【 記憶 】
◆rj1xA.n0qY




60 :No.15 記憶 1/5 ◇rj1xA.n0qY:07/05/27 23:16:39 ID:xMt+xUox
どれだけの太陽と、どれだけの月を見た事だろうか。
偶然に数字を知ったあの日からか数え始めた日付は、
やがて数える単位がなくなり、めんどくさくなってやめた。
ただただ毎日、世界から栄養をちょっとだけ分けてもらい、
この動けない体を上へ上へ横へ横へと成長させるだけの日々。
私の周りにはかつて多くの仲間がいたが、いつの日にか私しかいなくなった。
隣にいた一番の親友も(会話をした事は一度もなかったが)とうに消え、
世界には私しかいないのだろうと、そんな事を考える。
けれども、それすらも、めんどくさくなるほどの年月がたったある日から、
私の元には多くの人間が訪れ触り崇めだした。

誰一人として同じ人間はおらず、誰一人として私と会話出来るものはいなかったが、
それでも私は、孤独だと思っていたこの世界に他に人がいる事に歓喜し、
毎日訪れる人間を楽しみにしていた。
なかには私を殺そうとする人間もいたが、別の人間が私の見えない所で、守っていてくれた。
私は記憶量だけはいいので、全ての人間の姿も話も覚えているけれど、
そんな中でひときわ鮮明に記憶に残っている人間もいる。
時々、そういう人間を思い出すと泣きたくなるが、私に泣く事は出来ない。
だからそんな時は、風の力を借りてゆっくりと体をゆらすだけだ。

私の元をはじめて訪れたのは、一組のカップルだった。
今日はその最初のカップルの話をしよう。
鮮明に残る記憶の中でももっとも古く、もっとも残っている記憶。彼と彼女の話を。

61 :No.15 記憶 2/5 ◇rj1xA.n0qY:07/05/27 23:16:57 ID:xMt+xUox
彼と彼女がどのようにして私を見つけたのかはわからない。
気がつくと、近くにいたというのが正しい。
いつの頃からか、私の近くで語り合い、果物を食べ、水を飲み、遊び、
そして二人は……恋をしていたのだろう。
その頃は、二人にも私にも、恋というものがなんなのか分からなかったが、
ずっとずっと後に、あれが恋というものなのだとわかり、
今は恋をしていたと言い切ることが出来る。そうきっとあれは、悲しい恋だったのだろう。

彼も彼女も、そして私もその頃はまだ名前を持っていなかったけど、
ここには二人しかおらず名前などなくても困らなかった。
「ねぇ。今日は何をしましょうか」
「そうだね、走ろうか」
二人はなんでもないような事で、いつも楽しそうにはしゃいでいた。
動けない私は、そんな二人を見ているだけだったけれど、本当に楽しかった。

しかしそんな平穏な日々が終わるのは突然だった。
重要なはじめの日。時間はその一日前にさかのぼる。

62 :No.15 記憶 3/5 ◇rj1xA.n0qY:07/05/27 23:17:13 ID:xMt+xUox
「これを食べるの?」
「そうだよ。とてもおいしいんだよ」
いつもは二人でいる時間に、その日は彼女の方しかいなかった。
彼は、どこかで果物でも取っているのだろう。
そんな時に彼女は大抵、歌を歌っているのだが今日は誰かと話している。
それは最近、カップルのようにどこからともなく現れたものだった。
ただただ不快感だけが募るそのしゃべり方を私は嫌悪していたが、
話す手段のない私には二人の会話を聞くことしか出来ない。
「でも、いけないわ。これを食べたら死ぬって言われているし」
「死ぬ? 死ぬってなんだい? それが何か知っているのかい?」
「死ぬって言うのは……何? でも、いけない事。駄目な事」
「そうかい。それはとてもおいしいのに」
彼女を誘惑するように、その声は言葉巧みに話す。
言い知れぬ不安がよぎり、はやく彼が来てくれないだろうか。私は心の底から願っていた。
「おーい!!」
その時、私の願いが叶ったのか、彼女を呼ぶ声が遠くから聞こえてくる。
「ここよ!」
彼女は、そう言って彼に手を振る。すでにあの不快感の声の主はそこにいはおらず、
「それは、とてもおいしいんだよ」
そういい残して消えていた。それを聞いた彼女の表情を生涯忘れる事はないだろう。
それから二人はいつものように、私の近くで語り合い遊んでいた。
彼女は、さきほどの会話を忘れるためなのか、いつも以上にはしゃいでいた。
そんな彼女を見ていると、私の不安は募るばかりだったけれど、私には語る口がない。

次の日。彼と彼女がいなくなった日。世界の始まり。
その日の事を考えると、自分が動けない事を後悔しない日はない。
けれど、それはもう過去の事だから変える事なんて出来ない。もう終わった悲しい記憶だ。

63 :No.15 記憶 4/5 ◇rj1xA.n0qY:07/05/27 23:17:29 ID:xMt+xUox
「よく来たね。食べてみたくなったかい?」
いつも二人が来る時間よりはやく、彼女は私の元へとやってきた。
そこにはあの不快感の声の主が、当然のように待っている。
彼女もそれがいる事が分かって、ここへ一人出来たのだろう。
「……本当に、死なないの?」
「あぁ死なないさ。それどころかあなたは神にすらなれるんだよ」
「神? 神になれるの?」
「そうだよ。それを食べると、あなたは神になれる。そうすれば、彼ともずっと一緒にいられるよ」
そんなはずがない事は、私にはわかっていた。そしておそらく彼女にも。
けれど、不愉快の声の主の声は、そんな事を無視して誘惑される声だった。
不愉快の声の主は、そう言って私の隣にたっている樹から、果物をもぎ取る。
「さぁ食べてごらん。おいしいよ」
「……うん」
彼女がその果物を食べた瞬間。私は何も出来なかった。ただ見る事だけしか。
彼女は本当においしそうにその果物を食べ、そして……知ってしまった。

「おーい!!」
彼が遅れてやってくる。けれど彼女は、いつものように返事をする事なく、
恥かしそうに私の後ろへと隠れてしまう。知ってしまった彼女には、自分を見せる事が出来ないでいた。
「あれ、どこにいるんだい?」
「……ここよ」
彼女は私の後ろから、小さな声で彼に声をかける。
「あぁそんな所にいたのかい。今日は何をしようか?」
彼はいつもの微笑で、彼女に声をかけて近づく。
けれども彼女は、彼から隠れるように私の周りをクルクルと回る。
「どうしたんだい? 鬼ごっこ?」
「違うの……ねぇお願いがあるの」
彼女は、そう言って自分が食べた果物のなっている樹を指差す。
「あれを食べて……私は食べたわ」
「あれを食べた!? 何てことだ。死ぬんだぞ?」

64 :No.15 記憶 5/5 ◇rj1xA.n0qY:07/05/27 23:17:42 ID:xMt+xUox
彼はそう言いつつも怒ってはいなかった。
怒る事を知らなかったからだと、ずっと後になって私は気がついた。
もし彼が怒る事を知っていたら……歴史は変わったのだろうか。

「大丈夫よ。ほら、私は死んでいないでしょ? とってもおいしいの」
「本当に? それじゃぼくも食べようかな……」
前から気にはなってはいたのだろう。彼はそう言って、果物を口にする。
そして、彼女と同じように知ってしまった。

それからの事は、動けない私には分からない。
ただ、彼と彼女が妙にお互いを恥かしがり、
別々に家へと帰っていったのを最後に、私の前へと現れる事は今だになく、
知ってしまった彼と彼女は、ここへ来る事はもうないのだろうと思うと無性に悲しくなった。

彼女と彼が果物を食べたその日から激しい雷雨が三日三晩続き、
世界は一変してしまった。私の周りにいた多くの仲間もいなくなってしまった。
そんな中で唯一の救いは、私の体に生っている実を、彼と彼女が食べなかった事だ。
私の実を食べていたら、私の愛する彼も彼女も本当に生きてはいなかっただろう。
会えない事も悲しいが、死んでしまうほうが悲しいから。

これが私の記憶に残る最初のカップルの話だ。
アダムと呼ばれた彼と、イブと名づけられた彼女。
そしていつの頃からか「生命の樹」と呼ばれた私の一番初めの、一番とても大切な記憶。
彼と彼女はこの後も人生を楽しく過ごしたのだろうか。それだけを考え今日も私は生きる。
彼と彼女が、私の元でまた前のように笑いあえる日が来る事を想像しながら。

――了



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