【 千紗、おはよう 】
◆IizsX5THsw




100 :時間外No.02 千紗、おはよう 1/5 ◇IizsX5THsw:07/06/04 01:07:18 ID:2pjtWQfe
時計が十二時を過ぎれば明日になる。藤田が言ったので、千紗は今日が明日になる瞬間
を見ようと思った。夜の十時、おもしろいテレビも終わってニュースが始まる、千紗にと
っては一番つまらない時間だった。もっともいつもの千紗だったら布団の中で、朝に思い
出せず悔しい思いをするが、微かに愉快な残響を感じ取れる夢を見ている時間。千紗は藤
田の来る夜はいつも夜更かしだったが、十二時まで起きていたことはない。
「でも千紗はすぐに眠くなっちゃうよ」母親の真由美が言うと千紗は「起きてる!」藤
田の膝の上で跳ねながら言った。
「ねぇ、ママいいでしょ?」藤田は千紗の真似をして言うと、彼の首元に飛びついた千紗
と楽しそうにじゃれるのだった。二人を見ていると時々真由美はドキリとすることがあ
った。どうして千紗を藤田の娘にしてやれなかったのだろう。千紗は藤田の子でないか
ら千紗である、藤田と結婚していて子供ができていたとしても、それは千紗ではない。
前の夫との愛があったからこそ千紗は生まれたのだ。わかっていながらも、真由美は悲
しい気持ちになるのだ。
「今日は特別だからね」
 藤田と犬の親子のように戯れる娘に口にしたあとで、何故かそれが藤田に向けられた言葉
のように感じた。言葉が自分から離れてしまった瞬間、まったく別の意味、自分の意図
していなかった響きを帯びることがあるのを、真由美は知っていた。



101 :時間外No.02 千紗、おはよう 2/5 ◇IizsX5THsw:07/06/04 01:07:35 ID:2pjtWQfe
 ごめんなさい。
 幼馴染の藤田にそう言ったあの日も同じだった。ごめんなさいが「ごめんなさい」のま
ま藤田に届かなったか気がするのだ。だが、その時にはもう遅かった。
 十年近く会っていなかった藤田と真由美が再会したのは半年前、真由美と夫が別れて二
年ほどたった時だった。雑誌の記者をしている真由美は後輩二人と馴染みのカメラマンの男
を連れ、新潟まで仕事に行くことになっていたが、出発の当日に彼が病気になってしまった。
急なことだったので、代わりのカメラマンを社のほうで見つけることができず、
結局その彼が個人的に付き合いのあるカメラマンの中から変わりになるものを探してき
たので、その人に同行を依頼することになった。それが藤田だった。
 真由美ほうは驚きと、掴みどころのない不安にうろたえてしまったが、藤田は平然とし
ていた。「久しぶり」そう言って澄ましていた。電車で移動中、何度も藤田の横顔を盗み
見してしまう真由美と比べ、藤田のほうは真由美に関心のない様子であった。なので仕
事を終えて実家に預けていた千紗を引き取り自宅に帰った時かかってきた藤田からの電
話は真由美にとって、まさに青天の霹靂であった。
「久しぶりに飯でも食いながら話さないか?」


102 :時間外No.02 千紗、おはよう 3/5 ◇IizsX5THsw:07/06/04 01:07:52 ID:2pjtWQfe
 あとになってわかったことだが電話番号は病気のカメラマンから聞いたということだっ
た、しかしその時の真由美には電話番号を教えた覚えのない男から電話がかかってきたと
いう驚きはなかった。
 それ以来、藤田とは何度か外で会い食事をしたり映画を見にいったりした。そのうち藤
田は真由美の家にも訪れるようになり、千紗とも仲良くなった。藤田を何と言って紹介し
ようかと悩んでいた真由美だったが、藤田は持ち前の愛嬌であっという間に千紗の心を掴
んでしまったので、千紗が「誰か知らない人」という警戒心を抱く前に二人を友達になっ
ていた。今では土曜日を千紗は、たかちゃんの日と呼ぶようになった。たかちゃんとは
藤田の名前、孝之からきている。
「明日になるとどうなるの?」
 千紗は今日が明日になることに何か感動を期待するほど幼いのだ。そう思うと真由美は
少し感傷的になった。明日になっても何か変わるわけじゃない。私はまだ見ぬ明日に期
待することもなく過去に、昨日にすがり、後悔することしかしない。
「ちーちゃんは昨日なにをして遊んだ?」
「昨日はね〜、おいかけっこ! とママと歌をうたった!」
「そっか〜、ちーちゃん、昨日から見れば今が明日だよ」
 藤田の言葉に千紗は分からないというふうに首をかしげた。

103 :時間外No.02 千紗、おはよう 4/5 ◇IizsX5THsw:07/06/04 01:08:11 ID:2pjtWQfe
「昨日はどこにいったの?」
「昨日は千紗の中にあるよ」千沙の頬を両手で挟みぐりぐりしながら藤田は言った「昨日
はもう戻ってこないんだ」
 千紗がますます分からないというような顔をしたので、真由美は顔をほころばせた。
「千紗、明後日から見れば明日は昨日だよ」
 困ったお母さんだとでも言いたげな藤田と視線が合い、二人は微笑みあった。千紗は相
変わらずきょとんとしている。藤田は指を丸めた手を千紗に示し、これが昨日、これが今日
と指を一本ずつ立てていく。
「そうするとこれが明後日なわけだ」左手で右手の薬指を掴みながら藤田がいった「だか
ら一本前の中指は、昨日! でも人差し指……つまりきょうから見れば中指は……」
「明日!」千紗が叫び、隠された手品のタネでも探そうとするように藤田の手に飛びつい
た。


104 :時間外No.02 千紗、おはよう 5/5 ◇IizsX5THsw:07/06/04 01:08:30 ID:2pjtWQfe
 外は徐々に明るくなり始めていた。グラスの底には氷が溶けて色の薄くなったウイスキ
ーが残っている。しかし、完全に色が消えることはない。
「結局寝ちゃったね」
 千紗の寝ている隣の部屋を見ながら真由美は藤田と隣あって座っていた。ガラステーブ
ルの下で緩く繋がれた彼等の手に、グラスの影が落ちていた。
 真由美は思った。自分は何もかも間違っていた気がする。過去に戻りたい。藤田の言う
とおり過去は自分の中にある。間違った昨日の上に明日を重ねても、それはただたんに誤
りを積み重ねることにはならないか。
「私、明日になんかなってほしくない。ずっと今がいい」
 真由美は藤田の肩に頭をもたれさせ言った。外でバイクがとまり、郵便受けに新聞の投
げ込まれる音がした。
「明日なんて、ただの言葉だよ」藤田が言った。「一緒にいよう。俺と千紗とおまえで、そ
うすれば明日も今も変わらない」
 バイクの排気音が遠ざかっていく。テレビをつければ今日のニュースを見れるはずだ。
今日はたぶん暑くなる。散らかった部屋の、親密な夜の、名残惜しい余韻を吹き飛ばして
しまうほど暑く、きっと。

 寝ぼけ眼の千紗が起きてくると、テーブルには朝食が用意されていた。日曜日の朝に藤
田がいることはなかったが、何故かそれを、千紗が疑問に思うことはなかった。
「おはよう」言うと、藤田は悪戯っぽく笑い、訊ねた「千紗、今は明日?」



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