58 :No.15 運の悪い男 1/5 ◇jhPQKqb8fo:07/06/03 23:06:31 ID:TwCBh9Ol
ピピッ ピピッ ピピッ
ジリリリリリリリリリリ
ルルルルルルルルルルル
「……んあ……」
……朝か。
窓から差し込む陽光が目蓋をぐさぐさと刺してくる。目覚まし時計の多重奏と重なって覚醒を促しているようだ。
俺はがばっと跳ね起き、目覚ましを順番に止めた。
寝床から這い出て大学へ行く準備を始める。と、床に転がる目覚まし時計たちが目に付いた。一、二、三……四、五。
さっき鳴っていたのは三つだったか。鳴らなかった二つを拾い上げてみると、一つは電池が外れかけ、一つはなぜか止まっている。
止まっている時計をいじくりながら俺は、「二つしか止まらないなんて、今日は運がいいかもしれないぞ」とひとりごちた。
俺は生まれつき運が悪い。
朝目覚ましが鳴らないなんてことは日常茶飯事、顔を洗おうとすれば断水で水が出ず、冷蔵庫を開ければプラグが
抜けていて食材は全滅、そういう日に限って財布には金がなく、銀行のATMは定期検査で停止中であり、
その日は買い置きのカップラーメンを砕きながら生きる羽目に陥った。
「いってきます、と」
ドアの鍵を三つともしっかり掛け――二つは自分で付けた――、アパートの階段を駆け下りる。
まったく、この世に神がいるとしたら、そいつは何かを間違えたとしか思えない。この体質のおかげで受けた
被害は数知れず。だいたい今日の授業は三限からだというのにこれほど早く家を出なければならないのも、
バスが止まったりバスが来なかったりバスがガス爆発したり――これはまだなかったか――するからだ。
「ま、ぐだぐだ言っても仕方ないんだが」
ため息をつきながら歩く。バス停まであと数メートル、というところで、見覚えのある後姿が目に付いた。
長い黒髪に少しウェーブを掛けて、薄いグレーのカーディガンに白のロングスカートと大人しめのファッション、しかしその背
中を真っ二つにするように担がれた竹刀がいろいろとぶち壊しにしている。話しかけようか迷ったが、向こうが
先に気づいて振り向いてきた。流石武術家……。諦めて普通に対応する。
「よぉ、綾香。おはよーさん」
「あ、こうちゃん! おはよう、早いわね!」
59 :No.15 運の悪い男 2/5 ◇jhPQKqb8fo:07/06/03 23:06:57 ID:TwCBh9Ol
いつもと同じ、鈴の音のような澄んだ声に、俺は聞き惚れる。いかん、動悸が……。誤魔化すように綾香の隣に並ぶ。
「いーかげん『こうちゃん』は止めてくれよ。もう子供じゃねーんだし……」
「あら? おねーさんに向かってなんて口を。昔は何かあるたびに『おねえちゃぁん……』って泣きながら縋り付いてきたっていうのに。
あのころの可愛さはどこにいっちゃったのかしら? しくしく」
「それは幼稚園のときの話だし、お前俺と同い年だろ……」
わざとらしく泣きまねをしてみせる綾香に、うんざりとした声で返す。綾香はいわゆる幼馴染という奴で、
親の仲が良かったこともあって昔はよく遊んだ。
「だってこうちゃん、同い年って感じじゃないもん。なんかこう、守ってあげなくちゃ! って感じなのよね、昔から」
「俺は誰かに守ってもらわなきゃいけないほど弱くないつもりなんだが」
「違うわよ。そういう空気なわけ。小動物系というか、いつも何かに怯えてるというか」
不意に襲う不運に備えているだけだ――と言いたくなったが、何とかこらえた。綾香には俺の体質のことは秘密にしている。
いらん心配を掛けたくないのもあるが、巻き込みたくないからだ。
横たわりかけた間を腕を組むことで散らし、俺は当然だとばかりに口を開く。
「昔から怖い幼馴染に脅されてたからな。クセがついてるんだ」
「ちょっと! それが助けてあげてたお姉さんに利く口?」
ぎゃあぎゃあと喚きあっていると、バスがやってきた。俺の大学の最寄り駅を通るバスだ。
「あ、来ちゃった。仕方ない、今はこの辺で許してあげるわ。バスの中で騒ぐわけにもいかないし」
そもそもバス停で騒ぐのもどうかと…いや待て、
「あ、綾香、あれに乗るのか?」
「そうよ? 今日はこうちゃんの大学の剣道部と親善試合だもの」手に持った荷物を見せ、
「こうちゃんも大学に行くんでしょ? バス降りたら第二ラウンドだからね!」
やばい。このままでは綾香と同じバスに乗ることになってしまう。今日バスが爆発しない保証はない――俺と一緒に乗る限りは。
「あ! そういや家に財布忘れてきちまった! 取りに帰らないと! それじゃ!」
一方的にまくし立て、きょとんとしている綾香を尻目に家への道を駆け出す。非常に苦しいがこういうのは言ったもん勝ちだ。
俺の不運で綾香に迷惑を掛けるわけには行かない。
「こらーっ! 逃げるなーっ! 第二ラウンド覚えとくからねーっ!」
……人の気も知らないで……。
「はぁ……」
60 :No.15 運の悪い男 3/5 ◇jhPQKqb8fo:07/06/03 23:07:14 ID:TwCBh9Ol
自宅への道をとぼとぼ歩く。バスはもう行っただろうが、あんな騒ぎを起こしたところにすぐ戻りたくはない。
少し時間を潰さないといけないだろう。
「はぁ……」
何度もため息が出る。これで大学に行くのが遅れる。綾香と同じバスに乗るチャンスも失った。
とっくに慣れたとはいえ、まったく恨めしい体質だ。
この体質のせいで、俺は綾香を含め、他人に踏み込めないのだ。本当ならさっさと告白でも何でもしたいのだが、
この体質がブレーキを掛ける。もし付き合うことになっても、まともにデートも出来やしない。あるいは
取り返しのつかないケガをさせてしまう可能性だってある。そう考えると、どうにも二の足を踏んでしまうのだ。
「はぁ……」
「はぁはぁはぁはぁうるさいねっ! 変質者か!」
「うわっ!」
驚いて声の飛んできた方を向き、その人物の姿に再度驚いた。暗幕のような服を頭から着込み、道端だというのにイスに座り、
黒布を掛けたテーブルにはご丁寧に水晶玉らしきものを乗せている。俗に言う占い師という奴だろうか。始めて見た。
「まったく、目の前でため息などつかれたら商売上がったりじゃよ。ほれ、行った行った」
顔は見えないが、声は老婆の物だった。気の強いバーサンだ。はいはい行きますよ。
「……む?お主、変わった星の下に生まれとるの。ふーむ、まあ安心せえ。明日からは普通の運勢になる」
どうやって時間を潰すかな……ん?
「ちょ、今なんて!」
詰め寄る俺に、老婆は平然とした声で返す。
「じゃから、お主の不運さは今日でお終いじゃと言っておる。明日からは普通の人間のように人生を送れるじ
ゃろうよ」
「本当か! 本当に明日になったらこの不運体質は治るのか!?」
「くどいの。体質ではなく星の動きに基づく『流れ』じゃ。治るというより、変わる、じゃな。まあ、」
老婆はフードの下でにやりと笑った…気がした。
「幸運になるかどうかはわからんがの」
ピピッ ピピッ ピピッ
「……鳴りやがった」
61 :No.15 運の悪い男 4/5 ◇jhPQKqb8fo:07/06/03 23:07:35 ID:TwCBh9Ol
昨日、老婆と別れたあと、俺は大学に向かった。いつもと何ら変わらない一日に、本当に明日で治るのかと疑問に思いつつも、
まあどうせ日曜だしと目覚ましを一つだけセットして眠りについたのが午後十一時。そして今、俺は結果を見ているというわけだ。
「治った……のか?」
半信半疑で呟きつつも、冷静な部分は確信していた。俺の人生において一つだけセットした目覚ましが時間通りに鳴った事など一度としてない。
そんな奇跡が、変な老婆が予言したその日に起こる確率はいかほどのものだ? つまり、
「治った……のか」
そのようだ。しかし何だ? 胸に去来するこの漠然とした不安感は……。
と、その時だった。
ピンポーン
「!!」
チャイムが鳴っている。こんな朝早くから誰だ? 今日は日曜だというのに……。のそのそと起き上がり、ドアを開ける。
「お、起きてたのか。感心感心、お姉さんが褒めてやろう」
そこに立っていたのは綾香だった。白を基調としたワンピースに青のサンダルで、妖精のような姿で満面の笑みを浮かべている。
「第二ラウンドの約束忘れてないでしょうね。今日は目一杯付き合ってもらうわよ!さっさと準備……あら? おーい、聞いてるー?」
聞いちゃいなかった。俺は脳裏に浮かんだ考えに取り付かれてそれどころではなかったのだ。
綾香が……ずっと好きだった女の子がいる。
不運体質は治った。
ではどうするべきだ? 決まっている。告白だ。今こそ積年の思いを打ち明けるのだ。
「綾香……」
「? なに?」
きょとんとした顔で小首をかしげる綾香。その姿に向かって、俺は口を開いた。さあ――
「俺は――」
……何だ?
口が……動かない!!
いや、それより、まだか?早く!こういう時、起こってきただろう?いつもいつも、俺の決断について回った……
なぜ、不幸が起きない!?
!!!!!!!!?????????
俺は今、何を――――?
62 :No.15 運の悪い男 5/5 ◇jhPQKqb8fo:07/06/03 23:08:13 ID:TwCBh9Ol
「俺は……何?」
「!!!!」
綾香の言葉で我に返った。背中に嫌な汗が浮いている。
「いや……なんでもないよ」
俺の声じゃないような声が響く。
「ふうん? まあいいや。じゃあ外で待ってるから、早く準備すること! 三十秒以内!」
そういうと、綾香は身を翻して階段に向かった。俺は何も言わない。……いや、言えない。
……なんてこった……。
俺はここに来て、ようやく自分の本質に気がついた。確かに俺は不運だった。それは俺の人生からチャンスをことごとく奪い、
俺はそれを呪った。畜生。こいつのせいで。しかし、今、何者にも邪魔されないチャンスの場で、俺は不運を望んだ。つまり……。
老婆の言葉が頭をかすめる。“幸運になるかどうかはわからんがの” では、老婆は気づいていたのだ。
俺は……不運を理由にして……決断から逃げていただけだった!!
思わずドアに頭を打ち付ける。鈍い音がして、俺の脳を揺さぶった。
先程告白しようとしたときに口が動かなくなったのは、恐怖のせいだ。それは、振られたらどうしようとか、嫌われたら嫌だとか、
そういう誰もが経験している、不運のおかげで直面しないですんでいた気持ちだった。俺はその大きさに押し流され……逃げたんだ。
だが。
「くそ……。ざけんなよ……!」
俺は廊下に飛び出し、階段を降りようとする姿でぽかんと固まる綾香に向き合った。
「こうちゃん、何、今の音……。それに、ひどい顔してる……」
「綾香!話があるんだ!」
俺は綾香の言葉を遮って叫んだ。
認めよう。なるほど、俺は逃げていた。今まで努力らしい努力もせず、ただ諦めていただけだった。しかし、
……この気持ちを諦めるなんて、できるものか……!
老婆の言葉。“幸運になるかどうかはわからんがの” 言い換えれば、俺次第だという事だ。
「不運ではない明日は来る。保証しよう。じゃが、幸いな明日に向かって歩くことは出来るかの?」
歩いてやろうじゃねえか!
「俺は……君が、好きだ!!」
目を丸くする綾香。この表情は、どう変化するのだろう。恐い。怖い。息がつまり、肺が冷たい悲鳴を叫ぶ。心臓が爆発しそうだ。だが、それでも、
俺の明日は、ここから始まるんだ。