし話しかけても来ない。すぐにからっぽの目をそらしてまた厭世じみた顔に戻る。
世の中、つまんねえかな。……だよな。つまんねえよな。なんで俺、春奈の兄なんだろうな。
どのくらい立ってたんだろう。影が長く伸び始めて、西の空が赤くなり始めて、改札から出てくる学生の数がどっと増えた頃。
俺は思い出したように、人の流れに沿って歩き始めた。
「……ただいま」
玄関のドアを開けた。靴は一足。春奈のものだけ。音楽も声も聞こえない。彼氏は、帰ったらしかった。
俺は意味もなくためいきをついて、それから靴を脱いで、階段を登った。
そして階段を上りきったところに、春奈を、見つけた。
あの日と同じように。
春奈の顔は、やはり真っ赤だった。でも赤かったのはそれだけじゃない。
その目も、赤い。
……何があった。彼氏に泣かされたのか。それとも彼氏が帰った後で泣いたのか。
わからない。俺はそれすら、聞けない。目の前に立っているのは俺の妹じゃない。名前も知らないどっかの男子高校生の彼女。それが俺の目の前に立つ春奈。
澄んだ瞳に涙を浮かべながら、それでも健気にまっすぐ立つ。唇をきつく閉じて瞬きすらせずに、俺をひたすらに見つめる。そんな、俺の知らない春奈。
72 :No.18 父のキモチ/兄のキモチ 5/5 ◇2LnoVeLzqY:07/06/10 23:29:21 ID:yXi0zTAD
「お兄ちゃんが、さ……お兄ちゃんが……」
春奈の口がようやく動く。その後に続く言葉を俺は聞きたくなかった。言葉に出来ない不安。
けれど俺は、春奈の口を閉じる手段なんか、持ち合わせていないのだった。
「わたしのお兄ちゃんじゃなければよかったのに!」
ばたん。もう目の前には春奈はいない。そこにあるのは閉じられたドア。秘密を守るドア。それを開く手段は、俺にはやっぱり、ない。
しんとした静寂。
そこから逃げるように俺は自室のドアを開ける。入る。閉める。
部屋の中で、ただ、立ち尽くす。
「……わたしのお兄ちゃんじゃなければよかった、か」
そうつぶやいて、自分以外の人間が寝たことのないベッドに俺は倒れこんだ。真っ白な天井をただ、見つめる。
「俺、春奈の兄貴じゃない方がいいのかもな」
ははっ。笑ってみる。空しい。兄貴失格。そりゃそうだよな。俺だって嫌さ、こんなのが兄貴なら。
春奈の兄貴じゃければよかった。強く思う。どっか別々の家に生まれれば良かった。別々の人生を送ればよかった。
そして、あるときばったり街で出会う。……そんなふうにして、恋人になってみたかった。
もしかしたら。春奈はそんな気持ちを込めて、あんなふうに言ったのかもしれない。どうだろう。わからない。俺は春奈のことを知らない。たぶん違うだろう。でも、そうであったらいいのにとも思う。
けれど、無理だ。俺は春奈の恋人になんかなれない。
ドアの向こうからは何も聞こえない。たぶんドアはまだ閉まったままだろう。もうすぐ母さんも帰ってくる。
俺は晩飯の席で、春奈に、どんな顔をして会えばいいんだろう。
……なあ親父。
親父だったらさ、春奈に彼氏ができたらどう思ったのかな。やっぱり嫉妬すんのかな。
でも親父は立派だ。立派だった。だからたぶん、黙って事実を受け入れるんだろうな。
春奈だって、もう子供じゃないんだから、って。
春奈はドアの向こうで大人になっていく。俺はドアのこっち側で、子供のままだ。
むしろ親父は、こんな俺の様子にこそあの世で怒り狂ってるかもしれない。「俺の代わりに春奈の父親役になってくれ」って頼んだだろう、って。
涙が出てきた。まただ。目をこする。窓の外の夕焼けがあまりにも綺麗。きっと泣いたのはそのせいだ。
できるかな。父親役。できるかな。兄貴失格の俺に。
できるかなじゃない、やれ。親父がそう言ってる気がする。春奈に彼氏が出来る前に死んじまった親父が。俺の代わりにお前がその彼氏の顔を拝め。そう言ってる気がする。
ベッドから起き上がる。秘密の棚からエロゲを引っ張り出してゴミ箱に捨てる。妹に、じゃなかった娘に彼氏ができたときの対処法? はっ、あるわけねえっての。
俺は春奈と話がしたい。前みたいに、気軽に。もちろん今じゃなくたっていい。いつか、そのうち。彼氏の話とか、指輪を買った場所とか、なんだっていい。
今の俺はただ春奈に、彼女の部屋のドアを、開けてもらいたいだけなのだ。