【 ひかりのこえ 】
◆2LnoVeLzqY




65 :No.16 ひかりのこえ 1/5 ◇2LnoVeLzqY:07/05/27 23:31:43 ID:xMt+xUox
 天才学者、西崎博士が物理学の世界に現れたのは少し前のことだ。
 アインシュタインっていう、真面目な写真にも舌をべろっと出して写るような、馬鹿と天才は紙一重っていう言葉を体現していた物理学者が死んで分解されてそれこそ原子になってから、およそ七十年が経っていた。
 西崎博士は物理学の常識という常識を一変させた。いや正確には、常識は変えていない。常識の範囲内で不可能だと思われていた様々なことを、彼女の頭脳が可能にしてしまったのだった。
 けれど僕がこのことを知ったのは、最近になってからだ。西崎博士は当時、メディアに一切登場しなかったから。

 ところで、今でもはっきりと覚えている日が僕にはふたつある。
 ひとつは僕が沙織と付き合い始めた日。
 僕と沙織は高校二年生で、夏だった。一億五千万キロ彼方にある太陽が、じりじりと地球を焦がしている、そんな日だった。
 体育館裏の僕たちを、冷やかしていたのか祝福していたのか、セミがうるさく鳴いていた。
 もうひとつ、僕がはっきりと覚えている日がある。
 それは、沙織が僕の元を去った日。
 ちょうど付き合い始めてから一年が経っていた、夏の日だった。一億五千万キロ彼方にある太陽が、たかが地上から二千メートルしか離れていない雲に覆い隠されてしまっていた、そんな日だった。
 地上には太陽光ではなく雨が降っていた。
「転校って……冗談だろ」
 朝のSHRで、先生が沙織の突然の転校を告げた途端に僕は思わずそう呟いていた。
 だって受験生なのに。親は何を考えているんだろうと思った。家庭の事情がどうあれ娘のことを第一に考えるべきなんじゃないだろうか。そう勝手に考えていた。
 それに。
 沙織は僕に、そんなことを少しも言っていなかったのだ。
 同じ大学に行くって言っていた。一緒に勉強もしていた。沙織は数学と物理がすごく得意でよく教えてもらっていた。英語でも負けていたし、僕が沙織に教えられることは古文ぐらいのものだった。
 今考えたら、勉強で負けていたのなんて、当たり前のことなのに。
 あの頃の僕は知らなさすぎた。いろんなことを。沙織のことを。世の中のことを。
 僕が知っている沙織は、甘いものが大好きで怖いものが嫌いで、早起きが苦手で夜に星を見上げるのが好きで、髪が痛むからっていう理由で髪は染めずにいて、
 キスするたびに肩がびくって震えて僕の左手を彼女の右手でぎゅっと掴むような、そんな女の子だったのだ。それが僕の知っていた沙織のすべてで、一年間のすべてだった。
 沙織が学校を去って、僕の元を去って、しばらくたったある日のことだ。
 僕のところに、短いメールが届いた。
「直くん、ごめんなさい。私は、今日から、宇宙に行きます」

 いわゆるタイムマシンみたいなものが実現可能だということは、七十年前、アインシュタインの時代から知られていた。彼の理論のひとつが、そのことを証明していたのだから。
 厳密には、それはタイムマシンとは違う。過去には戻れないし未来にも行けない。ただし、時間の流れを、遅くすることはできる。
 光の速度は普遍、という原理を用いて。

66 :No.16 ひかりのこえ 2/5 ◇2LnoVeLzqY:07/05/27 23:31:59 ID:xMt+xUox
 たとえば同年齢の二人の人間がいるとする。片方はそのまま生活、片方は、限りなく光速に近い空間内で生活させる。
 そして三十年後、そのまま生活した方は三十年ぶん歳をとってる。けれど、もう片方は、たとえば五年ぶんしか歳をとっていない。そんなことが、現実に起こり得る。
 その「起こり得る」を「起こる」に変えてしまったのが、西崎博士だった。
 西崎沙織だった。
 僕の彼女の、沙織だった。
 彼女が開発したのは、限りなく光速に近い速度で宇宙空間を航行する装置。それを搭載した空間。いわゆる宇宙船。
 その中では、たとえば地球の六十年が十年でしかない。逆にいえば、その船内で五十年が経過したとき、地球では三百年が経過している。
 西崎博士は、佐織は、その宇宙船を「光の棺桶」と名づけたという。地球から離れ宇宙を光速に近い速度で飛ぶ、限りなく孤独な棺桶。
 その棺桶に最初に入ったのは、誰か。
 皮肉にもそれは、開発者、西崎沙織その人なのだった。
 だから今、彼女は宇宙にいる。たった一人で、光速で宇宙を駆ける、孤独な棺桶の中にいる。
 その中では、地球のものとは違う時間が流れている。

 大学で物理を必死になって学んで、どうにかこうにか宇宙にいる彼女、西崎博士をリーダーとするプロジェクトの一環に参加することができたとき、僕は二十三歳になっていた。
 けれどこれでも、相当に早いほうなのだ。周りからはそう言われた。君には物理の素質があるのかもしれないな、と。
 けれど他の人よりも少しだけ、彼女を知る僕にとって、それは慰めにすらならなかった。
 彼女が僕の元を去ってから、宇宙へ飛び立ってしまってから、五年が経っていた。
 五年。
 それは、長い時間だ。人の気持ちを変えるくらいには。
 けれどそれだけの時間を掛けてこのプロジェクトの、末端の末端にでも触れたことには意味があった。
 彼女が「光の棺桶」の中にいる意味を、知ることができたから。
 よくよく考えたら簡単なことだったのだ。
「光の棺桶」の中にいる人間は、地球から見れば長生きしている。時間の流れは六倍違うそうだ。
 そこで考え方を変えれば目的が見えてくる。それは「人間を、長生きさせること」。それはある意味で、自然界の法則を捻じ曲げることに違いなかった。
 どうせ長生きするならば優秀な、有益な人間がいいに決まってる。今の世代が皆死んでしまっても、次の世代がまた、その優秀な人間に、相談できるのだから。
 棺桶の中で長生きする、都合の良い死者。
 開発者である天才物理学者、西崎博士が最初の「死者」として選ばれたのは、ある意味では理にかなっているのかもしれなかった。
 僕は大学在学中に、沙織の偉大さを知った。もちろん彼氏であるということは周囲に伏せていた。最早、彼氏ではないのかもしれなかったけれど。
 とにかくそれを、すべてを知ったとき、僕は愕然とした。と同時に呆れかえった。僕は彼女の何を知っていたんだろう、と。彼女の好きなものが、嫌いなものが何だ。彼女の癖が、キスのときの仕草が何だ。
 僕は彼女のことを、1%すら知らなかったのだ、と。

67 :No.16 ひかりのこえ 3/5 ◇2LnoVeLzqY:07/05/27 23:32:19 ID:xMt+xUox
 だから勉強した。物理学を。もしかしたら、そこに書かれた公式が、法則が、理論が、残りの99%を埋めてくれるかもしれないと思えたから。
 その結果プロジェクトに参加できた。そしてついに彼女が宇宙にいる理由を知ったのだ。けれど僕は愕然ともしなかったし、呆れもしなかった。
 沙織の恋人は宇宙だったんだな、と思った。
 物理の公式は、法則は、理論は、99%の溝を埋めるどころかそれを果てしなく広げていた。導き出される答えは「世界には、彼女が必要だ」ということだけだった。
 僕に出来ることは、その答えを、受け入れることだけだった。
 彼女を「棺桶」に閉じ込めた人間に対して怒りすらしなかった。
 僕が大学時代と、このプロジェクトに参加してから学んだことは、博士の、沙織の、偉大さだけだったのだ。僕はこの五年間で、沙織を彼女としてではなく、偉大すぎる、天才物理学者として、考えるようになっていた。

 それでも僕は、今でも夢を見る。僕が沙織と話す夢を。夢の中では僕も沙織も、十八歳だった。
「時間ってね、相対的なの」
「……相対的?」
「そう、相対的。たとえば直くんと話している時間はあっという間に過ぎちゃうけれど、嫌なことをしているときの時間って、すごく遅いでしょ。そういうこと」
「わかるようなわからないような……」
「あはは、今はわからなくてもいいよ。いつかきっと、わかる日が来るから」
「そんなもんなのかな……。でも僕はさ、時間が相対的とかそんな小難しい話よりも、絶対なものが世の中にあるかどうかの方が、興味あるんだけれど。沙織はどう?」
 これは夢だとわかっている。もう会えないだろうことも知っている。けれどそのときの沙織の表情を、僕は今でも忘れられないのだ。

 彼女の父親も高名な物理学者で、だからこそ沙織の才能を早くから発見していた。だからこそ彼女は、物理学界で幼い頃から知られていた。僕と付き合っていたあの日々の間にも、彼女のおかげで物理学は進歩していた。
 その父親は現在、プロジェクトの事実上のリーダーを務めていた。宇宙にいる彼女に代わって、だ。
 彼が、一研究員である僕の元を尋ねて来る。それを知ったときの僕の驚きは、どう表現したらいいんだろう。
「君は」
 研究室の中にある、金属のテーブルと椅子しかない無機質な一室で、僕と彼女の父親、西崎俊彦博士は、向かい合っていた。
 真剣な表情のまま、彼は話し続ける。
「このプロジェクトの目的を知っているかな」
 彼の持つ雰囲気に僕は圧倒されていた。沙織の父親だ、という事実を、忘れてしまいそうな雰囲気。
「西崎沙織博士の持つ知識を、次世代の人間も教授できるように、ですか」
「そうだ。我々は、『光の棺桶』……嫌なネーミングだが、その中にいる彼女と連絡を取り、彼女の知識・頭脳を必要としている各研究機関との、中継役を担っている。
 むろんその通信技術は彼女が開発したものだ。その辺のものとは比べ物にならない。君は通信部門にはいないからわからないかもしれないがね。ワープ可能な電子の話ぐらいは聞いたことがあるだろう。あれの応用だ。ところで」
 彼は自分の娘のことも「西崎沙織博士」「彼女」と呼んでいた。それは当然なのかもしれない。けれどどこか寂しい響きを、その声は持っていた。
「君はこのプロジェクトについて、どのように考えている? 端的に訊こう。賛成か、反対か、だ」

68 :No.16 ひかりのこえ 4/5 ◇2LnoVeLzqY:07/05/27 23:32:46 ID:xMt+xUox
 そう尋ねられたとき、僕は返事を思い浮かばなかった。賛成か反対かなんて、言えるはずもなかった。相手はこのプロジェクトのリーダーなのだ。答え方次第ではクビが飛ぶと思った。
 クビ、ね。小さいな、と思った。
「……反対、です」
 気がつけばそう答えていた。
 沙織は、いや西崎博士は宇宙を光速で駆け回っていて、一方の僕は自分のクビを気にして言葉を選ぼうとしている。そんな自分に、ちょっとばかり嫌気が差したのだった。
 目の前の彼は少し考えるような表情をした。クビ、ね。まあいいかな、と思った。彼女が宇宙にいる理由は、知ることができたのだから。
 ところが最後に彼は、意外すぎる質問を、僕にぶつけてきたのだった。
 さっきまでの、真剣な表情のままに。けれどその瞳だけは、どこか、父親の優しさを秘めて。
「最後の質問だ。真面目に訊いている。答えてほしい。君は……今でも沙織のことが、好きかい?」
 そんな質問が来たことにまず僕は驚く。けれど真面目に答えてほしいと言われている。だから……僕は真面目に思う。
 はい、という権利が今の僕にあるんだろうか、と。この五年間で僕は変わってしまった。沙織は僕の中で、西崎沙織博士になっている。
 甘いものが大好きで怖いものが嫌いで、早起きが苦手で夜に星を見上げるのが好きで、髪が痛むからっていう理由で髪は染めずにいて、
 キスするたびに肩がびくって震えて僕の左手を彼女の右手でぎゅっと掴むような、そんな女の子は……宇宙の彼方にいる。
 五年間は、長い、時間だ。
「沙織は」
 突然、彼は言う。
「君のことが、今でも好きみたいなんだが」
 五年間は、彼女にとっては、一年にも、満たない。
 時間は、相対的だ。そう彼女は言った。僕の好きな、沙織は。
「……僕も、沙織のことが、好きです」
「結構」
 それだけ言うと彼は、持っていたカバンからノートパソコンを一台、取り出した。それをテーブルの上に置きながら、言う。
「このノートパソコンは、沙織と……もう沙織と言ってしまうが、彼女との通信を司っているコンピュータに接続してある。プロジェクト全体には秘密で、だ。
 だからこれを使えば彼女と通信ができる。現在地球に接近しつつある彼女とだ。話は以上。質問は禁止だ」
「え、えっと、あの」
 僕が何かを言う前に彼は立ち上がっていた。「本当に天才と馬鹿は紙一重だ」と呟きながら、彼は部屋から出て行った。
 僕の前にはノートパソコンが一台、残されていた。

 家に帰った僕は手も洗わず服も着替えず、真っ先にそれを起動した。Communicate-to-Dr.S.Nishizakiというアイコンを見つける。震える手でマウスを操作し、僕はクリックする。
 そのアプリケーションの中に、メールが一通だけ、届いていた。沙織からの、メール。心臓が高鳴るのがわかる。沙織が、メールの向こうにいる。恐る恐る、けれど気持ちを抑えきれずに僕はそれを開く。

69 :No.16 ひかりのこえ 5/5 ◇2LnoVeLzqY:07/05/27 23:33:08 ID:xMt+xUox
 しばらくの間、僕は呼吸することを忘れていたように思う。

「直くんへ。お元気でしょうか。ご存知のとおり私は今、一人で『光の棺桶』の中に乗っています。その目的は、今の直くんなら十分すぎるほど知っていてるはずでしょう。
 ……って、こんな口調は私じゃない! 数字とにらめっこしすぎて頭ボケたかも。だから元の、普段私と直くんが話していたような口調に戻すからね。
 こっちでは、地球を出発してから十ヶ月が経ったの。水も食料も一年分しか積んでいないから、どこかで補給しなくちゃいけない。驚かないでね……だからもうすぐ、地球に戻るの。今はまさにその途中だったり。
 この中はとんでもなく暇。一応は映画だとか音楽だとかもあるけれど、一日にやることといったら数字や公式と向かい合うだけ。あはは、えっちいことなんてできやしないよ。
 そんな私から、提案というか、お願いというか、質問があるの。
 NOなら『NO!』って答えてくれていいから。正直に答えてね。
 質問です。
 ……直くん、まだ私のことを好きでいてくれていますか?
 YESの場合だけ、このメールの先を読んでください」

 好きでいてくれていますか。僕はためらわずにスクロールする。彼女の十ヶ月は僕にとっての五年だ。けれど、僕は沙織のことが好きだから。
 メールは続いていた。

「……ありがとう。このメールを書いていて、『馬鹿らしいな』と思いながらも泣けてきちゃった。どうしてかな。もしかしたらこのメール、読んでもらえない可能性もあるのにね。
 もう一度言うよ。本当に、ありがとう。
 ……おこがましいんだけれど、実はもう一つ、質問があるの。
 むしろこっちの質問の方が、私にとっては大事。もしかしたら、直くんにも。
 さっきも言ったとおり、正直に答えてね。ウソつきは泥棒の始まり、なんてね。
 では敬語で訊きます。お父さんなら、『馬鹿と天才は紙一重』なんて言うかもしれない質問ですが。
 ……『光の棺桶』に、一緒に乗ってくれませんか?
 今年の十二月二十四日。十ヶ月ぶりに、私はヒューストンに降り立ちます。地球から見れば五年ぶりですね。
 お父さんには、もう何もかも伝えてあります。メールの最後にお父さんの連絡先を書いておきます。ヒューストンへの航空券から何から、手配してくれるでしょう。
 もちろん、単に会うだけでも構いません。数日間は地球に滞在する予定だから。直くんはもう、二十……三歳になっているのかな。きっとお互い、いろいろ驚くかもね。っと、また敬語じゃなくなってるね。
 質問の答えは、ヒューストンで聞こうかな、と思います。このメールが届く時間を考えると……あと二週間はあるはずなので、ゆっくりと、考えてみてください。
 最後に、最近私が思うことをひとつ、直くんに言っておこうかな、と思いました。これは夢の中で直くんに訊かれた質問への、答えだったりします」

 メールの最後に書かれたその文章を、僕は声に出して読む。
「知れば知るほど、時間は相対的なものだ、ということがわかります。けれど考えれば考えるほど、愛とか恋って絶対的なものだ、と私には思えるのです」



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