【 幽霊 】
◆lxU5zXAveU




74 :No.18 幽霊 1/3 ◇lxU5zXAveU:07/05/27 23:43:14 ID:xMt+xUox
 あまりに暑い梅雨前の日曜日だった。
 古本屋の帰り道、道路からの照り返しに耐えかねて喫茶店に入った。地元で幽霊喫茶と
呼ばれている店だ。ドアベルが鳴る。ギンガムチェックの座布団に腰を下ろすと、やたら
に髪が黒くて顔色の白いカップルと目が合った。他には客もなく、流行っている様子はな
い。それも納得できるような気がした。店構えは新しそうだったが、なんというか昭和の
気配があちこちから匂ってくるのだ。
 壁にかけられたサイン入り色紙がガッツ石松だったり、ダイヤル式の黒電話がレジ横に
ある。鮭を咥えた木彫りの熊が、片目のダルマの横で睨みをきかせていた。よほど大事に
使ってきたのか、どれも磨きあげられている。ガラス張りの冷蔵庫にはリボンナポリンが
入っていた。
 適当に席に座り、メニューを見た。アイスコーヒーとオレンジジュースと、ナポリタン
とサンドイッチ。アイスコーヒーだけにしておこう。のれんを分けて、エプロンをかけた
若奥様風の女が出てきた。綺麗に切りそろえられた前髪が、眉毛の上でカールしている。
女は氷水を置いて、注文を聞くと奥に戻った。
 ドアベルが鳴って、入り口を見ると日焼けした子供が入ってきた。
 子供はTシャツと短パン姿で、口に正方形のウエハースチョコを咥えていた。手には小
さな束を持っている。子供は暖簾をくぐって、当たり前のように氷水を持って出てきた。
店の隅のテーブルで、戦利品のシールを並べだす。分類をしたり、名前を呟きながら恐ら
く強い順に入れ替えたりしていた。ビックリマンチョコなんて今どきあるんだろうか。む
かし、友達と交換したり持ち歩いていたことを思い出した。よくウエハースを残して母親
に怒られた。
 店の奥から女が子供を呼んだ。マサオ、という名前だった。子供は並べ終わっていない
シールを掴んだまま、立ち上がった。
 それから本を読んだ。抜き出した愛用の栞をテーブルに置いて、ページを繰る。本の中
で、主人公が女と出合って、別れ話が持ち上がっていた。私と事件とどっちが大事なの。
結局女も連続殺人犯に殺された。
 コーヒーはまだ来なかった。コップの氷が割れて、綺麗な音がした。
 氷が溶けた水を飲みながら、暖簾の向こうから音が聞こえないかと耳を澄ませている
と、ドアベルがまた鳴った。


75 :No.18 幽霊 2/3 ◇lxU5zXAveU:07/05/27 23:43:33 ID:xMt+xUox
 今度は大柄な男が入ってきた。日焼けした顔で店内を見回して、ポケットをまさぐる。
男は店の片隅に向かう。子供がシールを並べていたテーブルだった。歩み寄って呟いた。
「……特別なやつには、ホログラムが入っている。知ってるか?」
 顔をあげて様子を伺うと、男が振り返っていた。
「あんたのことは覚えている。夏の日で、俺は母親からもらった金で新しいチョコを買っ
た。夕方には友達と会うはずだった。店の奥で母親はゼリーを用意してくれていて、隣に
は客に出すアイスコーヒーがあった。そうだ。俺は、チョコを交換し損ねた」
 ひとり言が続いた。危ない奴だな、とは思ったが、何故か危険な感じがしなかった。
 ごく自然に「久しぶりだな」と思い、そう思ったことを不思議に思った。
 男はテーブルを見て、微笑んだ。「まだコーヒーは飲んでなかったか」
 歩き出して暖簾をくぐる。「ただいま、母さん」
 暖簾の向こうは静かだった。
 男の言動の不可解さに集中をそがれて、本の続きは読めなかった。栞を挟もうとした
が、落ちてしまったのかテーブルのうえにはなかった。テーブルの下に屈みこむと、暖簾
のむこうから、こちらに歩いてくるサンダル履きの足が見えた。
 白髪頭の小さな老婆が、盆にはアイスコーヒーを乗せて立っていた。老婆は微笑みなが
ら、アイスコーヒーをテーブルに置いた。眉毛の上で、綺麗にカールした白髪が揺れた。
「音に気がつかなくてごめんなさいね。息子が注文を取ったそうだけど、アイスコーヒー
でよかったのよね」
 老婆はグラスを置いて、しばらくその場を離れずに微笑んでいた。
「息子がいった通りだわ。貴方のようなお客さんが、むかし来たの。お水だけ飲んで帰っ
てしまったようで、ずっと気になっていたのよ。ちょっと待っててくれる?」
 老婆と入れ替わりに男が暖簾をくぐってきて、向かいのテーブルにあったシールを集め
だした。大事そうに一つにまとめて、表をこちらに見せて笑う。
「これだけはオヤジに売り飛ばさないで残したんだ。あんた、さっきオヤジの店で古本買
ってったろ」
 白い歯とホログラムのシールが薄暗い店内で光る。もう絵柄なんて覚えていないが、き
っと、やはり、ビックリマンチョコなのだろう。


76 :No.18 幽霊 3/3 ◇lxU5zXAveU:07/05/27 23:44:26 ID:xMt+xUox
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 男が言った。
「喫茶店を開くのがお袋の夢だったんだ。銀行で必死に働いて貯めた金で店を開いたんだ
けど、客がこなくてな。でも、ある日、この店に幽霊が現れたんだ。アイスコーヒーを頼
んだ男は、客の目の前で消えちまった。それから噂を聞いた客が訪れるようになって、こ
の店は細々とだが続いたんだ。俺とオヤジは掛けをしたんだ。本当に幽霊なのか、そうじ
ゃないのかって。オヤジは幽霊説を信じて、喜んで客に広めてた。でも俺には勝てる確信
があった」
 老婆が戻ってきた。折りたたんだレース編みを開いて、リボンのついた金属片を取り出
した。テーブルの下に落ちたはずの栞がそこにあった。
「そのお客様がね、これを忘れていったの。息子は、そのお客様はきっとまた戻るって」
 氷のほとんど解けたグラスから水が滴り落ちて、テーブルにおかれたレースに染み込ん
でいく。それは錫でできていて、アメリカバージニア州の花が象られている。貧乏だった
学生の頃に買った旅行土産だ。ハナミズキの栞。
 手に取ると、今にも消えそうな体温が指先に伝わった。
「……お帰り、幽霊さん」
 男が笑う。不思議そうな顔をしていた老婆も、微笑んで、新しく入ってきた客に向かって歩いていった。
 店内を、木彫りの熊と、目を取り戻したダルマが見下ろしていた。


【了】 



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