【 鋼鉄の箱の支配者 】
◆2LnoVeLzqY




434 名前:鋼鉄の箱の支配者 1/5 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2007/05/20(日) 22:32:09.44 ID:XJYF8zTz0
 漆黒の夜空が西へと追いやられる。建物の向こう、東の地平線から溢れる白い光が徐々に空を覆い始める。そして雲に、建物に、コウタの瞳に、光は染み渡る。
 キレイだ、とコウタはいつも思う。朝はキレイだ。
 水平線から太陽が顔を出してようやく、窓の外の世界は朝に染まる。街に朝が来る。
 コウタは家を出る。家族の誰よりも早く。

 自転車で地下鉄駅まで行って入り口から地下に降りる。朝の届かない世界に降りる。
 まだ通勤ラッシュには早い時間だ。そんな時間にコウタは学校に行く。誰もいない教室で一人過ごす、それがコウタの好きなことだからだ。
 そしてコウタの好きなことは、もうひとつある。
 コウタは地下鉄に乗る。それも一番前の車両に。乗ったらコウタはその車両の一番前に行く。車両と運転席を隔てる壁の前に立つ。そしてその壁に背中をぴったりとつけて、目の前に広がる光景を見る。
 車両が奥に向かって真っ直ぐに伸びているのを、見る。
 地下鉄はコウタの背後の方向へと進む。コウタは膝に少しだけ力を入れる。それでも目の前の光景を見るのはやめない。
 向かい合った座席が奥へ真っ直ぐに伸びている。座っている人がいる。つり革が列をなして奥へ伸びている。それに掴まっている人がいる。広告も一直線に並んでいる。
 車両はまっすぐに突き抜ける。どこまでも。二両目にも人がいる。三両目にも。向こうまで人がいる。それを、コウタは見る。観察する。なんとなく、自分がこの地下鉄の支配者になった感じが、する。
 通勤ラッシュにぶち当たっては、人が邪魔でまともに観察なんかできない。コウタはそれも知っていて、この時間を選んでいた。
 ところでコウタは目がいいわけではなかった。だから、一番奥の車両までは見えない。
 六両目、つまり一番奥の車両に、後部の運転席と車両を隔てる壁に背中をつけて、アカリが立ってるのを、コウタは知らなかった。
 アカリはコウタに向かい合うように立っている。およそ百メートルの距離を隔てた場所で。アカリも、コウタと同じことをしていた。
 その間には地下鉄という鋼鉄の箱が閉じ込めた空間がある。その空間の向こうに、アカリはコウタを見つける。
「……へんなやつが立ってる」
 普通の視力を持った人間ではまず見えないような距離の先で、アカリはコウタを認める。誰かがこっちを見ている、と。
 肩から提げたカバンから双眼鏡を取り出して百メートル先に向ける。周囲の乗客がアカリの不審な行動に気がつく。アカリはそれに気づかない。双眼鏡を構える。
 関わらないようにしよう、という共通認識が周囲の乗客を包む。
「……誰、あいつ」
 アカリはひとりごちた。年齢は同じくらいかも。ってことはあいつも十三歳? 中学の制服を着ているし。学校行ってるのかあ。私立かな。どこだろ。
 しばらく経ってから止まった駅でコウタは降りた。アカリは、その名も知らぬ男子の観察をやめる。
 朝が覆う地上の遥か下、鉄で覆われた箱の中にいる乗客たちを、アカリは再び観察し始める。
 同じ趣味を持った彼らがこの日まで出会わなかったのは、神様のイタズラなのかもしれなかった。

 アカリは学校に行っていなかった。正確に言えば、授業に出ていなかった。一応、クラスの名簿にはその名前を認めることができる。
 だってめんどいじゃん、とアカリはつぶやく。めんどい。そうつぶやいているうちに、いつしか口癖になっていた。

435 名前:鋼鉄の箱の支配者 2/5 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2007/05/20(日) 22:33:17.08 ID:XJYF8zTz0
「めんどいじゃん」
 通勤ラッシュが来て一番後ろの車両にも人がぎゅうぎゅう詰めになって乗り込んで、汗臭いサラリーマンたちに囲まれて視界をスーツに覆われても、アカリはそうつぶやいた。大した意味もなく。
 その声すらも、間延びした車内アナウンスにかき消される。
「申し訳ありませんが、奥の方へと詰めて、お乗りください」
 あいでんてぃてぃー、ないね。アカリはつぶやいた。あいでんてぃてぃー。
 中心街に繋がる駅を過ぎると、ラッシュ時でも乗客の数はどっと減る。
 アカリはそのまま、終点まで立ったまま乗っている。背中を最後尾の壁につけて。前だけを見据えて、車内の観察を続けながら。
 終点で降りても改札からは出ない。足が疲れたので備え付けのベンチに座る。少し休んだら、反対のホームに回ってまた地下鉄に乗る。そしてまた観察をする。
 そして終点に着いたら、また休んで、また反対側のホームから、乗る。そして観察をする。観察をしていると、車両の支配者になった気分が、する。
 アカリはぐるぐると地下を回り続ける。
 朝が終わって太陽が高く上って昼が来て、それから太陽が下がり始めて夕方が来ても、アカリはぐるぐると地下を回り続ける。
 ぐう、とおなかが鳴ってから、アカリはようやく家に帰る。
「めんどい、おなかすいた」とつぶやきながら。

 同じような朝が来る。窓の外の建物の向こう、東の地平線から太陽が昇る前にコウタは目を覚ます。
 空が白んでいくのを見る。光が世界に染み込んでくるのを見る。キレイだ、とコウタは思う。
 そして、家族の誰よりも早く家を出て地下鉄に乗る。朝の届かない世界に入り込む。
 そんなコウタを、アカリは今日も見つけた。
「……また、あいつ」
 同じ車両で観察しているのが気に食わない。めんどい。しはいしゃはわたしなの。めんどい。あいつ邪魔なんだけど。
 アカリは歩き出していた。壁から背中を離して。百メートル先の車両の、一番奥の壁を目指して。
 アカリは向かい合った座席の間を歩く。乗客たちが怪訝な目でそれを見る。アカリは気にしない。ただ歩き続ける。
 二両目、三両目、めんどい、四両目、五両目。
 そこでコウタも、異変に気づく。アカリを見つける。
「あれ、誰だろう。こっちに来る。でも知らない子だ」
 アカリは止まらない。ついに六両目、コウタのいる車両に入った。なおも歩く。
 そしてコウタの目の前、およそ三十センチだけの隙間を残して、アカリは立ち止まった。
 太陽の光なんて届かない、人工の光が支配する地下を走る鉄の箱の中で、二人が始めてお互いの姿を間近に認めた。
「じゃま。座って。その辺のつり革につかまってもいいけど。とにかくここに立たないで。あー、めんどい。または降りて」
「……え?」

436 名前:鋼鉄の箱の支配者 3/5 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2007/05/20(日) 22:34:28.61 ID:XJYF8zTz0
 アカリの第一声にコウタは反応できない。理解できない。
 目の前に立っている少女も制服を着ている。たぶん中学校。でも別の学校だ。
 周囲の乗客もアカリとコウタを見る。けれどコウタが反応しないのを見ると、すぐに興味を失う。
 しばらく経ってようやく、コウタは一言発した。
「……きみ、だれ?」
「いいからそのへんに座って。ここに立たないで。まだ席あいてるから」
「えっと、きみ、名前は? ぼくのこと知らないよね? それに、なんで? ここに立っちゃだめな理由ってあるの?」
 コウタは一気に質問を浴びせた。アカリはめんどい、とつぶやいてから、一言でそれに答える。
「わたしと同じことしないで」
 アカリが言わんとすることをコウタは理解した。それからアカリの肩ごしに、百メートル向こうの車両の奥の壁を見ようとした。けれどコウタには見えない。支配者。車両の支配者。
 何て返事をしようか。コウタは悩む。目の前の、制服を着た少女を見た。答えは出ない。なんとなく、口をついて質問が出た。
「きみ、どこの中学?」
「かんけいない。行ってないし。めんどいんだけど。早く座って」
「行ってないの? なら何で制服着て地下鉄に乗ってるの?」
 意外すぎる答えにコウタは驚く。ついでに、返事を先延ばしできそうだと思って質問を続けた。アカリは答える。
「だからあんたと同じ理由で」
「ぼくは学校に行ってるよ。学校行かないとお母さんに怒られない? もしかして、時間を潰すために一日中地下鉄に乗ってるとか? まさかね」
 最後の質問を、コウタはふざけてしたつもりだった。だがアカリは答えた。「そうだってば」と。
「あーめんどい。早く座って」
 地下鉄が、コウタの降りる駅に止まった。コウタは逃げるように地下鉄を降りる。

 朝が来る前にコウタは目を覚ます。太陽が昇って、キレイだ、と思う。
 それから家族の誰よりも早く家を出て、地下鉄の駅へと向かう。
 駅の入り口で、朝が覆う地上から、地下へと降りる。いつものコウタなら先頭車両に乗る。
 けれどこの日のコウタは、一番後ろに乗ろう、と考えていた。
 ホームの一番後ろに立つ。地下鉄が来る。ドアが開く。乗り込む。
 そこに、制服を着た少女が立っている。後部の運転席と車両を隔てる壁に、背中をつけて。
「あ、あの……」
 コウタは横から少女に話しかける。少女は目だけ動かしてコウタを見た。少女は、めんどい、と思った。だが口には出さない。
「アカリ」

437 名前:鋼鉄の箱の支配者 4/5 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2007/05/20(日) 22:35:11.79 ID:XJYF8zTz0
 それが少女の名前だとコウタが理解するのに時間がかかった。
「ぼくはコウタ」
 アカリは反応しない。ただ目の前に伸びる車両を、じっと観察している。わたしがこの車両の支配者といわんばかりに。
 コウタもアカリの視線を追う。
 その先には、コウタがいつも立っていた場所がある、はず。
 コウタは訊いた。
「となり、いい? そこの壁。きみのとなりなんだけど」
 僕もそこに立ちたい。それは声には出さない。けれどこの女の子は、アカリは理解できるはずだ。そうコウタは思う。
 アカリは答えない。
 めんどい、とだけつぶやいた。
 コウタは黙って隣に立つ。壁に背中をつけて。前を見る。
 アカリは、何も言わない。
 アカリの視界にコウタはいない。コウタの視界にもアカリはいない。
 目の前には地下鉄の車両だけが伸びていた。
 それを彼は、彼女は、観察し始める。
 車両が、座席が、伸びている。進行方向に向かって。人が座っている。あるいは立っている。広告が奥に向かって並んでいる。
 支配者になった感じが、する。
 それはささやかな、十三歳の、抵抗なのだった。朝の光も届かない遥か地下の、鉄に覆われた箱の中で、彼は、彼女は、世界を支配してみせようと抗っていた。
 何かに向かって、抗っていた。だがそれが何なのか、彼ら自身も気づいていないのだった。
「学校、行ったら?」
「学校、行くのやめたら?」
 コウタとアカリはお互いに向かって同時に訊いた。コウタは、あははと笑った。アカリは、めんどい、とだけつぶやいた。
「終点まで行ったら、また地下鉄に乗るんでしょ? ぐるぐるぐるぐる。それって楽しいの?」
「楽しくなかったらやってない」
「ふうん」
 アカリは無表情のまま答える。楽しさのかけらも覗えない。それでも楽しいんだろうな、とコウタは思う。
 本当の支配者はアカリか、とも思う。
 アカリがコウタに言う。
「今日だけ付き合って」
「ん……ええ!?」

438 名前:鋼鉄の箱の支配者 5/5 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2007/05/20(日) 22:36:32.82 ID:XJYF8zTz0
「一緒に乗ってってこと。一日中。これだから……めんどい」
「ああ、そっちか」
「そっちって何が?」
「いや、なんでもない。……ぼくはかまわないよ。アカリがいいのなら」
「だめなら訊かない。めんどい」
 地下鉄はコウタが降りる駅に着く。けれどコウタは降りない。ドアが閉まる。地下鉄は動き出す。
 前を見る。車両がどこまでも伸びている。人が座っている。あるいは立っている。つり革が列をなしている。天井からぶら下がった広告がドミノみたいに並んでいる。
 それらが鉄の箱に閉じ込められている。
 アカリは思う。わたしは、この鉄の箱のしはいしゃ。
 終点に着いて、アカリもコウタもそこで降りた。ベンチでしばらく休んだ。お互いが何も言わなかった。
 反対側のホームに回ってまた地下鉄に乗る。何度も何度も繰り返す。
 やがて通勤ラッシュが来て二人がスーツの中に埋まる。あいでんてぃてぃー、とアカリがつぶやく。何それ、とコウタが訊く。しらない、とアカリが答える。通勤ラッシュが過ぎる。
 地上では朝が終わって、昼が来る。
 コウタとアカリは、終点の駅のホームでカバンに入っていたお弁当を一緒に食べた。
「……もうあわない。あえない」
「ぼくも、そんな気がしてる。なんでだろ」
「しはいしゃはふたりもいらないから。今あえてるのは、ただの偶然。かみさまのきまぐれ」
「神様、けっこう自分勝手だね」
 しはいしゃだもの、人間の。アカリがつぶやいた。わたしは、鉄の箱のしはいしゃ。そうもつぶやいた。
 アカリとコウタはぐるぐる回る。地下を。太陽の光の届かない、地面の奥底を走る鉄の箱に乗って。
 昼が過ぎて夕方が来て、おなかがぐうとなる時間になって、コウタは地下鉄を降りた。アカリも、地下鉄を降りた。十三歳の支配が、終わる。
 その日以来、アカリとコウタは、一度も会っていない。

 コウタは想像する。学校に行かず鉄の箱に乗って、どこかで地下をぐるぐると回る少女を。
 太陽の光の届かない地面の奥深くで鉄の箱に乗って、彼女は何かに立ち向かう。でも何に? コウタにもわからない。
 けれどコウタも、同じものに立ち向かう。鉄の箱に納まる乗客を観察することで。乗客がせわしなく乗ったり降りたりするのを、最後尾の、あるいは先頭の車両の壁から、黙って見ていることで。
 あいでんてぃてぃー。辞書で引いた。十三歳のコウタには、その意味はわからなかった。
 コウタは今日も朝が来るより早く目を覚ます。窓の外の建物の向こうから昇る太陽を見る。その瞳に白い光が飛び込んできたとき、ふと、思った。
 こんな朝早くには地下鉄なんて走ってない。
 だからアカリも、この太陽を、この朝を、見ていればいいな。地下ではない、鉄の箱の中じゃない、この光が見える、どこかで。



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