【 エスケープ 】
◆2LnoVeLzqY




48 :No.13 エスケープ 1/5 ◇2LnoVeLzqY:07/06/03 21:50:28 ID:TwCBh9Ol
 真由が人生最後に見た光景は、うっそうとした樹海の中で、緑の葉を茂らせる木々になる、はずだった。

 太陽の光は枝や葉に遮られてあたりは薄暗い。地面は落ち葉や苔で埋まっている。ところどころ、運良く地面に届いた細い光がスポットライトのように、木の幹や葉や岩を照らしている。
 この場所の持つ、どこか神秘的な雰囲気は、真由の心にある種の平安をもたらしている。
「……意外といい場所じゃない」
 ようやく登った木の枝にまたがり、辺りを見回して真由は思う。
 死ぬにはいい場所じゃない、と。
 真由の首にはロープが結んである。そのもう片方の先端は、地面に向かって垂れている。
 それを真由は引き上げた。そして、またがっている枝に結ぶ。しっかりと。解けないように。
 茶色く太い枝と、真っ白で細い真由の首がロープで繋がる。それから、またぐようにしていた足を枝の片側に揃える。枝に平行に、座るかたちになった。
 一息つく。小さく、ごめんね、とつぶやく。
 もう一度、目の前に広がる樹海の光景を見た。人生最後になるはずのそれを。目に焼き付けるように。神聖な雰囲気。神様さえ、いそうな雰囲気のそれを。
 天国でも覚えていられるように。しっかりと。
 ――そして、真由は見てしまう。
 息も絶え絶えで、時々転びそうにさえなりながら、それでもこちらに駆けてくる少女。
 その、見知った姿を。
「……お、お姉ちゃん!」
 絞り出すような声で、少女は一言だけそう叫んだ。聞き覚えのありすぎるその声は、枝から飛び降りる機会を、決意を、気力を、真由から、奪う。

「亜里沙……あんた、バカじゃないの!?」
「ば、ばかなのはお姉ちゃんの方だよ! そんな真っ黒なワンピースとスカート着て。しかも木なんかに登ったから破れちゃってる。今のおねえちゃん、宇宙で一番ばかだよ!」
 死に場所に選んだ木の下で、ロープを解いた真由と、その妹の亜里沙が向かい合っている。亜里沙は制服姿だ。彼女は現在中学三年生であり、いつもならばこの夕方の時間は、机に向かっているのだった。
「それに、お姉ちゃん、高校行ってたんじゃなかったの?」
「服なんてカバンに入れておけばどこだって着替えられるじゃない。……ってかあんた、私の……いわゆるあれ、遺書、見てから、ここに来たの?」
 心底不機嫌そうに、真由は妹の亜里沙へと訊く。自殺しようとしていたのだから本来は責められても当然なのだが、それを許さない態度で、真由は亜里沙に向かっている。
 亜里沙は目を泳がせながらも答える。
「う、うん……見たよ。だから、追いかけて来たの」
 少しの間、沈黙が降りた。二人は思い思いの方向を見つめている。だがそこにはもちろん、緑の葉と木々しかない。
 大きなため息のあとで、真由がようやく沈黙を破る。
「で、あんた、私をどうするつもり?」

49 :No.13 エスケープ 2/5 ◇2LnoVeLzqY:07/06/03 21:51:00 ID:TwCBh9Ol
「どうするって……お姉ちゃん、家に帰るんだよね?」
 亜里沙が真由の目を見つめながら必死に言う。だが真由は返事をせず、生えていた細い枝をばきりと折り取って、ぽいと放り投げる。
 その枝が別の木にぶつかるのを見届けてから、真由がうんざりしたように、亜里沙に訊き返す。
「……どうやって帰るのよ。どこ見ても同じような木ばっかりなのに」

「お姉ちゃん、ケータイ持ってきてないの?」
「持ってきてるわけないじゃない。荷物は全部途中で捨ててきたわ。あんたは?」
「あたしも、持ってきてない……だって、急いでここに来たから。家に置いてきちゃった」
 どこまでも同じような風景が続く中を、二人は歩いていた。もはや日は暮れ始めていて、ところどころ木々の葉の間から見える空は藍色に染まりつつある。
 歩く速度は、普段の半分ぐらいまで落ちていた。疲れの色がお互いの顔ににじみ出ている。
 亜里沙のお腹がぐう、と鳴るのを、真由ははっきりと聞いた。
「少し休んだ方がいいわね」
 足を止めて真由は言う。亜里沙はうつむいて、けれどそれに従う。制服が汚れるのも厭わずに、落ち葉の覆う地面に、ぺたんと座りこんだ。
 亜里沙の体力はそろそろ限界かもしれない、と真由は思う。
 続けて真由のお腹もぐう、と鳴って、彼女自身も亜里沙の隣に座る。亜里沙がくすっと笑った。
 二人の目の前には、相も変わらずうっそうとした森が広がっている。
「今日の夜はこの中で過ごすことになりそうね。これ以上は、お互い歩けない」
 真由がぽつりと言い、その言葉で亜里沙の顔からすっと笑顔が消えた。真由はそれを見て思う。
 この子は、助からなくちゃいけない、と。
 断ち切るはずだった明日を、真由は今、必死に求め始めている。
 亜里沙を助けるために、だ。
「大丈夫よ。明日になったらきっと、出られるから」
「……本当に?」
「……本当に」
 根拠はない。けれど真由はそう答える。姉としての役割が、そうさせた。
 それから、ここから出ることが出来たら、と真由は考える。ここから出ることができたら……もう一度、ここに戻ってくるだろう。死ぬために。
 私が欲しいのは、亜里沙を助けるための明日と、自分が死ぬための明日だ、と。
「月だ」
 上を見ていた亜里沙がふとつぶやいた。真由もつられて上を見る。木々の葉の間から見える空に、ぽっかりと、満月が浮かんでいた。
 見上げる亜里沙の目には、涙が浮かんでいる。その様子はまるで、上を向いていれば涙がこぼれない、とでも言いたげなふうですらあった。

50 :No.13 エスケープ 3/5 ◇2LnoVeLzqY:07/06/03 21:51:22 ID:TwCBh9Ol
「もう寝なさい。起きていても、出口が向こうからやってくることなんてないから」
「うん。……ねえ、お姉ちゃん」
 ここは、さむいよ。そう言いながら亜里沙は真由に抱きついてくる。細い腕が真由の背中に回る。ぎゅっと、体と体が密着する。真由は拒むこともなく、しっかりと抱きしめ返す。
 ひとしきり泣いたあとで、亜里沙は真由の腕の中で眠った。すやすやと、寝息すら立てて。
 真由は一晩中、その亜里沙の様子を見守る。

 夜明けが来るのと亜里沙が腕の中で目覚めるのは同時だった。
 鳥のさえずりがあちこちから聞こえる。月が浮かんでいたはずの空の色は、いまや薄めすぎた水色の絵の具のようだ。
 亜里沙はゆっくりと目を開け、真由の姿を認めて何かを言おうとして、けれど顔をしかめる。唇が乾いて切れたのだろう。
 自分たちの置かれた状況を、真由は改めて意識する。
 葉にたまった朝露は唇を濡らすだけの効果しかなかった。真由も、そして亜里沙も無言のまま、再び座り込む。
 歩き出すほかに道はない。出口を見つける以外にここから生きて出る方法はない。
 けれど疲れ果てた亜里沙の様子を見てしまうと、真由はそうは言い出せない。
 真由は自転車でこの森の入り口に来て、そこから登れそうな木を探し回って、あの場所にたどり着いた。だからこの森の入り口、すなわち出口は、あの場所からは恐らく歩いていける範囲にある。
 けれど道に迷ってしまった今、出口にたどり着くあてはほとんどないのだ。それでも、歩く以外に、できることはなかった。
 真由は頭をかかえる。どうすればいいんだろう、と思う。
 そんな真由に、亜里沙が小さな小さな声で、話しかける。
「……お姉ちゃん、私のことは心配しなくて、いいから。歩こう」
 そう言うと、亜里沙はゆっくりと立ち上がった。その細い足で、それでもしっかりと。学校指定のローファーが、細い枝を踏みつけている。
 座ったまま、真由はしばらくのあいだ亜里沙を、ぼんやりと見つめていた。
 真由が我に返ったのは、亜里沙から手を差し伸べられてからだ。
「あたしはお姉ちゃんに、助かってほしいから」
 妹から差し伸べられた手を、姉はそっとつかむ。目と目があって、姉である真由は初めて、泣きそうになる。
 ――神様。どうかこの子だけは、助けてあげてください。
 うっそうとした森の中に向けて、そう、真由は祈る。

 この森の中に神様が本当にいるとすれば、真由の願いはきっと彼の下へと届いたのだろう。あるいは神様なんて実在するはずもなくて、このことは全くの偶然なのかもしれない。
 けれどいずれにしても、歩き始めた真由と亜里沙の前に現れたのは、紛れもなく森の中を流れる小川なのだった。
「みずだ……」
 二人のどちらかがつぶやく。次の瞬間にはもう真由も亜里沙も小川に駆け寄りその水をすくって飲み始めている。

51 :No.13 エスケープ 4/5 ◇2LnoVeLzqY:07/06/03 21:51:39 ID:TwCBh9Ol
 小川の上、木々の間に一直線に開けた空からは、昼間の陽射しが降り注いでいる。
 二人は休憩もかねて、近くの岩の上に座り込んだ。
「この川を辿っていけば、きっとどこかに着ける」
「うん」
「だから、もう少しだけ、がんばろう」
 真由は立ち上がる。それから座っている亜里沙へと手を伸ばす。亜里沙はそれに応える。
 小川の流れる音だけが辺りに響いている。そのほとりを、真由は亜里沙とともに歩き出す。
 亜里沙を助けなくちゃいけない、と強く思う。
 だからこそ、真由は、訊いた。
「……ねえ、亜里沙」
「なに?」
「私の遺書に書いてあった文章、覚えてる?」
 真由はそう訊くと、ぴた、と足を止める。亜里沙もつられて足を、止める。真由と目を合わせずに、答えた。
「おぼえて、ない。でも、でも」
 亜里沙の言葉を最後まで聞かず、真由は冷たく、言う。
「覚えてないでしょうね。だってあんた、私の遺書なんて、見てないんでしょ?」
 ざわ、と木々が揺れた。まるで亜里沙の心の中を表しているかのように。亜里沙は斜め下を向いたまま、小さな声で、認める。
「……お姉ちゃん、それ、どうしてわかったの?」
 真由はそれを聞いて、あきれた、とでも言いたげに、ため息をついた。
「あんたこう言ったわよね。『遺書を見て追いかけてきた』って。でもね……自分が自殺しに行く場所なんて普通は書くわけないじゃないの。だから、あんたが私を追いかけてこれるはずないの」
 バカ。真由は亜里沙に、そう、泣きそうになりながらも、精一杯の強がりを込めて言う。
「なのにあんたは私を見つけた。あの場所で。じゃああんたがあの場所にいた理由は……って、訊かないわ。どうせひとつしかないんだもの。私に言えることは……偶然は、怖いってことだけよ」
 吐き捨てるようにそう言うと、真由は落ちていた石を一つ拾って、小川の中へと投げ込んだ。ぽしゃん、と小さな音がして、けれどその音は、真由の気持ちを落ち着かせたりはしなかった。
 ……自殺一家だもんね。
 亜里沙が、どこか楽しげに、そうつぶやいた。
 それに答えるかのように、真由が言う。
「姉妹揃って同じ日に死のうとしてたなんて、お笑いにすらならないじゃない。おまけに広い広い樹海の真ん中で出会うなんて。神様も、とんだ偶然を演出してくれたわ」

 真由と亜里沙の父親が、家の梁で首を吊ったのは真由が小学校四年生のときだった。
 後に、会社での失態に彼が酷く気を病んでいたこと判明する。けれど真由にとっては遺書の最後に書かれていた「真由へ ごめんな」の七文字だけが、強く心に残っていたのだった。

52 :No.13 エスケープ 5/5 ◇2LnoVeLzqY:07/06/03 21:51:57 ID:TwCBh9Ol
 後を追うように母親が同じ場所で首を吊ったのは、それから一年後のことだった。「真由へ 亜里沙をお願いね」という手紙を残して。
 真由と亜里沙はその後、親戚夫婦の家へと引き取られた。
 母親の手紙の、その一文を、真由は今、何度も何度も、頭の中で読み返している。

「あたしねー、生きてくの、嫌になっちゃったんだ。おじさんもおばさんも大キライ。早く死ねばいいのに、っていつも思ってた。けれどそのたびに、それは叶わないから、あたしが死ぬしかないのかも、って思うの」
 二人は立ち止まったその場から、動けずにいた。明日へと繋がる小川がそばを流れている。にもかかわらず、二人の足は、動かない。
 真由は驚いている。亜里沙が、そんなことを思っていたことに。木の上から亜里沙を見つけた瞬間に、薄々気づいてはいた。けれど実際に聞くと、その言葉は、とても重たく感じられるのだった。
「だからここにやって来たの。そうしたら、お姉ちゃんを見つけた。すごくびっくりした……。お姉ちゃん、お姉ちゃんは、どうして、死のうと思ったの?」
 亜里沙が、無邪気に、真由に訊いた。その無邪気さに、真由の心がぎゅっと痛んだ。
「……私が死ねば警察だって、おじさんとおばさんの酷さに気づくから。遺書にだってそう書いた。周囲が改善されればあんたは……亜里沙は、ちゃんと、生きていける。そう思ってた」
 けれどもその考えも、間違っていたかもしれない、と真由は思う。亜里沙の心の奥底を知らなかったことを、真由は悔やんでいる。
 亜里沙はじっと真由を見つめたまま、静かに、言った。
「今でもね、あたしはできることならすぐにでも死んじゃいたい、って思ってる」
「バカっ!」
 亜里沙が息を呑む音が聞こえた。真由はそんな亜里沙を睨み返している。
「私はお母さんに言われたの。『亜里沙をお願い』って。だから……私は、あんたをここから、生きて、出してみせる」
「で、でも! あたし、もうあの家には帰りたくないよ。いいことなんて何もないもん! だったらお姉ちゃんと一緒にでも、ここで……」
 亜里沙はそこから先を、もう言うことができなかった。口からはすすり泣きが漏れている。涙が次から次へと溢れて、頬を伝い地面へと落ちる。
 真由はそんな亜里沙を見て、ひとつの、決意をした。
 その内容を、静かに、伝える。
「……じゃあ、逃げよっか」
 亜里沙が涙をぬぐって、真由を、見る。
「逃げ、る?」
「そう。この小川を伝って、どこかに着いたら、家に帰らずにどこかに逃げるの。おじさんおばさんだって、邪魔者だった私たちの捜索願なんてきっと出さない。だから、逃げようと思う。どこか、遠くに」
 真由は小川の流れの先を見つめる。亜里沙もその視線を追った。今はそこには、うっそうとした木々があるばかりだ。
 けれどそのもっともっと先には、真由と亜里沙の明日が、ある。
 どこか、遠くに。真由は繰り返した。亜里沙がそれに、答える。
「……お姉ちゃんがいれば、どこへでも」
 真由と亜里沙は歩き出す。しっかりと土を踏みしめて。小川の先に何があるのか、彼女たちは知らない。けれど、だからこそ真由は祈る。森の中の、神様に向かって。
 この先に続く明日が、どうか、良いものでありますように。



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