【 リムジン 】
◆lxU5zXAveU




321 名前:【品評会作品】リムジン(1/5) ◆lxU5zXAveU 投稿日:2007/05/20(日) 18:56:38.27 ID:CdPFHYVL0
 春のまだ寒いころに、アキラは東京へ行く兄から自転車をもらった。小学校に入った年だった。兄が錆だらけ
だった自転車を、アキラの大好きな青でスプレーしてくれた。舗装された国道は遠かったから、小石の少ない道
を選んだ。畑から沢に降りて泳いで、森を抜けて家まで戻ってくるのがアキラのコースだった。沢へ出る道には
梨の木があった。学校が終わり自転車を出してそこまで行くと、たまに遊び仲間が待っていた。
「アキラは泳ぎがうまいから、オリンピックに行けるよ」
「行けるかよ。それより俺、レスキュー隊になる」
 宿題で読んだ本にレスキュー隊がいたのだ。真っ青な海で、隊員が浮き輪を投げて子供を助けていた。レスキ
ュー隊員は森を走り回って、海で泳いで、自転車にも乗る。ヘリコプターで空も飛ぶのだ。あんなにたくさんの
乗り物にのる人たちを、アキラは他に知らなかった。
「偉くなったら、リムジンに乗れるんだよ」
「リムジンってなんだ?」
 考えるような沈黙のあとに、友達は「タクシーだよ」と答えた。その日、アキラは沢で溺れた。

 アクセルペダルに足を乗せたまま、アキラは独り言のようにつぶやいた。
「なんて名前だったかなあ。学校じゃ見かけなかったけど、よく遊んだんだ」
 湖を臨む一車線の道路がうねっている。アップダウンは少ないから、サイクリングするのも良さそうだ。自転
車なんてもう二十年近く乗っていない。
「もしかしたら、あの友達もユミみたいに休んでたのかも」しまった。アキラは口をつぐんで、すぐに不自然に
言葉をとめたことを後悔した。隣の座席を伺うと、ユミが顔を背けていた。顎がとがってきたな、とアキラは思
った。昔は、どこもかしこも丸かったのに。
 アキラは、ユミを両腕に初めて抱いた日を思い出した。つついてみると、小さな掌が指を握りこんだ。赤ん坊
は粒のような瞳でアキラをみて、口をもぐもぐさせた後に泣き出した。──お前も分かるぞ、と同僚が言った意
味が分かった。この赤ん坊は、俺が絶対に幸せにする。名前を決める前に、そう決めた。
 今、ユミは隣にいる。アキラはユミの声を、ずっと聞いていない。何があったのか、どうして話さなくなった
のか、どうして学校に行かなくなったのかもユミは話さない。
「今からいく別荘な、友達が貸してくれたんだ。立派だよ。お母さんも銀行が終わったら来るから、それまで釣
りでも、サイクリングでもやろうな。別荘の近くは泳げるぞ。お父さん、けっこう泳ぎがうまいの知ってた
か?」
 娘が家から出たのは一年ぶりだった。妻が用意した旅行カバンを抱えて、玄関先で立ちすくむ娘を車に押し込
んでから四時間。高速やレストランで、アキラは一人で喋り続けていた。

322 名前:【品評会作品】リムジン(2/5) ◆lxU5zXAveU 投稿日:2007/05/20(日) 18:57:20.94 ID:CdPFHYVL0
 元気がなくなっていくユミに何かしてやりたかった。出席日数が足りないことや、勉強については話さない。
ただ声が聞けて、話ができて、何かできたら良かった。
「空気が気持ちいいぞ。窓あけような」
 新鮮な空気が渦巻いた。湖から流れた霧が、細かい粒になって頬に触った。梅雨の前に来て良かった。青い樹
木の匂いがする。何度目か、アキラはまたユミを見た。
 ユミが、身を乗り出すようにして、窓から外へ手を伸ばしていた。湖と道のあいだに胡桃が枝を伸ばしてい
て、それに触れようとしていたのだろうか。乗り込んでから初めて自発的に動いたユミの姿に、アキラは目を奪
われる。
 車が大きく揺れた。気がつくと、道路が大蛇のようにのたうっていた。慌ててハンドルを安定させながら、窓
から身を乗り出したままバランスを崩したユミを掴んだ。ユミが窓にしがみついた。放り出されてしまう。また
大きく揺れた。タイヤが空転するような音がした。慌ててハンドルを切る。緑とアスファルトが縞模様になっ
た。衝撃。窓いっぱい、青みを帯びた水面が見えた。

 アキラは水に対抗した。ドアが動かない。ユミの腕を掴んで、叫んだ。「外に出るんだ」水流が全身をなだれ
落ちていく。両足が意識を持ったように、水の中で跳ねた。靴が重い。そうだ、靴を脱ぐんだ。本で読んだ。
両足を突っ張らせているユミから、重いスニーカーをもぎ取る。ユミを窓から外に出そうとするが、水は二人を
拒絶した。言葉が泡の音になり天井に溜まった。そこにユミを押し上げ、窓をすかして淀む湖底を見た。深い。
 ユミが激しい咳をしながら、座席の背を蹴っていた。アキラはユミに顔を近づけた。
「水がいっぱいになったら、外に出るんだ。いっぱい吸って、お父さんについてこい。少しずつ息を吐くんだ
ぞ」
 ユミが口をパクパクさせて、首を振った。「泳げな、い」
 アキラは思わず笑った。何年ぶりだ。お前の声を聞いたの、二年ぶりだよ。
「お父さんが引っ張ってやる」素早く吸って、潜った。一瞬はなれたユミの手が、アキラを探る。握ってやる
と、強く握り返してきた。もう十四歳なのに、まだ小さい。俺が守らないでどうする。アキラは窓枠から足を出
し、車体を蹴って外に出た。車がまだ沈んでいる。水流に引きずられながら、ユミを引き寄せた。絶対に離すも
のか。
 ユミは水を拒絶しながら、空気を求めていた。アキラは力づけるように手を握る。両耳から挟まれていくよう
な圧力で、目眩がした。ひと蹴りした足から、ぶるんとした振動が頭の先まで伝わってきた。ユミ。脈拍が皮膚
を揺るがして、ビートが体を支配する。酸素を求めて肺がくねった。駄目だ、俺も駄目かもしれない。
うるさいほどの鼓動が遠くなる。小さなノイズが静寂をつれて忍び寄ってきた。深くて温かい。

323 名前:【品評会作品】リムジン(3/5) ◆lxU5zXAveU 投稿日:2007/05/20(日) 18:58:29.05 ID:CdPFHYVL0
 気がつくと、窓に広がる水の風景を眺めていた。一面の青だ。子供の頃に宿題で読んだ絵本のような色だっ
た。
「久しぶり」声がして、向かいを見ると、革張りのソファに腰掛けた恰幅のいい中年男が笑っていた。やたら丸
くて、血色の良い頬をしている。ダブルボタンのスーツを着て、手には琥珀色の液体が入ったカットグラスを持
っていた。「オリンピック選手にはなれなかったな」
「誰だ?」
「せっかくのリムジンで迎えにきてやった友達を忘れたのか?」
 アキラは目の前で笑う男と、むかし沢にいく道で、親指を突き出しながら片手運転してた友達に似通った点が
あるかどうかを考えた。
「……お前、デブだったっけ?」
「いつもお前に合わせて、それらしい姿で付きあってるんだ。リムジンの乗り心地をいえよ」
「どこがタクシーだ」
 アキラは天井の照明を見て、男からカットグラスを受け取った。リムジンの中がどうなってるかなんて、今ま
で知らなかった。ぎゅうぎゅうと椅子が音を立てる。リムジンは水の底を進んでいた。銀色の魚が光っている。
「このリムジンは天国行きだぜ。お前を送り届けたら、俺の仕事も完了だ」
「どんな仕事だよ」
「守護天使だ。笑うな。見た目で気づけよ。沢で溺れかけるお前を、何度助けたと思ってるんだ」
 男は楽しそうだった。アキラはグラスの中身を味わってみる。高級酒が入っているかと思ったら、麦茶だっ
た。あれだけアキラとユミを苦しませた水は、リムジンには一滴も入ってこない。ユミはいない。「ユミは?」
「分からん」と男が答えた。「娘に恩寵は出なかった。まだ水の中だ」
「待ってくれ。ユミが助かってないなら、こんな所にいられない。せめてどうなったか見せろ」
 ドアの取っ手に手をかけると、男が腕を掴んだ。「お前は安らかに逝くんだ」
 アキラは腕を振り払った。ユミが気になる。絶対に守ると決めた。自分はもう死ぬはずだ。沢で溺れたときよ
り苦しかったから、もう駄目なんだと、体で知った。でもユミは違う。
「俺が死ぬまで苦しむ時間が、少し残ってるんだろ。俺を守ってんなら、最後まで守れ」
「また死に直すのか?」アキラは答えずに、取っ手を両手で引っ張った。動かない。両足を床に突っ張って、更
に引っ張った。大人になったはずなのに、腕も筋肉も頼りない。でもユミはもっと頼りないんだ。「俺は、レス
キュー隊になるんだ」アキラはウィンドウを殴った。
 男が悲しげに息を吐く。ドアに太った片足を掛けて、アキラを見た。「息を吐け。沢を思い出せ」
 男がドアを蹴った。アキラはドアにしがみついた両腕ごと、放り出された。青い奔流がアキラを飲み込む。

324 名前:【品評会作品】リムジン(4/5) ◆lxU5zXAveU 投稿日:2007/05/20(日) 18:59:22.34 ID:CdPFHYVL0
 水面の光がアキラの脳を侵食する。視界がせまい。黒いリングが反転した太陽のように浮かんでいた。きっと
レスキュー隊の浮き輪だ。手を伸ばそうとしたが、変化がなかった。まるで本当の自分は水状のアメーバで、ち
がう次元にいるようだった。体のどこにも接続していない。足をひと蹴り。動かない。圧倒的な重量だった水
が、今は柔らかい毛布のようにアキラを包んでいる。水中でもがいていたアキラは、体内で戦っていた。ユミが
見えない。助けたいのに、まるで体が動かない。こんなに動かない乗り物が許されるのだろうか。自転車だっ
て、初めて乗った時からちゃんと動いた。体が恨めしかった。なんて嫌な乗り物なんだ。
 強い力に、アキラの体が引きよせられた。狭い視界に、柔らかな髪がなびいて、優しげな顔が現れる。ユミ。
お前の方がずっと天使らしい。アキラは体の中で爆発した。ちょっとでいい。足さえひと掻きできたら。少しで
もどこかが動けば、体のエンジンに火が点く。
 ──吐け。
 頬を膨らませたユミが、ゆっくり首を振っていた。アキラの腕を抱え込み、懸命に足で水を掻いている。無理
だ。お父さんの力でも、この体は動かないんだ。泳ぐの得意だったはずなんだけどなあ。沢で溺れてから、いっ
ぱい練習したんだ。
 ──吐けば動く。
 もがくユミの膝が、アキラの胸をけった。鈍い点火。ブラックホールのような体の底で、肺が痙攣した。血を
満たした枝が全身で細かく震える。アキラは体の内側から殴りつけた。奇跡的に肺が動いた。大きな泡が、身を
くねらせながら体から出ていった。電気的な痙攣が、アキラの体を覚醒させる。足を震わせて、アキラは一歩蹴
りだした。初めて自転車のペダルをこいだときの快感を思い出した。もうひと蹴りだ。水面の黒いリングに向か
って、ユミを押し出す。腕を掴んだ小さな指を解いた。ユミがリングに向かって浮いていく。もうひと蹴り。小
さな手が浮き輪をつかむ。
 ユミの足が光の中で、元気よく暴れていた。こうして遠くから見ると、本当に小さい。


325 名前:【品評会作品】リムジン(5/5) ◆lxU5zXAveU 投稿日:2007/05/20(日) 19:00:31.91 ID:CdPFHYVL0


 アキラは、両腕に抱いた赤ん坊を思い出していた。いくら名前を呼んでも泣きやまなくて、最後は妻に取り上
げられてしまった。いつ聞いても、ユミの声は可愛い。こんなに胸をくすぐる音があるだろうか。
「お父さん、救急車が来るよ」
 がくん、と世界が揺れた。体のどこかを殴られているらしい。掃除機をかけるような音が頭の中で暴れまわっ
ている。フルスペクトラムの空が渦を巻いた。
「……お父さん」
 ユミが呼んでいる。こんな声で呼ばれるなら、何度でも溺れてやるとアキラは思った。誰か娘にタオルをかけ
てやってくれ。
 ユミの声が離れた。奇妙な色に輝く空を背景に、やたらに血色の良い顔が割り込んできた。「やっぱりリムジ
ンを呼んでやろうか?」見慣れた笑顔で、男が親指を立ててみせる。親指はやがて、救急隊の向こうに消えた。
「私はいいです。お父さんを助けてください! 助けて!」
 また体が重くなって、アキラは眠りに引きずり込まれていく。今度こそリムジンだ。暗くなる視界いっぱいに
ユミの顔が現れた。アキラの名前を呼んでいる。世界を揺るがす声だ。
 そういえば、どうしてユミという名前にしたか知っているか。本当はアユミにしたかったんだ。歩くと書いて
アユミ。男みたいだって、お母さんに怒られてユミにした。お父さん、沢で溺れた時に気がついたんだよ。自転
車よりもヘリコプターよりも、一番に乗りこなすのが難しいのは、自分の体なんだ。
 だから何ができるとか、何も持ってないとか、気にするな。お前には体がある。


【了】



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