【 いつかの捜し物 】
◆.J1VnvKG1A




75 :No.19 いつかの探し物 1/5 ◇.J1VnvKG1A:07/06/03 23:30:38 ID:TwCBh9Ol
 「明日が、見つからないんです」
寂れた、けれど艶のあるような喫茶店の奥まった一席。そこで目の前の男性――地味なスー
ツを着た、どこにでも居るようなサラリーマン然とした風体の――はそう話を切り出した。
いい加減重い沈黙にうんざりしていた僕はその言葉に聞き耳を立てる。
『それで、探して欲しいものは何ですか?』
単刀直入に、僕がそう質問してから実に十五分後の事だった。
「明日、ですか」
話の先を催促するようにそう返す。
「そう、明日です」
そうして語りだす男性の名前は久家宏平と言うらしい。知り合いの精神科医から紹介された
依頼人だ。
「その事に気付いたのは……そう、半年程前だったと思います」
 久家さんは軽い不眠症の気があるらしく、その治療にと訪れたのが知り合いの営む精神科
だったらしい。
「今の仕事はどれくらい前から始めたんですか?」
このまま放っておいたら、この馬鹿正直そうな男の人はきっと何時間も話し続けるだろう。
そう思って聞きたいことだけを聞いておこうと質問する。
「十年ほど前に母が他界して、その頃からです」
それからいくつか質問して分かったことは、その頃に家を出てここ、東京に出てきたこと。
その家には今、彼のお父さんと弟さんが住んでいるということ。不眠症に悩み始めたのは七
年ほど前からということ。寝る頃に、明日のことを考えると圧迫感に似た感覚がして眠れな
くなるらしい。
 それから少し話をして、今日は別れることになった。帰り際、
「何か、忘れていることはありませんか?」
そう質問した。その質問に久家さんは不意打ちを食らったみたいな顔をしてから、特になか
ったと思いますと答えて、どうかお願いします。そう頭を下げてから歩き出した彼を見送っ
た。

76 :No.19 いつかの探し物 2/5 ◇.J1VnvKG1A:07/06/03 23:30:53 ID:TwCBh9Ol
 帰り道、中途半端に暗い道を歩く。赤に染まる空と這い上がろうとする夜に挟まれた藍色
が、なんだか綺麗だった。
 僕はあの男の人、久家さんのことを思い出し。彼は、一体何を探しているんだろう。そん
なことを思う。彼は明日が見つからないと言った。それはどういう意味なんだろう。
 徒然に適当に考えて、――そもそも、明日って何なんだろう?――そんな疑問にぶち当た
る。
今日の次の日だとか、そんなことじゃなくて……。
 あの人は何か、きっと大きな思い違いをしているんじゃないだろうか。
明日が見つからない、そもそもそんなモノが見つかる訳がないのに。それなにのどうかお願
いしますと言った彼の目はあんなにも真摯で切実で。
 なんとかあの人の探している物を見つけてあげたい、身の程も弁えずそんな事を思った。

 家に帰り、まずする事は……。手洗いとかうがいとか、そんなことは二の次で電話に向か
う。僕と久家さんを引き合わせた知り合いの、遠江紀史という精神科医に電話を掛けるため
に。遠江さんは計ったようにコール二回で電話に出た。
「あ、遠江さん?」
携帯に掛けたので面倒な挨拶は抜き。
「ああ、どうだった?」
それだけじゃ何のことか分からない、けれどこのタイミングなら十中八九久家さんのことだ
ろう。今日話したことを簡単に話して、その話への感想を言う。
「きっと、あの人が探しているのは明日以外の物だと思います」
その言葉に、
「だろうな」
と返してくる、遠江さんもそう予想して僕に仕事を回してきたんだろう。
「とりあえず明日、久家さんの実家に行ってみようと思うんですけど……」
 そうして明日、遠江さんと二人で久家さんの実家に行く事になった。何でって、恥ずかし
ながら僕は極度の方向音痴で、都合よく遠江さんも休みみたいだったから。

77 :No.19 いつかの探し物 3/5 ◇.J1VnvKG1A:07/06/03 23:31:10 ID:TwCBh9Ol
 朝、遠江さんに迎えに来てもらって、そのまま二時間程車で走ると目的の場所に到着した。
そこは山間の小さな村で辺りには色濃く緑が残っていて、小さな湖なんかもある。夏には避
暑地として密かな人気があるとか無いとか……。
 そんな話は置いておいて、本題の久家さんの家に行ってみる。と、縁側のある平屋建ての
家があって、事情を話すと快く中に招き入れてくれた。
 今住んでいるのは久家さんのお父さんと、弟さん夫婦、それに弟さん夫婦の子供が二人ら
しい。お父さんは先日町役場を退職して今は自宅で悠々とした隠居生活。弟さんはその町役
場で働いているらしい。奥さんは子供の世話で忙しいらしくお茶を出すと早々奥に引っ込ん
でしまった。
 「いきなりお邪魔してすみません」
そう頭を下げると、
「気にせんで下さい。こんな田舎ですからね、人が訪ねに来てくれるだけで嬉しいんですわ」
そう答えるお父さんの笑顔は好好爺然としていて、それでも長居するのは悪いだろうと早速
いくつか質問することにした。
 それで分かったことは久家さんは絵が好きだったと言う事くらいで、後は久家さん本人か
ら聞いたこととそう違いの無いことばかりだった。そのあと無理を承知で久家さんの部屋を
見せてくれるよう頼むとお父さん直々に案内された。
 部屋は六畳間で、机が一脚と本棚が一架あるだけの簡素な部屋だった。
「押入れの中を見せてもらっても良いですか?」
遠江さんがそう訊ねる。
「ええ、どうぞどうぞ」
その言葉の後、遠江さんは押入れを開いた。

78 :No.19 いつかの探し物 4/5 ◇.J1VnvKG1A:07/06/03 23:31:30 ID:TwCBh9Ol
 中にはこれまで久家さんが描いてきたであろう図画の束と、随分と使い込まれた画具が一
式あるだけだった。見てみると風景画が九割、人物画が一割というところで、総数は二百を
優に超えている。繊細なタッチで描かれたそれは、なんだか心に来るものがある。
 仕事も忘れてその絵に見入っていると、一際丁寧に描かれた人物画が出てきて、
「奥さんですか?」
そうお父さんに問いかける。
「ええ、これは私の妻の絵みたいですね」
つまりは、久家さんのお母さんの絵だ。絵の裏側を見ると、『約束』と題されていた。
 遠江さんはそのまま次の絵を見ようとその絵、『約束』を仕舞おうとしている。
「あ、ちょっと待ってください」
遠江さんの手からその絵を取って……うん、多分間違いない。
「どうした?」
遠江さんが聞いてきたので、
「多分、一つはこれです」
そう答えておいた。
 その後一通り押入れの中を見て、それからしばらくお父さんと話をしてから帰ることにな
った。

79 :No.19 いつかの探し物 5/5 ◇.J1VnvKG1A:07/06/03 23:31:47 ID:TwCBh9Ol
 明日が見つからないと久家さんが言ったあの日は、もう二年前になるのか。そんな事を思
いながら眺める展覧会の絵。繊細なタッチで描かれたそれは一年ほど前から名をあげ始めた
画家が描いた物だ。
 結局、久家さんにあの絵、『約束』と画具、それと小学校の卒業文集を渡してから、久家
さんは不眠症を克服した。彼の不眠症は軽い強迫性障害から来ているものらしかった。
 原因は、忘れ物だ。幼い日に交わした母との約束。それを忘れていて、けれど心のどこか
に引っかかるものがあったんだろう。もともと生真面目な彼はそれが原因で不眠症を患った
と言うことだろう。
 明日が見つからない。そう言った彼が本当に見つけられなかったのは、本当は昨日だった。
たったそれだけのことだった。昨日を見つけて、ようやく明日を取り戻した彼は今毎日を多
忙に過ごしていることだろう。母との約束、彼が絵を好きでいる限り、絵を描き続けて欲し
い。そんな母の、明日への願いを叶えるために。

               -fin-



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