【 空を回る車輪 】
◆lnn0k7u.nQ




243 名前:【品評会作品】空を回る車輪 1/5 ◆lnn0k7u.nQ 投稿日:2007/05/20(日) 13:13:11.74 ID:KCAtszbU0
 大変なことになりました。
 目の前に転がった死体を見ては、この事態の深刻さに胸が押し潰されそうになります。
 殺さなければ殺されていた、と自分を庇うことにより、先ほどから僕は上辺だけの冷静さをなんとか保とうとして
います。そして今、ペンを取ることで一時的に物事を整理して、落ち着くよう努めている次第です。
 母に殺されるかもしれないという恐怖感は昔からありました。悪いことをして怒られた後や、母の期待に添えなか
った時、僕を見る母の目は鋭く、そして冷えていました。そんな無表情の心の奥底で母が静かに押し殺していたのは、
僕に対する失望感や排斥願望だったと思います。
 ――今、うつ伏せに倒れた死体の顔部分から、血が流れ始めました。脈は確認していませんが、十中八九死んでい
るでしょう。生きていても虫の息、助かる可能性は皆無だと思われます。
 ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。さっきから動悸や吐き気が絶えず僕の胸を弄し続けています。
この感覚は、真夜中、死について考えて気分が悪くなるのと、どこか似ている気がします。
 ――本当に頭が混乱していて、何を書けばいいのかわかりません。これを読んでいる方はすでにご存知でしょうが、
リビングに倒れているのは僕の母です。僕が先ほど、撲殺しました。
 小さい頃に見たニュースを今でも覚えています。主婦が幼い我が子を絞殺した上、ゴミ袋にいれて川に流したとい
う事件。僕はリビングでその報道を聞いて、身も凍るような思いをしました。そして何気なく母の様子が気になって
背後を振り向いたのです。同じようにテレビを見ていた母の表情を見た時、僕は自分が殺されるかもしれないという
考えを初めて抱きました。母は大きく目を見開いて、口元を微かに上げていました。笑っていたのです。
 女手一つで僕を育ててきた母ですから、その苦悩とストレスは計り知れないものであったでしょう。僕がいなけれ
ば仕事に専念し、新しい夫を見つけて、再婚することもできたと思います。そう、僕がいたばかりに、母は辛い思い
をしてきたのです。だから、僕がいなければ……。
 母がいつか僕を殺すだろうという当て推量は、歳を重ねるとともに不安の割合を占めていきました。思い当たりの
ある出来事も、何度かありました。本当に不確定な要素なのですが、始めから疑いをかけていた僕には、母の行動全
てが冷徹な排斥運動に見えたのでした。
 少しばかり落ち着いてきたので、話を今日のことに戻そうと思います。
 夕方、僕は学校から家に疲れて帰ると、自分の部屋に鞄を放り込み、すぐさまリビングへ降りました。特に考えも
無く、居間でテレビを見る、それが習慣になっていたのです。 テレビのリモコンを探しているときに、机の上にあ
った一枚の紙が目に入り、僕はそれを手に取りました。見知った旅行会社の名前が飛び込み、それは母一人の旅行契
約書であることが判明しました。僕は旅行の話なんて一度も母から聞いていなかったので、とても驚きました。日付
を見ると来週でした。母が長期間僕を残して家を空けたことなど今までありませんでした。僕がいるせいで、旅行へ
行く機会など無かったのです。

244 名前:【品評会作品】空を回る車輪 2/5 ◆lnn0k7u.nQ 投稿日:2007/05/20(日) 13:14:07.83 ID:KCAtszbU0
 なんでこんな大事なことを黙っているのだろう。リモコンを探すのも忘れて僕は考えました。そして、さきほど自
分が思ったことにその答えがあるとわかったのです。
 ――僕がいるせいで。
 母はついに計画を実行するのだ。僕がいなければ、一人で旅行へ行ける。それを僕に伝える必要は無い。なぜなら
僕は死ぬのだから。出発を前に殺されるのだから。
 その考えに至った時、玄関から鍵を差し込む音が聞こえました。母が帰ってきたのです。
 僕はリビングを出て、玄関へ向かいました。足がその方向へ向かった理由を今となっては思い出せません。脳内で
は予期妄想だけが行われており、未来に映し出されたのは、母が包丁を持った姿でした。僕はただ怖かったのだと思
います。傘立てに刺さった金属バットを握り、母が驚いた表情で立ちすくんでいるところへ、僕は力を込めて振り下
ろしました。
 一撃目は感触からして、肩に当たったのだと思います。母は一瞬よろめいた後、リビングの方へ逃げ出したので、
僕もそれを追いかけました。体が勝手に動いていて、頭では何も考えていませんでした。
 母は台所へ駆け込むという判断を、一瞬の気後れで取り損ねました。僕がリビングへ入ると、母は窓の無い壁際に
しゃがみ込んでいたのです。
 その時、突然、人の声が聞こえました。ハッとして声のする方を見ると、テレビがついていました。足元を見下ろ
すと、僕がリモコンを踏んでいたのです。アナウンサーの声が部屋に響き、ちょうど今入ってきたニュースが読み上
げられました。どうやら福島で高校生が母親を殺したようです。今思うと、母も普段から僕に殺される不安を抱いて
いたかもしれません。
 リビングで追い詰められた母と同様に、僕も後戻りができない状態でした。「なんで……どうして……」と呟く母
は、怯えるように僕を見つめました。もうここで止めても、どうしようもないと判断して、僕は今度は外さぬように
と、しっかりバットを握り、大きく振りかぶりました。
 ――今、夜が明けようとしています。あれから何時間が経つのでしょうか。時折、思い出したようにペンを進めて
は、何十分もボーっとする、そんなことを繰り返しています。
 たくさんのことを考えました。母を殺した自分を受け入れられるようになったり、この先どのような苦難が待って
いるのかを想像してみたり、不思議なことにこの数時間で僕は過去を乗り越えて、新しい未来への希望を抱いていま
した。しかし、自分のしたことを思い返した時、そんな考えを持つことが到底許されえないという現実に直面し、僕
はまたしても苦悶するのです。
 全ては結局、僕の空回りだったのでした。

245 名前:【品評会作品】空を回る車輪 3/5 ◆lnn0k7u.nQ 投稿日:2007/05/20(日) 13:14:49.97 ID:KCAtszbU0
 何故、僕がこの文章を書き始めたのか。それは最初にも述べたとおり、自分を落ち着かせるためでした。けれども、
今では異なる意味を持って、この文章は成立しています。
 ――遺書。人を殺した者が遺書を書くだなんておこがましいことかもしれません。しかし、どうせ死ぬのなら事件
資料として少しでも役立てばいいと願い、これを書き残していきます。
 生きている僕に残された道は何通りもありますが、その中でおおよそ最も人間らしい高尚な道を、僕は選びたいと
思います。
                    二○○七年 五月二十日
                       植條 周平

 ◆

「……はい、そうです。では、よろしくお願いします」
 周平は、受話器を下ろすと、すぐさま玄関へ向かった。毎朝学校に行くときと同じ仕草で通学靴を履く。普段断続
的に行われている習慣に終わりが来る……。周平は寂しさを噛み締めて、家を飛び出した。
 シャッターを開けると、けたたましい音が清閑な住宅街に鳴り響いた。昇りかけの太陽はまだ顔を現していない。
周平は、長年乗りなれた自転車をガレージから取り出すと、まだ白みがかった空を見上げて、大きく深呼吸をした。
 家の中にはまだ母の死体が残されている。その処理は先ほど自ら電話で頼んだので心配ないだろう。数分もすれば
この家は取り囲まれ、母は搬送される。
 周平は、遠くでサイレンの音を聞いた。
 そろそろ行かなければならない。
 ペダルを踏み込んで大きく発進した相棒は、軽快な音を立てながら加速していく。事故防止のために入り組んだ道
を、風のようにすり抜けて、住宅街を飛び出した。
 頬を撫でる空気は冷たく、五月の下旬でも早朝はまだ涼しいことを教えてくれた。
 時間が時間なので外環を通る大きな道でも車は少なかった。たまに向かいから擦れ違う車は工業団地へ行くのだろ
うと周平は思った。
 周囲の景色を懐かしむように、そして焼き付けるように、周平は辺りを見渡しながら、平坦なアスファルトの上を
走った。電線の上に止まった鳩が胸を膨らまして低い声で鳴いている。すずめたちが屋根の上から上へと飛び回って
いる。夫婦が二人で仲良くランニングをしている。全ての風景がいとおしく、哀愁深く感じられた。

246 名前:【品評会作品】空を回る車輪 4/5 ◆lnn0k7u.nQ 投稿日:2007/05/20(日) 13:15:32.46 ID:KCAtszbU0
 ふと前方に視線を戻すと、パトカーが赤色灯を回しながら信号を左折してきていた。そして、あっという間に周平
の横を通り過ぎた。あのパトカーは自分の通報を受けて家に向かっているのだろう。周平は、決して振り返ってはな
らないと思った。後ろにはもう何も残してはいけないのだ。今更になって、過ぎ去っていくものを省みることは、こ
れからを生き行く者に対しての憧れでしかない。
 周平は、自分がこれから死に行く者だということを改めて実感した。そして、今はその目的に全身全霊を注ごうと
決意した。
 前傾姿勢を保ちながらペダルを目一杯踏み込むと、自転車はさらに加速を始めた。スピードを上げるごとに増す風
圧に耐えながら、周平は前方の進路を確認した。足の回転速度をそのままに、体を横へ傾けて、外環道路を山側へ直
角に曲がる。
 いよいよ最期の時が近づいていた。
 勢いを殺すことなく、急な上り坂をぐんぐんと上って行く。徐々に重くなっていくペダルを踏ん張りながら回し続
けていると、使い古した車体が悲鳴を挙げた。
「こん……ちく……しょー!」
 周平は、声を振り絞って気合いを入れた。背中からは大量の汗が流れ出ていた。
 この足の回転だけは何としても止められなかった。止めてしまうと、今自分を絶対的なる死へと突き動かしている
ものが、急に力を失ってしまう気がしたのだ。
 地面に対して体を垂直に伸ばし、ペダルに全体重をかけて、車輪を回した。右足が下りると、次は左足に力を込め
る。ほんの少しずつ、それでも確かに、自転車は進んでいた。
 何故それまでに死にたがっているのか。自問しても答えは返ってこなかった。ただ、母を殺してしまった後、周平
は何度も繰り返し考えたのだ。これから先、自分がどのような措置を取られ、どこへ連れて行かれ、どれほどの罰を
受け、いつ自由になれるのか。正確なことは分からなくても、大まかには想像がついた。そして、錆び付くよりは、
燃え尽きたいと思ったのだ。

247 名前:【品評会作品】空を回る車輪 5/5 ◆lnn0k7u.nQ 投稿日:2007/05/20(日) 13:16:24.77 ID:KCAtszbU0
 坂を上り終えた時、一筋の汗が頬を伝った。大きな壁をぶち破った気分だった。この先に続くのは緩やかな下り道
である。随所で崖が切り出しているために、カーブが多く、あまり知られてはいないが、危険度の高い道だ。
 太腿が張って、疲れはピークに達していた。しかし、ここまで来れば、後は突き進むだけであった。
 汗ばんだ手をシャツの裾で拭って、大げさに深呼吸をする。木々が風に揺れて、鳥たちのさえずりが聞こえた。残
った力を全て使い果たすべく、両足に力を込める。全速全身、自転車は最後の舞台に身を投じ始めた。
 周平は、この下り坂を何度か通ったことがあった。そのため、この坂に致命的な欠陥があることを知っていた。
上から一つ目の大きなカーブの箇所で、ガードレールが壊れて、一メートルほどの隙間を開けているのだ。そこは車
こそ通れないが、自転車なら余裕を持って抜けられる隙間だった。
 そして、その先は断崖絶壁である。
 風よりも速く坂を下っていく自転車。周平の心には、もはや迷いや躊躇など無かった。ここまでブレーキを一度も
握らなかったのも、周平の心境を表しているのだろう。
 一瞬だった。
 ガードレールの隙間を通り抜ける。同時にそれまで聞こえていた風を切る音が止み、空転する車輪の音だけが虚し
く耳に響いた。

 自分が今落ちているのだと気がついたのは、空が回っているためだった。体勢を崩したせいで、視界がぐわんぐわ
ん揺れていたので、空を見るのにも苦労した。
 雲が、遠く、なっていく。
 鳶が、遠くで、鳴いている。
 人間というのは、生み落とされた時から、『死』に向かって落下しているのかもしれない。飛び降り自殺は一種の
人生の縮図なのだ、と周平は考えた。
 風が全身を包み、世界に抱きしめられているような優しい感覚が、心に溢れていた。
 本当は数秒の出来事だったのだろうが、周平には最後のこの時間が、とても長いものに感じられた。
 自転車から体が離れて、地面に衝突した周平の体は、ねじ切れるほどの力量を受けて、全身が破壊された。数秒遅
れて地面に落ちた自転車は、その車輪を空に放り出した。それが一瞬、日輪に重なったかと思うと、またすぐに落ち
て行った。

 今日、一人の殺人犯が死んだ。

                                                 了



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