【 明日への階段 】
◆7YDsBNDQR




37 :No.10 明日への階段 1/5 ◇7YDsBNDQR:07/06/03 16:53:25 ID:crgj2D09
 目が覚めると、見たこのない白い天井が視界に飛び込んできた。視線だけを左右に動かすと、どうやら
ボクがいるのはどこかの病院の一室のようだった。
 何で自分が病院のベッドで寝ているのか、天井を見つめながらしばらく考えてみるけど、思い当たる節
は何もなかった。
 唐突に部屋の扉が開き、白衣を着た眼鏡の男性――多分お医者さんだろう――が入ってきて、ベッドの
横に置いてあった丸イスに腰を下ろした。
「おはようございます平田さん。ご機嫌はいかがですか?」
 平田……ボクの名前だ。ボクの名前は平田武だ。
「あ、はい……おはようございます」
 さっそくですが、と眼鏡の医者は切り出して、ボクについて信じられないことを説明しだした。
「寝ると、記憶がなくなる?」
「そうです。普通、人は寝ている間に記憶の整理をしているんですが、平田さんの場合は事故の影響のせ
いか、寝ている間にその日経験したことを全て忘れてしまうんです」
 事故。医者の話によると、ボクは家族で車に乗っている時に交通事故に遭いこの病院に搬送されてきた
らしい。両親は事故の際にほぼ即死の状態。ボクはなんとか存命することができたけれど、今言った後遺
症が残ってしまったらしい。
 医者の話を聞いていても、ボクはそれが現実だとは到底信じられなかった。そんなボクの心情を悟った
のか、医者は傍の台に置かれていたノートを指差した。
「あなたがこれまで書いてきた日記です。あれを読めば、私の言っていることが事実だとわかると思います」
 その後、いくつかボクの身体の状態について説明をした後、医者は部屋を出て行った。
 ボクはさっそく医者の言った『日記』を読んでみることにした。

6月3日(月曜日) 天気:晴れ
 ――朝起きると、知らない病院のベッドに寝ていた。すぐに医者が入ってきて、僕の『症状』について
説明をしてくれた。昼に医者がもう一度やってきて、「日記を書きなさい」と言ってこのノートを渡してきた。
 僕が今書いているこの日記は、『明日の僕』がすぐに事情を理解できるように書いておいたほうがいいらしい。
 しかし、『明日の僕』っていうのは何だか変な感じだな。まるで『今の僕』とは全くの別人みたいだ。
多分、『数日後の僕』や『数週間後の僕』も同じ気持ちでこの日記を読むだろうし、同じように日記を書
いていくんだろうな。
 なんだか恐い。まるで、その日一日で『僕』は死んでしまうみたいだ――

38 :No.10 明日への階段 2/5 ◇7YDsBNDQR:07/06/03 16:53:50 ID:crgj2D09
 日記は、間違いなくボクの字で記されていた。信じられないけど、ボクが記憶を失うというのは本当ら
しい。けれど、もっと驚いたことは、この日記が、一日や二日ではなく、この一冊に何週間分も書かれて
いたことだった。

7月5日(金曜日) 天気:晴れ時々くもり
 ――昼ごはんを食べた後、僕は中庭に足を運んでみた。そこで僕は、車椅子に乗った一人の女の子と出会った。
 女の子の年は十四で、僕より二つ下だった。まだ幼さの残る明るい声がとても可愛らしかった。名前は
佐藤智香ちゃん。笑顔が凄く素敵で、僕は頬が赤くなるのを隠すので必死だった――

 その日記を境に、頻繁にこの「佐藤智香」が日記に登場するようになった。日記を読んでいる限り、『過
去の僕』は、この「佐藤智香」に好意を持っているようだった。不思議な感覚だ。ボクの知らない女の子
に『僕』は好意を持っている。

7月15日(月曜日) 天気:晴れ
 朝起きると、車椅子に乗った知らない女の子が部屋に突然入ってきた。女の子は佐藤智香ちゃんと言う
らしく、僕が記憶を失ってしまう体質だということを説明してくれた。
 記憶にはないけれど、僕と智香ちゃんは病院内で知り合った友達同士らしい――

 その後も、『僕』と智香ちゃんとの楽しそうな毎日が日記には綴られていた。
 まるで小説を読んでいる気分で日記を読み進めていると、病室の扉が二回、申し訳なさそうにノックされた。
「……どうぞ」
 躊躇いながら返事をすると、ドアがゆっくりと開き、車椅子に乗った少女が顔を覗かせた。
 肩にかかる長さの綺麗な黒髪。小さな顔に小柄な体。少し遠慮がちな表情はとても可愛らしかった。ボ
クはすぐにピンときた。この子が、日記にある佐藤智香ちゃんなんだろう。
「佐藤……智香ちゃん、だよね?」
「あ、はい。そうです。おはよう、武さん」
 智香ちゃんはゆっくりとベッドの傍に寄ってきた。近くで改めて見ると、智香ちゃんは凄く可愛かった。
『過去の僕』が好きになったのも頷ける。
「今、ちょうど君と出会った頃の日記を読んでたんだ」
 そう言って、僕は智香ちゃんに日記を見せた。

39 :No.10 明日への階段 3/5 ◇7YDsBNDQR:07/06/03 16:54:16 ID:crgj2D09
「あ、じゃあ別に記憶のこととかは説明しなくても大丈夫?」
「うん。医者の人から説明は聞かされたから。ただ、まだちょっと違和感というか、変な感覚はするけど」
「そのうち慣れるよ。ねぇ、今日はこれを持ってきたの。一緒にやろ?」
 そう言って智香ちゃんが取り出したのは、たくさんの折り紙だった。
「武さんは、鶴折れる?」
「鶴? うーん、どうだろう。あれって結構複雑じゃなかったかな」
「覚えたらそんなに難しくないよ。私が教えてあげるね。ほら、一枚取って」
 智香ちゃんに言われるままに、ボクは折り紙を折り始めた。

 二時間ほど、ボクと彼女は折り紙を折り続けた。折り紙を折りながらも、僕達は色んなことを話した。
彼女の家庭のこととかも聞いたし、将来の夢とかも。智香ちゃんは学校の先生になるのが夢らしい。
「ごめん、そろそろ私、足のリハビリ行かないとだめだから」
 時計の短針が十二時を少し過ぎた頃、智香ちゃんが突然そう言って折り紙を折る手をとめた。
「うん、いいよ。ボクはこの熊が折れるようになるまでがんばってるから」
「そう、じゃあがんばってね」
 智香ちゃんを見送ると、ボクはベッドに散った折り紙に目をやった。折り紙を作っている時、何度か指
が彼女の指に触れたのを思い出し、ボクは心臓が高鳴るのを感じた。
 ちょっとその風に吹かれてこよう。
 ボクはベッドから降りて、中庭に向かうことにした。

 中庭は結構広々としていて、病院の壁に囲まれているのが気にならないくらいだった。見上げれば蒼い
空にぽつんぽつんと雲が浮かんでいて、そこから爽やかな風が吹き降ろしてくる。
 ボクは近くにあったベンチに座って中庭の様子を見回して一息ついた。中庭を歩く老人や看護婦さん達
の姿を適当に眺めながら、だいたい三十分くらい、ボクはその場でのんびりと時を過ごしていた。
 ちょっと体が冷えてきたかな。そろそろ部屋に戻ろう。
 ベンチから立ち上がると、突然立ちくらみが襲ってきた。視界が白濁し、頭の中がぐるりと回転したよ
うな感覚がして、足がふらつきボクは思わずその場に膝をついてしまった。
「大丈夫?」
 優しく声を掛けてきたのは、一人のおばあさんだった。パジャマじゃないから入院患者じゃないんだろ
う。首に巻いたスカーフがよく似合っていた。

40 :No.10 明日への階段 4/5 ◇7YDsBNDQR:07/06/03 16:54:43 ID:crgj2D09
「すみません。ちょっと立ちくらみがして」
 差し伸べられた手を掴んで、ボクはゆっくりと立ち上がった。おばあさんの手は柔らかくてあったかい、
優しい手だった。
「入院してる人は、あんまり無理しちゃだめよ」
「はぁ、すみません」
 おばあさんは笑顔で頷くと、そのまま中庭から出て行った。ボクもその後を追うようにして中庭を出て行った。

 夜、その日一日の日記を書き終えたボクは、ベッドに横になった。眠ればボクはいなくなる。変わりに
明日、新しい僕が生まれる。眠らなければ、記憶を失うこともないんだろうけど、どうやらそれば無理み
たいだ。さっきから眠気が酷い。とてもじゃないけど、徹夜なんて出来そうになかった。

 明るい……。
 眩しくて、ボクは目を開けた。
 目の前に一人のおばあさんが立っていた。誰だろう。見たことがあるような気がするけど、思い出せな
い。しかし、なんだかうるさいな。よく見ると、白い服を着た医者みたいな人が周りを走り回っている。
 けれど、いつしかそんな騒がしい音は、ボクの耳に届かなくなっていた。
 ボクの視線の先にいるのはおばあちゃんだけだった。首に巻いたスカーフがとっても良く似合ったおば
あちゃん。
「…………」
 無意識だったんだろうか。ボクの口から言葉が漏れた。なんて言ったのかは、ボク自身にも分からなか
った。目の前のおばあちゃんも聞き取れなかったみたいで、耳をボクの口元に近づけてきた。
 ボクはもう一度、出来る限りの力を振り絞って、彼女の名前を呼んだ。
「智香……」
 チカ。どういう意味なのか分からないけど、その言葉を聞いておばあちゃんの瞳から大量の涙が溢れ出
た。おばあちゃんがボクの体に抱きつき、嗚咽を洩らしながら何かを言っていたが、もはやボクにはそれ
を聞き取る力もなかった。

 主人の平田武が亡くなって、私は彼の遺品の整理をしていた。十六歳の時から五十年以上書き続けた日
記の冊数は、三百冊を超えていた。そのほとんどは私の家に隠してあって、実際に彼の病室にあったのは
最初の五、六冊だけだったけど。

41 :No.10 明日への階段 5/5 ◇7YDsBNDQR:07/06/03 16:55:06 ID:crgj2D09
 私、佐藤智香がその日記に登場したのは、その日記の一番はじめの一冊。1974年7月5日の日記だった。
その日から毎日、私と彼は同じ時を過ごしてきた。たくさん話をして、笑い合って、時にはケンカもした。
けれど、彼はどんな経験も明日へ持っていくことは出来なかった。最初の頃はそれでもよかった。私が日
記を見せながら、これまで何があったのかを伝えてあげる。それで、私と彼は同じ思い出を共有し合うこ
とができた。
 けれど、思い出――日記の量は時が過ぎるにつれどんどん増えていく。私は、彼と共有する思い出を取
捨選択しなければならなくなっていった。彼と全ての思い出を共有することは、決してできない。
 けれど、それでも私は彼の元に通い続けた。それでもいい。思い出を共有できなくてもいい。彼と一緒
にいられるだけでいい。そう思った。しかし、それすらも裏切られる日が来てしまった。歳を取った私を、
彼は日記の中の『佐藤智香』だと認識できなくなってしまったのだ。私という「佐藤智香」と、彼が日記
から得る『佐藤智香』との間に、どうしようもない断絶が生まれてしまったのだ。
 私は絶望し、そして彼をただ見守るだけの存在になってしまった。
 そんな時、彼のいる病院に一人の少女が入院してきた。足を怪我して車椅子に乗る少女。若かった頃の、
日記の中の私に似た女の子。私は彼女に事情を説明して、彼と会話してあげてくれないかと頼んでみた。
女の子は宮田静といい、私の申し出を快く承諾してくれた。
 宮田静と話す夫の姿は、昔、私達が出会った頃の彼に戻っていた。
 六十を過ぎ痴呆も始まっていたせいもあってか、彼は本当に自分が、十六歳の恋する少年であるかのよ
うに『彼女』と会話をしていた。
 彼の心が未来へ進むことはもう決してなく、私は彼と共に未来へと進むことは決してできない。
 そう考えていた。そう思い込んでいた。
 けれど、それは間違いだった。彼は最期の時、私の名前を呼んでくれたのだ。日記の中の『佐藤智香』
ではなく、今のこの「佐藤智香」に。
 あの瞬間。とっても短い一瞬だったけれど、私達は共に未来へと、明日への階段を上ることができたの
だと思う。

おわり



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