【 RISK 〜夜明けなき部屋で、君と〜 】
◆wDZmDiBnbU




9 :No.03 RISK 〜夜明けなき部屋で、君と〜 1/5 ◇wDZmDiBnbU:07/06/09 20:47:40 ID:Ws78kRK+
    彼の表情は真剣そのものだった。いつもの飄々とした笑顔、その下に隠された
   彼の本心。本当はずっと前から気づいていたはずなのに、その言葉はまるで鋭い
   ナイフのように僕の心をえぐる。待ってくれ、その先は口にしてはいけない。な
   ぜなら、僕たちは――。
   「性別なんて関係ない。オレは、お前のことが――」

 限界だった。

 うあああああ、と絶叫したはずが、喉から漏れたのは「こひゅー」というかすれた呼吸音だ
けだ。ぐらり、と世界が傾いて、そのまませわしなく一回転する。たとえ右向きに倒れようと、
床に辿り着くまでにはいつも左が下になっていた。職業病というものは恐ろしい、きっと死ぬ
ときもこうなのだろうな――と、論理を一気に『死』まで飛躍させるのもまた仕事柄だ。月に
一度、定期的に己の死と向き合う仕事なんてそうそうあるものではない。
 かすれて見える天井は薄暗く、今が昼なのか夜なのかさえわからない。この窓もカーテンも
閉め切った部屋に籠ってから、果たしてどのくらいが経っただろう。逃げるとか死ぬとかすれ
ばきっと楽になるに違いないのだけれど、しかしそれをさせないために『彼』がいる。部屋の
隅にある冷蔵庫、そのドアを後ろ手に閉めて微笑む加賀野ユウキその人だけが、今の俺の自殺
防止装置であることに間違いはない。
「一息入れましょう、先生」
 彼の差し出したティーブレイクの一品は、紛れもない栄養ドリンクだ。この仕事場の冷蔵庫
には、この類の小瓶が各種網羅されている。ミント味のタブレットでは物足りないときに、い
つでも加速できるための必須アイテムだ。その中でユウキが選択したのは、一番効くと評判の
黒の小瓶。さらに、二番めに効く赤の小瓶のおまけ付きだ。通称『赤と黒』のこのドラッグ・
カクテルは、確かに十分な加速装置ではあるがしかしキックバックもそれなりだ。この二本セッ
トが投与されるということは、いよいよ猶予がないのだろう。床に寝ている場合ではない。
「クライマックスです。ここのペン入れを済ませてしまえば、あとは勢いで片付きます」
 さすがにユウキの指摘は的確だった。彼の優秀さは、俺のアシスタントを務めていた当時と
まるで変わりがない。というよりも、今では俺以上の連載を抱えているのだからそれも当たり
前のことだ。その売れっ子であるはずの彼が、こうして俺の仕事場にいるのなんて常識ではあ
り得ないことだった。アシスタント二人に同時に逃げられた、と泣いて土下座する俺のような

10 :No.03 RISK 〜夜明けなき部屋で、君と〜 2/5 ◇wDZmDiBnbU:07/06/09 20:48:00 ID:Ws78kRK+
ダメ漫画家に対して、彼は屈託のない笑顔でたった一言、
「僕は先生のこと、尊敬してますから」
 と、それだけを返して、そしてそのまま俺の部屋に泊まり込んでいる。自分のアシを貸し出
すとかではなく、連載を抱えた一人の作家自らが、である。技量的な心配がないというのも確
かだが、なによりこれで勇気と責任を感じない漫画家などいない。その時点でまっさらだった
幾頁ものケント紙は、あっという間にインクとスクリーントーンで埋め尽くされた。残すは四
頁のみ、という今現在の地点まで、俺とユウキは走り続けてきた。だというのに――。
 駄目だ、あいつらが来た――俺の言葉に、赤と黒を手にしたままのユウキが力なく微笑む。
「例の小人さんですか。いいじゃないですか、手伝ってくれるかもしれませんよ」
 別に何かの比喩でもなんでもなく、漫画家の部屋には小人が棲む。ユウキにとっても見慣れ
たものなのだろう、それに、確かにその小人らは仕事を手伝ってくれることもある。目撃した
ものは誰もいないが、意識がない間に原稿が上がっていたりするのは彼らのおかげなのだろう。
とはいえ、まだ意識のあるうちはその限りではない、というのもいつものことだ。
「やつら、踊ってる。ジュリアナダンスだ。原稿の上で」
 相当ですね、と苦笑するユウキの反応は、しかしやはりどこか的が外れている。世代が違う
のだから仕方ないが、ジュリアナは俺にとって東京の象徴みたいなものだった。何もない東北
の片田舎から一人、Gペン一本をポケットに携え、夜行列車で上京を果たしたあの日。バブル
に浮かれ沸き返ったその巨大な街は、若い俺にはなにもかも全て新鮮で、そして無限の未来に
彩られていた。輝くミラーボール、止まらない熱狂、手を伸ばせばすぐにつかめたはずの、輝
かしい永遠の理想郷――。
「ちゃーちゃーちゃん、ちゃららちゃーちゃーちゃん。フー!」
 無意識にそう口ずさむ俺の目はさぞかしうつろだったことだろう。ユウキがにわかに真剣な
表情に戻る。整った端正な顔立ちに、目の下の隈だけが生々しい。
「小人さん、羽ボウキで払い落としますか。いや、音楽でもかけましょう。先生の好きな『尺
八の世界』なんてどうです、きっと小人さんもあきらめて引っ込みますよ」
 あくまで前向きなユウキの言葉にも、俺は首を横に振るのが精一杯だった。たとえ小人が去っ
たにしても、その下にはやはり原稿が待ち受けている。それも、今回のクライマックスである、
美男子同士のキスシーンが。こんなもの、描けるはずがない。というよりも俺はなぜ、こんな
ものを描いているのだろう。いつの間にか床まで降りてきていた小さなボディコンギャルが、
まるで俺をあざ笑うかのように扇子を振るう。笑うしかなかった。なのに、もう頬の筋肉を動

11 :No.03 RISK 〜夜明けなき部屋で、君と〜 3/5 ◇wDZmDiBnbU:07/06/09 20:48:17 ID:Ws78kRK+
かすことさえ、感覚がおぼろだ。
「先生、あと少しです。頑張りましょうよ。このままでは」
 そんなところで言葉を切るのは、普段はっきりとした物言いをするユウキにしては珍しい。
だが無論、なにが続くのかは理解できる。猶予がないのだ、印刷所にはすでに「待て」の指示
がかかっている。俺はかつて土下座に訪れた市ヶ谷の工場を思い出した。肌の色がモノクロ調
になった工場長、裁断機のおかげで指の足りない爺さん、日々喧嘩に明け暮れて顔がぼこぼこ
の若いアルバイト。いま再び彼らの仕事を、生活を押しとどめているのは他でもないこの俺だ。
このガリガリにやせ細った右腕一本に、どうしてそんな権限があるのだろうか。
「ユウキ。お前は、何のために漫画を描いている」
 そう言ったつもりだったのに、しかし部屋に響いたのはなぜか「寝る」の一言だけだった。
ユウキはもはや、答えない。この状態に陥った漫画家を奮い起こすのが難しいことは、同じ仕
事をしている彼自身よく知っていることだろう。無言で、小瓶のフタをひねるのが見える。ど
うあってもドーピングさせるつもりなのだろう。構うことなく、俺はつぶやいた。
「俺は所詮、売れないホモ漫画家だ。本当は描きたくもない話しか描けない大嘘つきだ」
 何度も繰り返してきた言葉だった。かつては漫画に夢を抱き、その夢を人に見せるために抗っ
てきた、冴えない三十代の愚痴。叶わぬ理想だけがふくれあがり、生活は貧窮の一途を辿るば
かりだ。魂の分身であるはずのキャラクターは、俺の明日のパンのために同性に告白する羽目
になった。かつて、漫画は文化だ、もっと評価されるべきだ、と――まだアシスタントであっ
た頃のユウキに、偉そうなお題目を講釈したのも、いまとなっては遠い昔だ。
「俺は理想一つ追えないダメ漫画家だ。人に夢を見せることなんて、できなかった――だが」
 最後の死力を尽くして、俺は汚れた絨毯の上を転がった。もうユウキの声も耳に入らない。
どうにか辿り着いた仕事場の隅には、もう何ヶ月も洗濯していないボロボロの毛布があった。
「人に見せることはできなくても、だが、俺が夢を見ることは――出来る!」
 かっこ良く脳内で叫んだつもりになって、俺はカッと目を見開く代わりに瞼を閉じた。寝る。
寝るしかない。日付の感覚なんてとっくにないが、でも少なくとも丸三日は寝ていないはずだ。
肩を揺り動かすユウキの全力が、ちょうどいいゆりかごに感じられるほどのいい案配。爆音で
鳴る尺八の音色も、いまの俺にはなによりの子守唄だ。純和風の伴奏に乗って聞こえる、ユウ
キの、悲痛な叫びすらも。
「先生、大嘘つきは僕の方です。本当は僕、先生の理想とか漫画への思いとか、そんなお題目
はどうでもよかった。お題なんて、くそくらえだって思ってた」

12 :No.03 RISK 〜夜明けなき部屋で、君と〜 4/5 ◇wDZmDiBnbU:07/06/09 20:48:33 ID:Ws78kRK+
 どうにか聞き取ることのできたその言葉は、しかし水っぽい雑音を伴ってぐしゃぐしゃに歪
んでいた。泣いているのか、と思ったが、しかし目を開けることは叶わなかった。脳裏に浮か
ぶユウキの泣き顔。それに痛みを感じるはずの心は、すでにどこかへと消えていた。だという
のに――まるで無反応であろうはずの俺を前に、ユウキはまだ、声を張り上げる。
「でも僕は、先生に憧れているんです。漫画を描く先生そのものに、いまだって僕は――!」
 彼が途中で言葉を切るのは珍しいな、と感じた瞬間、心地よい闇が俺の意識を包むのがわかっ
た。半覚醒のふわふわした、「あと五秒で落ちます」というあの感触だ。続きを聞くことはで
きないな、そう思い、沈んでゆく俺の心は――しかし、急浮上を余儀なくされた。
 感触。冷たい、不自然な、でもどこか懐かしい、この柔らかさ。瞼を開いても、目の焦点は
合わなかった。近すぎる、まるで視界に覆いかぶさるような、彼の顔。その柔らかい唇から、
俺の口内へと流し込まれる、冷たい感触。飲み慣れたこの味は、間違いなく『赤』の小瓶。C
Mでおなじみ、「大事な想いに情熱の赤」の、あの栄養ドリンクそのものだ。
 思わずそれを飲み下すのと、ユウキが俺から離れたのは全くの同時だった。薄暗い部屋の中
でも、彼の姿だけははっきりと見える。目の下の黒い隈と、赤く晴れた瞼。こぼれ落ちる大粒
の涙が、紅潮した頬をなぞる。
「先生、戻ってください。仕事に魂を削る、いつもの先生に――僕の先生に」
 まるで聞き取れるような発音でははなかったが、少なくとも俺にはそう聞こえた。決死の覚
悟で言ったであろうユウキは、顔を真っ赤にして肩を振るわせたまま――今度は黒の小瓶に手
をかけた。フタを捻ろうとして、悲鳴を上げたのは仕事柄だ。俺の倍の仕事量を誇る彼、その
右手が無事であるはずもない。素手で瓶のフタを開けるなんてのは、自殺行為だ。
 一度スパークしてしまうと、眠気など簡単にどこかへ吹っ飛んでしまうのが漫画家のいいと
ころだ。俺は無言で身を起こし、ユウキの手から小瓶を奪い取る。彼に比べたら俺の腱鞘炎は
まだ軽い方だろう。気合い一発、一気にフタをこじ空けてみせる。ありがとうございます、と、
それを受け取るべく手を差し出すユウキ。その姿に、俺は思わず吹き出した。
「これ、俺に飲ませようとして持ってきたんだろう。それとも、あの飲み方じゃなきゃダメか?」
 あ、と短くつぶやいて、そのまま真っ赤になり縮こまるユウキ。手強いライバルでありまた
頼りになる相棒である彼の、こんな姿を見るのは初めてだった。意外というか面白いというか――
しかしいつまでも泣かれていたのでは、いよいよ原稿が危ないな、と俺は黒の小瓶をあおる。
 何かを言いかけたユウキの唇は、やはり柔らかく冷たかった。黒のドリンクは貴重だから、
お礼も兼ねて半分こだ。黒のキャッチコピーは「気合い一発、万事OK」、その返事をユウキ

13 :No.03 RISK 〜夜明けなき部屋で、君と〜 5/5 ◇wDZmDiBnbU:07/06/09 20:48:49 ID:Ws78kRK+
は、身を固くしたまま静かに受け入れる。横目に見えた彼の右手、その指先でトーンのかけら
が、小刻みに震えているのが見えた。
 唇を離しても、舌に残る苦みは消えない。ほのかに熱を帯びた吐息が、先生、と俺を呼ぶ。
その呼び名にふさわしいかどうかは別として、だがしかし俺は漫画家だ。漫画家である以上、
漫画を描くのが俺の仕事だ。たとえ編集がノイローゼになろうと、印刷所で暴動が起ころうと、
その事実だけは曲げられない。やると決めたら、やる。それがプロだ。
 起き上がった俺と彼は、やはりそれでもまだフラついていた。二本だけじゃ足りないな、と
いう俺の言葉に、恥ずかしそうに、だが確かに頷くユウキ。そのまま気恥ずかしそうにデスク
の引き出しに手をかける。もうここまできて下がる道など、どこにもない。
 それは、創作に命を捧げたものの鉄則――『やると決めたら、とことん、やる』。たとえ世
間から非難されようと、『俺』に妥協は許されない。お題目なんて、まったくくそくらえだ。
『俺』には“俺”の物語がある。あとはそれを、『書ききってみせる――最後まで』。
 ベルトに手をかけ、下着ごとズボンを下ろす。準備万端整った俺の体を、小さなケースを手
にしたユウキが覗き込む。ためらいがちなその瞳は、「本当にいいんですね?」と語っていた。
 ――無論だ。ひと思いに、頼むぜ。
 彼の白い左手が、うつぶせになった俺の後ろに迫る。その指先には、小さなミント味のタブ
レットが摘まれていた。これを肛門に入れるとしばらく眠れないというのは、この業界では古
くから知られていることだった。しかし誰も安易に手を出さないのもまた仕事ゆえだ。常時座
りっぱなしで、しかも原稿の進捗如何によってはトイレすらも許されないこの職業において、
切っても切れない病の一つが『痔』である。一度それに手を染めてしまえば、最低二十四時間
は立ちっぱなしでの作業を余儀なくされる諸刃の剣。後ろの穴に潜むリスク――業界では、こ
れを略して『アナリスク』と呼ぶ。
「……いきます」
 辛さを知っているがゆえだろう、ユウキの声は先ほど以上に震えていた。俺自身、恐怖がな
いわけではない。だが、やらねばならない。一度決めたら、貫き通す――たとえ理想の先が見
えなくても、やると決めたら徹底的にやるのが、俺たちの仕事なのだから。

 外はニワトリが鳴き始めるような時間だったらしい。だがこの街にそんな鳥はいない。代わ
りに響くのは、俺たちの――夢を追い求める者の、魂の叫びだけだった。
<了>



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