【 また、明日 】
◆D8MoDpzBRE




92 :No.23 また、明日 1/5 ◇D8MoDpzBRE:07/06/03 23:58:54 ID:TwCBh9Ol
 何の予兆も感じさせない、晴れた日だった。晴れているという以外に、特に何もない、何の感慨も湧かない、
むしろ生暖かくてけだるい初夏の朝だった。
「オッス」
 学校の玄関口で花井明海の姿を確認し、声をかけた。高校三年生、優等生を自認し、受験戦争の勝ち組に
名乗りを上げようと日々過ごす彼女の通学鞄は、参考書で膨れあがっていた。色々持ち歩いていないと不安
になるらしい。
「おはよー雅紀君、何かだるいッス」
 明海にしては珍しく、開口一番が弱音だった。確かに、顔色も悪そうに見えた。
「馬鹿は風邪を引かないって言うから、風邪でも引いたんじゃないか?」
「褒められてるのか小馬鹿にされてるのか分からない、そういう言葉が一番困る」
 ようやく靴を上履きに替え終え、明海が重そうな鞄に手をかけた。
 まあ、今日くらいは持ってやるかと思い、横からその鞄をひょいと持ち上げた。
「うわー、格好いい。帰りもお願いしていい?」
「褒められてるのか乗せられてるのか分からないけど、まあいいや」
 明海とは、高校に入って以来のほぼ三年間を、ずっと一緒のクラスで過ごしてきた。そして、お互い気の合う
仲間同士というスタンスを、ある時点までは忠実に守り通してきた。仲がいいことをクラスメイトに揶揄されるこ
ともしばしばだったが、一線を越えることはなかった。
「熱っぽい」
 明海がつぶやいた。昼休み、教室で僕が弁当を完食したくらいのタイミングだった。明海は、弁当の半分くら
いしか手を付けていなかった。
「保健室だな」「保健室でしょ」「保健室としか」
 僕らは級友数人を連れ立って、明海を保健室へと連れて行くという明け透けな建前でもって、普段何の縁も
ゆかりもない保健室へ押しかけた。
 誰かが勝手に淹れたインスタントコーヒーを飲みながら僕たちが喋っているそばで、明海は明らかに生気を
失った顔つきで保健室の先生の診察を受けていた。
「顔色悪いわね。熱も三十九度あるし、あら、すごい貧血」
「別に、校長先生の話を聞いてバタン、って感じでもないです。ただ、熱くてだるい感じ」
「そういう貧血じゃないの。あっかんべーをした時の目の赤い部分が、真っ白。一応、病院で見てもらおうか」
 明海は保健の先生の車で近くの市立病院へ向かった。昼下がりのコーヒーブレイクが後味の悪さで包ま
れ、皆のテンションが盛り下がったところで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

93 :No.23 また、明日 2/5 ◇D8MoDpzBRE:07/06/03 23:59:12 ID:TwCBh9Ol
 慣れないコーヒーの苦味が、放課後まで抜けなかった。

 虫の知らせというか予感がして、下校際にふらっと立ち寄った保健室で、明海が入院したことを聞いた。
 矢も楯もたまらず、僕は市立病院に向かった。明海の体調不良を出汁に羽目を外してしまったという罪悪感
以上に、僕の心を不可解な胸騒ぎが締め付けていた。
 明海の病室はがらんとしており、清潔感が逆に寂しさをかき立てていた。明海は、所在なさげに佇んでいた。
 扉を開けた僕の存在に気づいて、明海がこちらを振り向いた。初夏の太陽はようやく傾き始めており、淡い
オレンジの光を受けて明海の涙が輝いていた。
「私、死んじゃうかも知れない」
 すがるような声。明海がこんな話し方をするのは初めてだった。
「え、え? 何?」
 余りに唐突で、事態が飲み込めなかった。どう考えてもドッキリにしては手が込みすぎているし、普段底抜け
に明るい明美が泣いているという時点でただ事ではないし、これが演技でないとしたら明海は今、生命の危険
にさらされていると言うことだ。僕には、その事態が全く飲み込めていなかった。
「さっき、先生に言われた。お母さんも一緒に聞いてた。私、本当に死んじゃうの?」
 明海の訴えは余りに細く消え入りそうで、手放したら明日にでも失われてしまうのではないかと思われた。
 僕は、何も言えなかった。ただ立ち尽くし、目の前で大粒の涙を流す明海を見下ろしていた。絶望なのか悲
哀なのか、何か強大な不安要素を前に打ち震える明海を見て、どうすることも出来なかった。
「ごめんね、雅紀君。せっかくお見舞いに来てくれたのに、こんなんで、私」
 明海が涙を拭き、無理矢理作り笑いをする。
 僕は、首を横に振るのがやっとだった。
「今、お母さんが入院に必要なものを取りに行ってるの。お母さんが戻ってくるまで、一緒にいてくれる?」
 明海の問いに、僕はうなずいた。ベッドの脇に腰を下ろすと、明海と視点の高さが同じくらいになった。単純
な距離感が近づいたこと以上に、同じ高さの目線がもたらす効果は大きく、明海の表情や息づかいが今まで
になくリアルに感じられた。
 ――明海が死ぬ。
 考えられなかった。僕には、明海が死ぬなどと言うことも、「死」という言葉の持つ意味も、何も分からな
かった。一方の明海は、漠然としつつも絶対的な「死」という存在と対峙しており、それ自体を「死」の持つ意味
の一部として受け容れねばならないのだ。その事実が、僕と明海を果てしなく隔てていた。
 明海が肩を寄せてきた。暖かい体温を感じ、彼女の生命の確たる証明を得られたことが嬉しかった。

94 :No.23 また、明日 3/5 ◇D8MoDpzBRE:07/06/03 23:59:29 ID:TwCBh9Ol
 遺伝子が騒いだ。僕が明海のことを好きだと、まるで生まれたときから決まっていたかのように、彼女に対す
る愛おしさが心を満たしていった。
「僕が明海を、死なせない」
「……ありがとう、雅紀君」
 僕と明海の鼻先が交差した。唇の先端同士が軽く触れ、血の通った弾力を感じた。生まれて初めてのキス
はすぐに終わり、生まれて二度目のキスに取って代わられた。
 それは、部屋の扉がノックされるまで続いた。
 明海のお母さんは、僕のことを知っていた。明海が家でたびたび僕の話題を取り上げてたりしたのだろう。
だから、明海のお母さんも病室に僕がいたことに対して訝る様子もなく、むしろ「これからもよろしくね」とだけ声
をかけてくれた。
 僕は、明海に「じゃあな」と声をかけて立ち上がり、扉に手をかけた。
「雅紀、また来てね」
 背後から、明海の声がした。先ほどとは違い、艶と張りのあるいつもの明海の声だった。
「ああ、また明日な」
「うん、また明日」

 診断名は、急性骨髄性白血病。血液のガンとも言われるこの病気を治すには、強力な抗ガン剤による治療
を必要とする、らしい。
 明海の頭髪は、一発目の抗ガン剤治療で全て抜け落ちた。薬の副作用は相当なもので、それこそ毒をもっ
て毒を制すといった趣で、治療で体を壊してしまうのではなどと思われた。
 それでも治療の効果は確実に表れたようで、外見からは全く分からないが、白血病細胞は完全寛解、すな
わち検査では白血病細胞が検出できないレベルにまで達した。しかし、治療としてはそれからが本番だと言う
ことらしく、更に数週間周期で抗ガン剤の投与を繰り返さなければならなかった。

「今日と明日、外泊してもいいよって」
 入院から半年以上経過し、年の暮れも近くなってきたある土曜日の午前、明海が目を輝かせて言った。
 久し振りの外泊だった。抗ガン剤を一度投与すると、半月程は無菌室で暮らさないといけない程免疫力が落
ちる。そのため、外泊のゴーサインが出るのは一、二ヶ月に一回くらいしかないのだ。
「人混みとかは避けなさい、って言われたけどね」


95 :No.23 また、明日 4/5 ◇D8MoDpzBRE:07/06/03 23:59:46 ID:TwCBh9Ol
「じゃあ、久し振りに学校に行こうか。休日だから人いないし、懐かしいでしょ」
 僕の提案に、明海が大きくうなずいた。
 同級生に、親が美容院を経営しているという人がいて、明海にちょうどぴったり来るかつらを工面してくれた。
外出のたびに、明海はそれを照れくさそうにかぶっていた。それは、かなり明るい茶髪だった。
 休日の校舎は閑散としていた。部活とかで施設を使う人がいるため、正門は半分くらい開いていて、中に入
ることも出来た。
「うわあ、ホント懐かしいよ。もう、実際ここに通うこともないのかも知れないけど。色々単位認定してくれて、一
応来年卒業できそうだから」
 少し残念そうな口調で、明海がつぶやいた。
 下駄箱には、当時のまま、明海の上履きが入っていた。箱から靴を取り出す動作や靴を履き替える動作など、
一つ一つを感慨深げにする彼女を横目で見ながら、今日は代わりに持ってあげられるような重い荷物はないな、
などと思った。ようやく、明海もここまで戻ってくることが出来た。そう思うと、嬉しかった。
 明海も同じように、ここに来られたことが本当に嬉しかっただろう。
「私、多分雅紀がいなければ駄目だったと思う。ホント、死ぬことばかり考えてた。自殺しようとかそう言う意味
じゃなくて、病気で死んじゃうんじゃないかって」
 明海が弱音を言うことは、珍しかった。さすがに入院してからしばらくは落ち込んでいたようだが、治療が軌
道に乗り出すとかなり前向きになれていたようだったので、この告白は意外だった。
「でも、雅紀がほとんど毎日お見舞いに来てくれて、帰り際に『また明日』って言ってくれた。一日一日が、雅紀
に生かされてた感じだよ、ホント」
「それは、明海が生きようと願ったからだよ。僕は、祈ってただけだよ」
「でも、ありがたかったの。ありがとう」
 三年生の教室は、三階まで上らなければならない。長いこと入院していた明海には、これが少々きつかった
らしい。踊り場で休憩をはさみながら、それでもゆっくり確実に上った。
「明海、明日は何の日か知ってる?」
「クリスマス、でしょ。いくら入院生活で日付の感覚が狂ってるからって、その位は分かりますよーだ」
 懐かしい教室の扉に差し掛かる。教室のドアを横切るように、ピンク色のテープが渡してあることに明海が
気づいた。包装紙なんかをラッピングするときに付いてきそうな、花の形をしたフリフリが付いたテープだ。
「何これ?」
「さあ?」


96 :No.23 また、明日 5/5 ◇D8MoDpzBRE:07/06/04 00:00:09 ID:2pjtWQfe
 僕が軽く返答すると、明海はそのテープをほどいて教室のドアを開け放った。
 明海の呼吸が一瞬止まる。
 ――みんな。
 驚きの表情を、明海が両手で思わず隠そうとする。教室内から、クラッカーの音や歓声がわき上がった。
「明海ちゃん、久し振り」
「おかえり、花井さん」
 クラスメートが、口々に明海に対して言葉をかけた。総勢四十二名、欠席無し。こいつら、みんな最高だ。
 既に、明美の目は涙で覆い尽くされていた。
「う゛ぇ、みんな、どうじで……」
 鼻水でむせそうになりながら、明海が懸命に言葉を絞り出した。
「俺はサンタに拉致された。クリスマスだし」
「みんな明海ちゃんのこと待ってたんだよ、ね? 彼氏くん」
 委員長の日下部さんが唐突に僕に振ってきた。僕は、答えなかった。いや、答えられなかった。
 今喋ると、確実に涙と鼻水でむせ返るだろうと思ったからだ。
 どうやら、委員長もその雰囲気を察して、僕のスピーチをスキップしてくれた。
「彼氏くんが喋ってくれないから、プレゼントタイムにしますか」
 委員長の一声で、男子二人が大きな包みを運んできた。段ボールを無理矢理ラッピングしたかのような、か
なり大きな箱だ。
「ガリ勉の明海ちゃんに、半年分の授業ノートを進呈します。パチパチパチ」
 パチパチパチ。拍手が鳴る。ありがとう、ありがとう。もはや、明海は口をぱくぱくさせているだけで、辛うじて
感謝の意を伝えようとしていることが分かった。
 ひとしきり再会で盛り上がった後、「じゃあお二人さん、ごゆっくり」と、僕と明海だけが教室内に残された。
 気まずくない沈黙が、少しだけ続いた。
「こんなにノート取るの大変だったでしょ。ちょっと重くて持てなそう。帰りはお願いしてもいい?」
 明海が、プレゼントの包みに手を回しながら言う。
「褒められてるのか乗せられてるのかは分からないけど、まあいいや」

[fin]



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