【 追憶の時 】
◆ISADDpSwQs




332 名前:【品評会作品】追憶の時 (1/5) ◆ISADDpSwQs 投稿日:2007/05/20(日) 19:15:16.79 ID:QUbwXHAF0
■序
 ……人は誰しも、苦手なものがある。闇を恐れる者がいれば、光を恐れる者もいるよう
に、その違いは千差万別だ。有形、無形を問わず、人は得体の知れぬ恐怖に囚われ、苦悶
する。その根底には何が隠れているのだろうか。
 正体に差し迫ったとき……。そこには、哀悼すべき真実が潜んでいるのかも知れない。

 * * *

 母の胸に抱かれる夢、
 夢の狭間に揺れる心。
 見上げれば、いつだって貴女がいた。

■一
 沙希は電車が嫌いだった。それは「苦手」と呼べる程度の問題ではなく、尋常ならざる
ものさえ感じる。電車が走る光景を目にすると胸が圧迫され、鈍い頭痛に苛まれる。時に
は吐き気を催し、その場で動けなくなることさえままあるのだ。電車に酔うのならまだ分
かる。だが、視界に入っただけでパニックに陥るというのは、もはや病的な相を呈してい
た。
 いつからこうなったのか、はっきりとは覚えていない。物心の付いた頃には、既にこの
性質を備えていたように思う。中学の修学旅行では、ひとりだけ車で目的地へと向かった
し、その翌年の高校入学の折には、バスで通学することにした。沙希にとっての二十年間。
それはまさに、電車との戦いだった。

 もちろん、社会人になってからは、専門の施設にも診てもらった。催眠療法というもの
だ。薄暗い室内には柔らかいソファーが据えられている。沙希が腰を下ろすと、医者が緩
やかな口調で語りかける。沙希は次第に夢うつつになり、メトロノームのリズムに乗せて、
時間をさかのぼった。そうして、遠き日の自分に立ち返るのだ。

333 名前:【品評会作品】追憶の時 (2/5) ◆ISADDpSwQs 投稿日:2007/05/20(日) 19:16:11.14 ID:QUbwXHAF0
 沙希は電車に乗っていた。まだ幼い彼女の隣には、今は亡き母が座っている。二人並ん
で、窓の外を眺めた。よく晴れた夕刻で、熱く焼けた砂丘が広がっている。おだやかな海
は茜色に光り輝き、空には入道雲が湧いていた。車内に乗客はまばらで、背広を着た男性
が四、五人。学生服らしき姿も混じっている。中には子供連れの親子もあった。
 ――ここはどこだろう。
 沙希は考える。おぼろげに、母の実家である祖父母の家が思い浮かばれた。
 ――ああ、そうだ。私は母の故郷に向かっているのだ。
 ……と、急速に視界が濁り始める。それ以上先のことを思い出そうとすると、まるで磨
り硝子を通したように世界が曇った。
 沙希は苦しんだ。霧を振り払おうと、躍起になってもがいた。しかし、努力も空しく、
世界が暗影の闇に包まれる。真相は、砂のように指の間からこぼれ落ちてしまった。ぼや
けた視界の中。最後に、母の微笑みだけが見えた。

 ……いつもこの調子だ。催眠療法で過去を垣間見ても、沙希の記憶は肝心なところで閉
ざされる。この後に事故が起こったことは、容易に想像がつく。そして、その事故によっ
て母は他界し、私が生き残ったのだろう。それだけのことだ。
 しかし、心のうちで何かが引っかかる。それが何なのかは分からない。

■二
 沙希は図書館にこもり、過去の新聞を読み漁った。情報は膨大で、それは大変な重労働
だったが、不思議と疲れることはなかった。
 こうして一日が過ぎた。二日が過ぎた。三日目を過ぎようとしたとき、沙希の目に気に
なる記事が飛び込んだ。大見出しで「電車脱線」という文字が踊っている。

 ▼電車脱線,乗客一名死亡
  八日午後四時五十六分頃,○○線を走行し
 ていた△△発□□行きの下り列車が脱線した。
 乗客の女性一名が重態で病院に運び込まれた
 が、間もなく死亡が確認された。警察は身元
 の確認を急いでいる。……

334 名前:【品評会作品】追憶の時 (3/5) ◆ISADDpSwQs 投稿日:2007/05/20(日) 19:17:02.09 ID:QUbwXHAF0
 記事の全てを読み終えて、沙希は確証した。目の前で母が亡くなったこと。事故の後遺
症で、断片的な記憶を失ったこと。そして、事実を伝えまいと、どこか余所余所しく感じ
られた祖父母の態度……。母は交通事故で亡くなったものとしか聞かされていなかったし、
沙希も深くは追求しなかった。そうしたひとつひとつの意味が、今になって痛いほどに理
解できる。
 沙希は図書館を後にした。初夏の日差しに、目がくらんだ。

■三
 ……その後、彼女の電車嫌いが直ったかと言えば、そうでもない。
 事実を知ったからと言って、電車への恐怖が拭われることはなかった。以前と同じよう
に気分を害すし、むしろ悪化した節さえある。電車が勢い良く走る光景を想像すると、車
体が宙を舞い、今にも大惨事へと発展しそうな不安に襲われる。近頃は、電車の走行音を
耳にするだけでも耐え難い苦痛だった。
 沙希は心の中で叫ぶ。
 ――なぜ、こんなにも苦しめられるのか。私が悪いことをしたのだろうか。もしかする
と、母を死に追いやったのは私の責任じゃないか知らん……。
 考えれば考えるほど、泥沼に落ちていった。

 木々は生命の息吹に満ち溢れ、青々と茂る葉を空に向かって伸ばしている。蝉の鳴き声、
子供たちの歓声、扇風機の羽音。これらの音が溶け合って、耳に心地よく染み入ってくる。
 アパートの一室で朝の空を仰ぎ見ながら、沙希は思った。
 ――このまま、電車への恐怖を背負って生きていくのも方策なのだろう。母の死……。
それは紛れもない事実だし、宿命のようなものでもある。しかし、それが本当に正しい道
であるのか疑わしい。私は、真実に背を向けて歩み行くのだろうか。お母さん、教えて頂
戴……。
 ひたいに嫌な汗がにじんだ。遠くに電車の音を聞いたのだ。
「いや! やめて! もう私を苦しめないで!」
 窓をぴしゃりと閉めて、沙希は駆け出した。一心に、現実から逃れようとしていた。耳
に手をあて、キッチンにうずくまる。その体は小さく震えていた。

335 名前:【品評会作品】追憶の時 (4/5) ◆ISADDpSwQs 投稿日:2007/05/20(日) 19:17:55.60 ID:QUbwXHAF0
 やがて辺りがしんと静まり返る。薄明かりの中、沙希の心臓は早鐘を打っていた。顔は
紅潮し、目は涙で潤んでいる。
 ――お母さん、教えて頂戴……。私はどうすれば良いの……。
 心の中で母に問いかける。どんなに待ち焦がれても、返事が返ってくることはない。見
上げれば、いつだって貴女がいた。あの温かい眼差しが、今では懐かしい。
 沙希は顔を上げた。そこには母の遺影があった。流れるような黒髪、端正な顔立ち、き
りっと締まった唇。永遠に変わることのない美しさで、優しく微笑んでいた。

 ――このままではいけない。
 乱れた息を整え、何かを決意したように沙希は立ち上がる。自分が何をすべきであるか、
ようやくにして見出したのだ。
 ――私は進まねばならない。それがどんなに辛く、悲しいことであろうと。
 しばらくして、部屋に沙希の声が響き渡った。
「……もしもし? おじさん?」
 その手には受話器が握られていた。

■四
 沙希が祖父母の家に到着したとき、時刻は午後を回った頃だった。バスを乗り継いで向
かったため、予定よりも大幅に遅れたのだ。
 母が他界してからは祖父母のもとに預けられていたので、ここは我が家のような存在だ。
壊れかけた納屋、庭に植えられたアジサイの花。忘れかけていた記憶が鮮やかに蘇る。

 居間に入ると、懐かしい祖父母の姿がそこにあった。用件は既に電話で伝えておいた。
「沙希ちゃん、久しぶりね。ここに座って頂戴」
 祖母が言った。沙希は腰を下ろし、姿勢を正す。
 続いて祖父が話し始めた。
「お前には随分と迷惑をかけたんだな。すまない。
だが、真実を伝えることは、どうしても出来なかった。
後ろめたさに、二人で話し合ったことも幾度となくある。
その度に、お前の幸福を心から望んでいたんだ。許してほしい」

336 名前:【品評会作品】追憶の時 (5/5) ◆ISADDpSwQs 投稿日:2007/05/20(日) 19:18:47.04 ID:QUbwXHAF0
「事故のこと、どこで知ったの?」
 沙希は事の経緯を話した。催眠療法で過去を垣間見たこと。すっぽりと抜け落ちた記憶
のこと。図書館で新聞を読み漁ったこと。すべてを話した。
 長い沈黙の後、祖父が重い口を開いた。
「お前の母さんはな、お前をかばったんだ。
脱線した電車の中で、どんなに硝子が飛んでこようと、
どんなに体が投げ出されようと、我が身をもってお前を守り抜いた」
「発見されたときも、気を失った沙希ちゃんを胸に抱いていたそうよ。
沙希ちゃんがそれを知ったら、どんなにか悲しむだろう、と思ったわ。
ことによると、自分を恨むかも知れない。自分を呪うかも知れない。
そう考えると、私たちはいたたまれなかった」

 ……気が付くと、沙希は泣いていた。涙は、あとからあとから、止め処もなく溢れ出た。
ぽた、ぽた、とひざの上にこぼれ落ち、いくつも丸い染みをつくった。
 母は、私をかばって死んだのだ。私が最後に見たもの……。それは、我が子の安否を気
づかう微笑みだった。どんな不安も、どんな悲しみをも受け入れる、慈愛の微笑み……。

 沙希は祖父母に一礼した。真実を話してくれたことに、心から感謝した。
 思い出の家を後にする。母の愛を、胸に。

■五
 ……日は傾きかけていた。相も変わらず、木々は生命の息吹に満ち溢れ、青々と茂る葉
を空に向かって伸ばしている。沙希は茜色に染まり行く空を見上げた。なぜだか、母がそ
こにいるような気がした。いや……。いつだって、私を見守ってくれていたのだ。

 ふと「海を見に行こうかな」と思い立つ。
 沙希は駅に向かって歩き始めた。

                                      (了)



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