【 明日は 】
◆o2gTB3Q1sU




97 :時間外No.01 明日は 1/3 ◇o2gTB3Q1sU:07/06/04 00:21:33 ID:2pjtWQfe
 壁もカーテンもベッドも何もかもが真っ白なその部屋は、清潔さよりも前にまず、ぼくに無機質さを感じさせる。
その部屋にはテレビも時計もなにもなく、あるのは白いシーツで覆われたベッドを取り囲む物々しい機械たち。
規則正しい電子音を鳴らしながら、それはぼくに由里がまだ生きていることを教えてくれた。
 ぼくは扉を閉めて、ベッドの横にある丸い椅子に腰掛けた。閉ざされたブラインド越しに夕日が差し込み、
ベッドの上に横たわる由里をオレンジ色にひたしていた。
 脇の小さな卓に、二つのケーキが入った箱を置くとぼくは、由里の顔を覗き込んだ。
口には酸素を送り込むマスクがつけられて、腕には点滴の針が刺しこまれている。
たくさんの注射針のあとが残り、その白い腕に紫色のあざが痛々しかった。
手を伸ばして顔にかかった髪をかき分け、由里の額を撫でた。由里はすこし眉をひそめ、それでもやすらかに寝息を立てていた。
 由里はそのまま目覚めず、ぼくはいつまでもその寝顔を見つめていた。
ときに由里は苦しそうな顔をし、そのたびに医者がやってきて、注射を打ったり、機械をいじったりしていた。
だけれどぼくは、そんなことは気にせず、ただ由里だけを見ていた。
 もはや、由里は絶対に助からないと、ぼくは知っていた。
   *
 この病室に入って五時間がたった。あたりはすっかり暗くなっており、余計に蛍光灯に照らされて白く輝くこの部屋がまぶしく思えた。
 ふと、思い出したように由里の瞼は痙攣するように動き、開かれた瞳はぼくの方を向いた。
「あれ……おにいちゃん……」
今にも途切れそうな細々とした声で、由里は話した。
「どうして、いるの?……お仕事は?」
 ぼくは、伸ばされた由里の手をやさしく包んで、
「今日は、由里のお誕生日だろう。ほら、ケーキも買ってきたんだ、一緒に食べよう」
そういって、ぼくは脇に置かれたままのケーキの箱を由里の前で見せた。
「ほんと……うれしいなぁ」
いいながら由里は微笑んだが、次には不思議そうな顔をして、こう聞いた。
「ねぇ、今日は何日?」
少し考えながら「十五日だよ」とぼくは答えた。由里は少し悲しそうに微笑んで、
「私の誕生日、明日だよ」といい、また眠るような昏睡へと落ちていった。
 ぼくは由里の小さく冷たい手を握りながら、考えていた。

98 :時間外No.01 明日は 2/3 ◇o2gTB3Q1sU:07/06/04 00:21:50 ID:2pjtWQfe
――なんで、由里じゃなければいけなかったんだ。なぜ、なぜ、なぜ!
 こんな考えが自己中心的で、独りよがりということくらい、ぼくにも分かっていた。だけれど、それがぼくの本心だった。
うそ偽りのない気持ちだった。
 世界にはもっと苦しんでいる人がいる。それはそうだ。だけど、それがなんだというんだ?
 ぼくにとっての世界は、ぼくを取り巻く環境でしかなかった。そこには由里がいて、由里は明日にでも死んでしまう。
それだけがぼくの世界で、結局人間は自分の周囲の人びとの中でしか生きて行けないんだ。
――そう思って、なにがいけない? 由里が死ぬのは、それこそ死ぬほど悲しくて、
飢えに苦しむ子供たちのことを「ああ、かわいそうに」としか思えないことのなにがおかしい?
 ぼくの肩を、ふいに誰かが叩いた。振り返ると、立っていたのは由里の主治医だった。
   *
 主治医は、今日の深夜かそれまでもつかどうか分からない、とぼくに話した。ぼくは淡々と話を聞いていただけだった。
 由里のいる病室へ戻ると、時計の針は十時を指していた。
   *
 由里が再び眼を覚ましたのは、奇跡といえるかもしれない。医者の話では、このままだんだんと衰弱し、
目覚めることのないまま死ぬだろうと聞かされていた。
「おにいちゃん……」
ぼくは由里の髪を撫で、自分の腕時計を示した。
「ほら、もう十二時を過ぎた。誕生日だよ」
由里は、もう表情を作る力さえないのか、弱弱しく微笑み、
「ほんとだね。ねえ、ケーキ、たべたいな」
と、小さく呟いた。ぼくはうなずいて、ケーキの箱を開けた。入っているのはごく普通のショートケーキで、
由里はそれを見てまた、眼を細めて笑顔を浮かべた。
「おいしそう」
 だけれど、由里にはもうケーキを食べる元気もなく、ぼくがスプーンで運んでやるクリームを舐めるだけで精一杯だった。
「あまいね」そういって、由里は、うれしそうに話し始めた。

99 :時間外No.01 明日は 3/3 ◇o2gTB3Q1sU:07/06/04 00:22:05 ID:2pjtWQfe
「おにいちゃん、わたしがいくつになるか、知ってる?」
「十三歳だっけ」
「そう、わたし、来年中学校いけるんだよ」
「そっか、はやいもんだな」
「わたし、おにいちゃんとおんなじ学校いきたいな」
「じゃあ、またあっちに引っ越そうか」
「……でも、それじゃあ仕事いけなくなっちゃうよ」
「いまさ、免許取りにいってるんだ。社長がいい人でさ、学校のお金出してくれたんだ。車があれば、
向こうからだって一時間もかからないし」
「ドライブとか、いきたいね」
「いけるさ。山だって、海だって見れる」
「海……いいなぁ」
 由里はそして、静かに瞼を閉じた。ぼくは初めて、由里の前で泣いた。
だけれど、由里にはもうなにも見えず、聞こえていなかった。甲高い電子音がいつまでも病室に鳴り響いていた。
   *
 由里がもう、白い灰だけになってしまって、ぼくは思う。
 由里にとって、明日というものを認識させられるのは時計やカレンダーだけだったんじゃないか。
由里にとっての世界はあの白い箱の中だけで、そこにいるのは由里とぼくと、あとは数人の医者と看護婦だけで。
幼いころからずっとあそこにいて、友達もできず、話し相手はぼくだけで、毎日検査や注射ばかりで。
明日がどんな日になるかなんて考えることもできなくて。
 それはただ死ぬということよりも、つらいことだと、ぼくは思った。
 由里に、本当の海を見せられなかったのが、ぼくはただ悲しい。
   *
 由里が死んだのは、十月十五日午後十一時七分のことだった。

〈了〉



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