【 サヨナラアカネ色 】
◆vkc4xj2v7k




13 :No.04 サヨナラアカネ色 1/5 ◇vkc4xj2v7k:07/06/02 21:12:40 ID:g9Ku8zyN
オレンジ色の夕日が空疎なオフィスの哀愁を一層に強めている。茜に染まるその部屋で、シホは窓から自分と同
じ色をした街を見下ろしていた。彼女は送別会に出席するべきなのだが、未練がましく窓辺の夕日をまだ見ている。
 シホが作ったこの会社も明日で他の人間の手に渡る。彼女が大学を卒業するのと同時に設立したこの会社。従業
員はシホと同様にみんなが若かった。努力の甲斐あって、ITベンチャーとして名を馳せることに成功し、成長期
待企業としても雑誌でちょくちょく取り上げられもしていた。しかし、それが仇になったのだろう。大手物産会社
のヴィクトリア・インダストリーアンドフィジカルズが、新たにソフト部門を立ち上げることになり、シホの会社
はその土台となるべく買収合併された。資産が少なくそれでいて成長株、この会社はテコ入れを行うには絶好の物
件だった。
 シホはこの会社ともオフィスとも別れるのが惜しかった。彼女が次に訪れるオフィスはここではなく、ヴィクト
リア社の新設オフィスである。手腕が買われ、継続して部長として働くことが決まっている。彼女はこういった事
実を受け入れているとはいえ、何かやりきない思いを残していた。
シホは時計に目を向ける。送別会の開始時間から30分がたっていた。行かなくてはならないと思ったけれども、
せめてあの夕日が完全に沈んでしまうまではここに残っていたかった。茜色の空が街を染め上げる。染めるとい
うよりも、絵の具で溶いた水を街に流し込んだようだった。完全なオレンジではなく、まばらに広がっている影
が夕焼けの街をいっそう美しく見せた。
 シホは覚悟を決めて、オフィスを後にしようと決めた。オフィスを後にしたのなら、自分は自分でなくなってし
まうような気がしたけれど、そうせざるを得なかった。未練だけをここに置いていこうとシホは決めた。シホがデ
スクの上に置いたバッグを手に取ろうとしたとき、入口のドアが開いた。従業員の荻だった。荻はシホに一瞥して、
安堵のため息をもらす。
「社長、探しましたよ。みんな居酒屋で待ってますよ。メインが来ないでどうすんですか」
「荻君、ひょっとして私のこと探してたの?ごめんごめん、かってにやってくれればよかったのに」
 そりゃもう好き勝手にやられてますよと彼は言ってシホの横を通り過ぎ、街を一望できる窓に近づいた。
「あぁ、もう夕日沈んじゃいますね。僕、高所恐怖症だからあんまり外見ないようにしてたんですけどね、最後く
らいもっと堪能したかったなぁ、社長のお気に入りでしたもんね。ここの夕焼け」
 荻は決してまともに下を覗こうとはしなかった。思い出したように、暗がりに電気を灯そうと部屋のはしっこへ
小走りした。シホは荻が電気をつけて帰ってくるのを待った。
「好きなのよ、夕やけの空が。神秘的でしょう。太陽が夕方になると私たちを鼓舞してるみたいに応援してくれる
のよ。昼間は私たちの生活を助けて、夕方の太陽は私たちの心を助けてくれてるのよ」
荻は軽く相槌をついた。彼女の言うような見解があってもいいと荻は思う。彼はもう一度夕日を拝みたくなり、
窓辺に近寄ったがすでに太陽は沈みかけ、完全に夕闇が世界を覆っていた。荻はぞっとした。太陽の光はいつの

14 :No.04 サヨナラアカネ色 2/5 ◇vkc4xj2v7k:07/06/02 21:12:58 ID:g9Ku8zyN
間にか消え去り、ネオンや蛍光灯だけが街を照らしている。ひょっとしたら、荻がこなければシホは死んでしま
っていたのではないかと錯覚した。シホが街に身を投げ出し、街に吸い込まれていってしまうのではないかと思っ
た。
 荻は街を凝視し、視線をそらさないままシホに背を向けて言った。
「逢魔ヶ時って言葉ご存知ですよね」
「おうまがとき?お馬さんかしら?トキかしら?お馬さんにトキの羽根が生えていても頼りないわね。でも、ペガ
サスってかわいらしいわ、そういうお馬さんなら大歓迎よ」
 荻は振り返って片手を顔に当てて、少し笑った。彼はシホの拍子ぬけしたこたえに自分の考えなんてやはり杞憂
にしか過ぎないとわかった。荻はシホの強さを知っていた。どんな時も負けなかった、女とか男とか、そういった
垣根を乗り越えながら従業員を引っ張って会社を大きくしていった。会社を奪われたくらいで、彼女が死ぬもんか。
そうに違いないと荻は思った。
「逢魔ヶ時って、夕暮れ時には魔が潜むってことよね。事故が多いのはそのせいだって。荻君は、私に魔がさしち
ゃうとおもったのかしら?」
「なんだ、わかってるじゃないですか。冗談言わないで下さいよ」
「魔が差したりなんてしないわ。私、死ねないのよ。絶対に死なないもの。でも、不老不死とかそんなんじゃない
のよ」
 彼女は荻におかしな勘違いをされては困るといった表情を見せたり、顔の前で手を大きく振ってみせた。しかし、
荻は最初から彼女が不老不死だなんて思うわけもなかった。大学からの長い付き合いから、シホが少々おかしなこ
とを言ったりするのじゃ承知している。シホはあたふたしながらも続けた。
「確かに、公開買い付けをされて、どうしようもなくなったときはさすがにね。少し死んでもいいかなって思っか
な」
 荻はその時の彼女を思い起こした。気丈に振る舞っていたが、透き通るように彼女の影が見えていたことを荻は
鮮明に覚えている。シホは気丈に振る舞いつつも、どこか空回りしていてやること全てに集中しきれてない様子だ
った。従業員たち全員でどうやって励ますかを思案し、飲みに誘ったり、休日に社員で連れ立って遊びにでかけた
りもした。
「でも、私死んだら、みんな悲しいじゃない。私、みんなから愛されてるってわかってたもん。買収合併が決まっ
た時だって、みんな心配してくれてたじゃない。ううん、あのときだけじゃないね、今だってそうだし。ずっとそ
うだったね。仲間だもんね」
「そうですよ、僕たち仲間ですよ。買収合併されてもスタッフも残るわけだし。なにより社長がソフト開発部の部
長です。きっと変わらないです」

15 :No.04 サヨナラアカネ色 3/5 ◇vkc4xj2v7k:07/06/02 21:13:18 ID:g9Ku8zyN
シホを元気付けようとして言った台詞だったが荻は虚しくなった。荻は開発部の誘いを断って、別のソフト会社
に移転することを決めていた。シホも当然このことを知っていた。自分で言っていて、本当に説得力の欠ける言葉
だと荻は思った。
「変わらないことなんて無いわ。荻君だって、変わってしまうと思ったから、開発部の誘いを断ったんじゃない
の。」
「そうですね、すんません。いい加減なこと言いました」
 シホはデスクの上に腰を下し、再びバッグを置いた。
「ううん、いいのよ」
「でも、僕は、変わらないモノはあると思いますよ。僕は変わらないモノがあると思ったから開発部のお誘いお断
りしたんです。社長に追いつきたいと思ったんです。社長の理想とか方針、すんごく好きでした。でっかいビジョ
ン持って、それに負けない行動力持ってて、ハードルを全部乗り越えていく、かっこよかったです。僕はまだまだ
ですけど、これを期に社長を超えてやろうと思いました」
 シホは上下にかぶりを振ってうなずくだけだった。
「そうね、追いついてきてよ。君なら私のことすぐに追い抜いちゃうよ。私、これ以上進めないかもしれないもの。
特にヴィクトリアは保守的な経営だからね。おもしろいことはもうやれないと思うんだ」
 荻が開発部への誘いを断ったのも、シホの行動力が制限され、面白い仕事はきっとできなくなったと思ったから
だ。
「荻君、私、きみのことがとっても羨ましい」
 荻は動揺した、あの社長が僕のことを羨ましがるなんてとんでもないと思った。荻こそ、社長の才能、人脈、人
柄すべてに嫉妬していた。女でありながら、人の頂点に立ち続けた。男尊女卑がいやしくも残り続けるこの社会で
戦い抜いたシホの姿に憧れを抱いていた。そのシホに羨ましいといわれると、かしこまる他ない。
「荻君、君には可能性がある。私はなんていうかもう先に進めないかもしれない。怖いんだよね、同じ失敗を繰り
返して沈んでいってしまうかもしれない。これ以上沈んだら、もう太陽は見えないよ。本当はね、今でも見えてい
ないんだと思う。夕日の赤を見たって何も感じないんだ。昔は励ましてくれてたと思ったんだけどね、今はただ真
っ赤なだけ。もう私だめなんだ」
 彼の可能性なんて彼女の可能性比べたら、微々たるものだろう。彼女が行動さえすれば可能性なんて無限大だろ
う、そう荻は思った、希望輝く光の中で突如、絶望をつきつけられると、こうも見えなくなってしまうものが多い
のだろうか。どれだけ社会に冷やかに扱われ、一生懸命にあらがいながら生き続けた彼女をこうも弱くしてしまう
ものなのか。荻は彼女にかける慰めの言葉なんて持っていなかった、荻は本当の意味での挫折は味わったことがな
い。

16 :No.04 サヨナラアカネ色 4/5 ◇vkc4xj2v7k:07/06/02 21:13:34 ID:g9Ku8zyN
「すいません、社長、僕、本当になんて言っていいかわからないんですけど。あれはどうしようもなかったです。
社長も悪くないし、きっと僕らも悪くないし。ヴィクトリアだって悪意あってやったもんじゃない。証拠に、うち
のスタッフ全員をそのまま開発部に誘ってくれたじゃないですか。誰も悪くないんですよ。失敗なんかじゃなかっ
た、どうしようもなかったんです」
 うんうんと頷くと、天井を見上げた。
「荻君、私、今から泣くから。部屋出てって。先に居酒屋行ってて、五分したら必ず行くから」
「わかりました、先行ってますね」
 荻は、とりあえず部屋を出ることにした。
 シホが泣く姿は誰も見たことがない。けれど、彼女が繊細でやさしいことは誰もが知っていた。彼女が泣くとき
は必ず、従業員にオフィスの外に出るように言うからだ。従業員の中では、作業効率が下がるだなんてシホに揶揄
したりするモノもいた。シホは悪意のない言葉で、仲間だから言える冗談だということをよく理解していたから、
その言葉に微笑んで返していた。
 シホは大声で泣きじゃくった。悲しいわけじゃない、悔しいわけじゃない。自分の会社を奪われた。生涯を通し
て育てあげると誓った自分の子供のような宝物を奪われた。このことは受け入れたはずだった、全てを受け入れた
はずだった。しかし泣いてしまっている。
荻は誰も悪くないと言っていた、その言葉を聞いてシホは泣きたくなった。けれども、シホは自分が泣いている
理由がわからなかった。悲しい

 荻が送別会の会場に入る。会場とは言っても、いつもの飲み会をする居酒屋だった。荻が従業員たちの待つ部屋
の戸をあける。みんなが荻の方をいっせいに見たので、荻は一瞬体が硬直した。
「社長はどーしたんだよ」
「お前だけかよ」
「見つからなかったとか言うなよ」
 一斉に言葉が飛び交ってきたが、荻は座ったままの従業員たちを見おろし、両手を振ってまぁまぁと落ち着かせ
ようとする。
「社長、泣きモード入ってしまったんで、少し遅れます」
 みんな納得したのか、ウェイターを読んで追加の注文をし始めた。送別会が始まって1時間。主賓を迎えないま
ま、すっかりみんなはできあがりつつある。荻もビールを頼みつつ、つまむものを探す。
 従業員からは、社長の様子をひつこく聞かれた。彼女は前に進めない自分に絶望している。荻は従業員たちにこ
んな抽象的な説明をするのが恥ずかしかったから、わからないとごまかした。

17 :No.04 サヨナラアカネ色 5/5 ◇vkc4xj2v7k:07/06/02 21:13:49 ID:g9Ku8zyN
 突然だった。部屋の会場の入口が開いた。そこに立っていたのはシホだった。顔をくしゃくしゃにして、涙を
ぼろぼろ流していた。
「ごめん、ほんとうに、ぜんぜん泣きやめなかった」
 シホがそう言ったのを辛うじて従業員たちは聞きとることができた。それよりも、泣き顔を初めて見て大笑いし
ていた。社長、そんな子供みたいな泣き方しないでくださいよ。誰かが言った。もっともだった。その言葉を聞く
と、シホは笑って答えようとしたが、余計にその顔をおかしくした。従業員たちはさらに大笑いをした。
「みんなに聞きたいの。真剣に答えてほしいの」
 従業員たちの顔がいっせいにシホの方を向いた。
「私、悪くないのかな、誰も悪くないのかな」
 従業員たちは大笑いした。シホにとって最高の答えだった。シホは希望を取り戻した自分に安堵し、さらに大声
で泣いた。明日の夕日はもっと奇麗に映るかもしれないという希望を目の前にして泣いた。

以上で終わりです



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