32 :No.09 明日への咆哮 1/5 ◇We.HF6BFlI:07/06/03 12:30:58 ID:crgj2D09
ふぃぃぃぃぃぃぃ。がりん。ごっ、ごっ。
調子の悪い扇風機が首振りの途中で戻らなくなり、フレームが軋んで嫌な音を出している。
風が来なくなると、咥えた煙草の煙も真っ直ぐ天井へと立ち上るしかない。
ノートPCの光だけが真っ暗な部屋を照らし、その中で朧気に色付く紫煙を、修三はぼんやり眺めていた。
大きく口を開けた窓から温い風がやってきて、彼の視線の先で奴等を霧散させていく。
修三はこれまたガタの来ている椅子を軋ませて、机の上に載せていた足を床に降ろした。
自然と目線は開いた窓に向く。
(こういう時、田舎だと虫や蛙の鳴き声がするもんだが、ね)
諦観にも似た毒を吐きながら、静かな窓辺へと椅子を滑らせる。
椅子の脚が割れたガラス片を踏んで、小気味良い音を立てていく。
修三は割れ残って鋭い牙を剥く窓ガラスに注意しながら、真っ暗な外を覗き見た。
「あはっ。暗い暗い」
目の前に広がる社会という名のコンクリートジャングルは、コンクリートだけを残して形骸と化していた。
電灯やビルの放つネオンサインは消え、車も人も、誰一人動く存在は無い。
人々がこぞって集まり社会の歯車に成り果てるオフィス街は、その活動を一切せず、沈黙のままビル風を創り出すだけだ。
静かな自然の音はしないが、見上げれば都会には似つかわしくない満天の星空が展開している。
「国破れて星空在り、ってか」
皮肉に自嘲しながら、短くなった煙草を外へ吐き捨てる。風が紫の雲を空へと舞い上げて、懐かしの光化学スモッグを彷彿とさせた。
(人様の社会ってのは、良くも悪くも儚くて懐かしいものだよねぇ……)
はは、と笑いながら、修三は独りごちた。その通り――それが彼がここに未だに居る理由でもある。
栄枯盛衰とは分かっていながらも、滅び行く存在だとは分かっていながらも。人間として、社会に与(クミ)する者として――「普段・不断」を貫くことを選ぶ。
意地にも程があるわいな、と修三は再び自嘲した。
「わかってる、わかってんだよ」
口寂しくなって、Yシャツの胸ポケットから取り出したショートホープに火を付けようとした時だった。がたん――と、音が――
33 :No.09 明日への咆哮 2/5 ◇We.HF6BFlI:07/06/03 12:31:28 ID:crgj2D09
「うひゃあああぁ」
「あれ、修さんじゃないっすか。まだ死んでなかったんすか」
部屋の入り口から照らされた懐中電灯の光の中で、修三は椅子を倒しながら奇妙なポーズで固まっていた。
暗がりの中で眩い光を放ってくる人間の姿は見えないが、その軽い口調には聞き覚えがあった。
「……あン? 金子、か」
懐中電灯を消しながら近づいてくる人物――金子鉄郎は、ひっひっ、と小者チックに笑っていた。
「修さん、もういい歳なんすから『うひゃあん』は無いっすよ」
「……るせぇよ」
修三は金子に背を向けて、手にしたままの煙草に火を付けた。ジッポの炎に顔を赤く染めながら、ラフな格好の闖入者に毒突く。
「だいたいお前馴れ馴れしいんだよ、沖田さんって呼べって言ってるだろが」
「いやあ、もう慣れちゃいましたから。無理っす」
何が無理なものか、とは口に出さずに修三は閉口するしかなかった。この若造に言い聞かせて、実を結んだことは一つもなかった気がする。
俗っぽい悩み事に溜息を吐きつつ、倒れた椅子を戻して腰掛ける。
金子は壊れた扇風機を小突きながら、乱雑とした部屋の様子を今更のように眺めていた。
「派手にやりましたよねぇ……編集長」
「まぁ日頃から鬱憤溜まってたんだろうな……」
二人して、この部屋が最後に賑わったあの日を思い出す。
弱小新聞社と蔑まれながら、数少ないニーズのために生きてきた。社会に埋もれている現実に涙したこともあった。
そんな凡て――社会という名の世界を根底からぶち壊した、あの日。
「これは事実であります。全世界、皆様にこれからお伝えする事は嘘、偽りの無いものです」
青い地球がシンボルマークの国連旗を背にした国連事務総長の顔は、悲壮を越えて達観の域へ突入していた。
――地球は滅亡します。
隕石衝突という災厄は不可避である。現存する地球上の全兵器を以てしても、隕石全質量を回避することはできない。
限りなく少ない可能性として、都合良く隕石が細分化されたとしても、それは地球を永久の冬に変えてしまうほどの影響力を有したまま。
どこかの映画であったような報告が淡々とブラウン管から流れてくる。「時間はありません、抽選を行います」
全く以て現実味のない報道は、お昼時の誰一人動けないフロアに淡々と響き渡っていた。
34 :No.09 明日への咆哮 3/5 ◇We.HF6BFlI:07/06/03 12:31:57 ID:crgj2D09
本格的な混乱は六時間後、くらいだった。
日本政府の公式見解が全国放送に乗って行き渡ったあたりから、小さな世界は秩序を失っていった。
住基ネットを利用した抽選が行われ、日本人と日本人としては生き残れない人間が厳選されていく。
国連の公式発表以前から各国が用意していた地下シェルターへの移動が通達され、非日本人と日本人を守る自衛隊との衝突が各地で発生した。
死を確約された同僚達は一度帰宅後、何故かフラフラと皆編集室に集まってきていた。
絶望、悲観、動揺、それぞれの色に各人が染まる中。皆一様に黙ったままの編集長の言葉を待つしか、することがなかった。
「皆、ご苦労。解散だ」
ぽつりと呟いた壮齢の彼は、精悍な顔つきを壮絶に軋ませながら自身の肘掛け椅子を豪快に持ち上げた。そして投げた――
ばしゃぁん、という轟音が大きな窓を粉々にしていく。もう誰一人として悲鳴も上げず、彼が外へ飛び出していくのを見守るしかなかった。
「この二週間、何してました?」
金子の質問に修三は肩をすくめた。紙筒を介して大きく呼吸しながら「普段通りだ」と答えると、彼もまた照れくさそうに笑っていた。
「そんなもんすかね。もう少しだけ生き延びる分の食料を手に入れたりとかぐらいっすよね。ああ、新しいシゲキって」
「たぶんだけど、住宅街とかじゃすでに結構な数が自殺とかしてるんじゃねぇの」
「意外とスーパーとかに食料残ってるし」
死刑宣告後も電気が止まらなかったのは不幸中の幸いだった。と言っても、つい昨日送電されなくなったようだが。
だからここに戻ってきたというのも理由の一つではあった。
ビルの地下に編集長が道楽ついでに設置した自家発電機。緊急時における報道の重要性について熱く語っていた彼はもう飛び去ってしまったが。
指先に熱を感じて、修三は煙草を外に投げ捨てた。もう目で追うことはせず、踵を返して自分のデスクに向かう。
錯乱した社員達の名残を踏みながら、椅子を元の場所に戻す。金子はこちらの様子を見ながら、また卑屈に笑っていた。
「修さん、気にならないんすか。仮にも我々のおまんまですよ」
他人の取材ノートなんざ屁でもねぇ、と答えてやると、金子は待っていたとばかりに裏声で笑い上げた。
「あーもう、だから修さん好きなんすよ。ひぇっへ」
「俺はお前が嫌いだ、うんこ」
「三十、小太りにもなって、うんこはないっすよ。ひゃはがっ、うへへ」
汚く嫌味に笑う後輩は無視して、修三は光を放つノートPCを見やった。省電力で儚く光を放つ画面には編集ソフトの中で形取られた新聞の一面が映っている。
衝突まであと僅か――そう書かれた見出し文に、修三は改めて違和感を感じていた。
35 :No.09 明日への咆哮 4/5 ◇We.HF6BFlI:07/06/03 12:32:25 ID:crgj2D09
何かが違う――足りないのではなく、根本的に何かが間違っている、と。
そこまでは気付いているのだが、答えが出てこなかった。
(俺がここにいる理由、それがそもそもの間違いだってか)
いや、規範となる生き方なぞ疾うに消滅している。社会に生きてきた男が、社会を失って、どう生きよと云うのか。
消え果てた枠組みの残滓にすがって、己の存在を声高に咆哮したいだけなのではないか、と。
結果主義の世界に生きていた人間だから――自分の抱えている矛盾にはいち早く気付いていた。
社会という、評価を下してくれるモデルがあったからこその仕事。しかし今やその存在は死に絶えてしまった。
結果とは明日への道程。日々を生きていくための糧(カテ)。糧を得るために糧を食らい、糧を生み出し糧を捌く。
エンドレスに消耗し生産していく社会――今この状況というのは、疲れ果てた社会が本当は待ち望んでいた「結果」ではないのだろうか、と。
修三はそこまで考えて、莫迦らしくなった。
「くだんねぇか……。意味模索も、詰まるところ下らねぇお遊び、だよな」
お遊びとは言い得て妙か、とにやけていると、不意に金子の声がした。
「修さんはホントに変な人ですよね」「ンだと」
突然の無礼に凄みながら振り向くと、そこには何故か神妙な顔で微笑む部下の顔があった。卑屈さの欠片もない年相応の笑顔に、思わず二の句が継げなくなる。
いつも切れと口喧しく注意している長髪を扇風機になびかせながら、彼は寂しそうに肩を落としていた。
「こんな時でも我を忘れず、たくましく生きる」
一人呟きながら窓辺に歩いていく金子を満天の星空が出迎える。神聖な光を浴びた青年の横顔はそれなりに端正だったのだ、と今更のように修三は思い出していた。
「編集長が死んだときも全然動じてなかったじゃないですか」
口調もどこか丁寧に感じる。突拍子もない変わり身に訝しんでいると、向こうがふっとこちらを見つめてきた。
答えを待っているのか、後輩はこちらを見たまま動かない。根負けした気分で修三はボソボソと口を開いた。
「これからいっぱい人が死ぬんだから、一人や二人ぐらいでガタガタ言ってる暇はねぇよ……」
「ひっでぇ」呵々と笑う金子。しかしまた綺麗な顔に戻ってしまう。「でもまぁ現実的っていうんでしょうね、そういうの」
理解が良すぎる若者の弁に、何故か段々と腹立たしくなってきた。そも腹を立てる道理すらないが、修三には抑えることが出来なかった。
「オイ、手前。何が言いたいん――」
だが、彼は詰め寄ることが出来なかった。
「ぐひん」
ボロボロと大粒の涙をこぼす金子。人目も気にせず、ただ泣き続ける。減らず口をたたき暢気に笑うあの面影は、もはや消えて無くなっていた。
「だめだ、みんな、死んじまう。おれの、すきなひとたち、ぜんぶ、なくなる……」――その言葉に、修三は確信した。
36 :No.09 明日への咆哮 5/5 ◇We.HF6BFlI:07/06/03 12:32:53 ID:crgj2D09
同僚の椅子に座って、温い缶コーヒーをすすった金子はようやく落ち着いてくれた。
「お前、家族は」
デスクに腰掛けた修三の質問に、彼は首を横に振った。「いないっすよ。入社する前から一匹狼の身、でした」
天涯孤独、とは指摘せずに黙って彼の言葉を聞く。口から吐いた紫煙がどこか重く感じた。
「本当にどうしていいのかわからなかった。気付いたら足はここに向かってて、静かな街だなって思って」
扇風機も止めた室内は全くの無音で、言葉の合間に訪れる静寂に、ジジ、と煙草を焦がす音だけが響いた。
「友達は、ここしか居なかったから。期待も出来なかったけど入ったら、修さんがアホみたいに新聞作ってて――ハハ」
笑わない修三に金子は、すいません、と顔を伏せている。二人の沈黙に堪えきれなかったのか、ビル風がようやく騒がしい音を奏で始めた。
(もうそんな時間か……)
煙草を吹かしながら部屋の時計を見やるが、丁度電池が切れているらしく使い物にならなかった。
「急がねぇと、な」「え? 何すか」
金子の質問には答えず、修三は煙草をデスクで揉み消しながらノートPCへと向かった。
すばやく胸ポケットから新しい煙草を取り出し、火も点けずにキーボードを弾きまくる。もの凄い速度で文面が修正されていく。
背後から呆気に取られた様子の後輩が覗き込んでくるのを、彼は見向きもせずに声を荒げた。
「おい、プリンタ動かせ。ギリギリ電源足りるだろ」「えっ」
「早くしろよ! リャンメン設定だ!」「はっ、ハイ!」
ぺっ、と吐き出された一枚の紙を男二人して見つめる。一仕事終えた後の煙草はうまい、と修三は改めて感じていた。
「ほれ、取れよ。朝刊だ」
言われるがままに、のそのそと新聞もどきを手にしている金子。その一面を食い入るように眺める彼に修三は怒鳴り散らした。
「取るもん取ったら、さっさと失せろ! 間に合わなくなるだろうが!」
あわわ、とまるで現場を押さえられた火事場泥棒の体(テイ)で、金子は部屋を飛び出していった。
再び静寂を取り戻した編集室。修三はガラスの小片をざりざりと踏みしめながら、ぽっかりと開いた窓枠に寄り掛かった。
暗かった東の空が薄明かりに満ちている。ジャングルは再び熱を帯びていくのだろう。明日が、始まる――
自転車で走り去っていく青年の姿をぼうっと見つめながら。修三は最後のショートホープを吸い尽くした。
「明日とは、特別なものではないから、誰にも等しく訪れるものだからこそ、大切なのだ。その誰かが生きていようが死んでいようが関係ない」
「時間は経過していくのではない。時間の中に生きていたのだ、人という存在は――」
社会に見捨てられた男の詭弁だがね。 【了】