77 名前:No.19 考えるいし 1/5 ◇NA574TSAGA 投稿日:07/05/13 23:58:01 ID:jEMWqZX3
母よ。母なる海よ。
私は帰ってきた。長きにわたる地上での生活から、私は帰ってきたのだ。
懐かしい――人間ならば、そう言う場面だろうか?
しかし私はただの石。人間とは違う。
ゆえにこの感情が、果たして真に人間の「懐かしい」に当たるのか、それはわからない。またそれを確かめる手段もない。
まあそんな与太話はひとまず置いといて、とりあえずこう告げようと思う。
母なる海よ、ただいま。と――。
ところで、先ほどから私はあなたを「母なる海」と呼んでいる。だが正直に言えば、私は自分の生まれた場所など覚えてはいないのだ。
かつて一度でもここにいたことはあるのか。その頃に今のような「思考能力」があったのか。それすらも定かではない。
よって母なる海よ、あなたを「母」と呼ぶのは不適切かもしれない。
しかし身体は覚えている。
この海流の感触を。哺乳動物の鳴き声を。天から射すわずかな光を。
だから私は、確信する。
ここで自分は生まれたのだと。少なくとも、はるか昔に住んでいたのは間違いないと。
そしてある瞬間に地上へと投げ出され、風雨にさらされ、拾われ、出会い、別れ、――そして今、ここに戻ってきたのだ。
母なる海よ、少々時間をいただきたい。
地上での出来事を話すことをお許し願いたい。
私の声があなたに通じているのかも定かではない。事実、あなたの声は私には届いてこない。
けれど、話さずにはいられないのだ。
なぜ私がこのような身に合わぬ大きな袋に入れられ、捨てられるに至ったのかを――。
周囲に浮いているこれらの奇妙な物体は、いったい何なのか。
それについても最後に、お話しするとしよう。
78 名前:No.19 考えるいし 2/5 ◇NA574TSAGA 投稿日:07/05/13 23:59:07 ID:jEMWqZX3
そもそも石が意志を持つこと自体、おかしなことだとお思いかもしれない。
しかし石も自然の一部だ。感情を持つことが、どうしておかしなことだろうか?
人間の中には、草花に感情を見出す者も少なからずいるという。
そう。この世の全ての自然物は、感情を――より正確には「生」を持つものなのだ。そう私は信じている。
確かめたわけではない。私には他の石の声や草花の声、母なる海の声は聞こえない。
聞こえてくるのは実際に「音」として発せられる、人間など一部の動物の声のみだ。
彼らと私は、本質的に違うものなのかも知れない。それでも、"考える私"が存在することは揺るぎなき事実だった。
そしてふと気付いたときには、私はあの島の、あの砂浜に転がっていたのだ。
何もない、原始の砂浜。いつからそこにいたのかは、全くもって覚えていない。
とにかく私は物心の付いた頃から砂浜の上に転がって、打ち寄せる波と、高くそびえる空と、背後の荒野とに囲まれていた。
地平線に沈む太陽を、何度眺めたことだろうか。大きな波に、何度身を洗われたことだろうか。
たまに周りの石に話しかけてみるが、当然返事などは返ってこない。
その頃の私は孤独だった。多くの同類たちに囲まれつつも、私はなお孤独だったのである。
時がすぎて周囲の環境も変わり、荒野にはいつしか人間という生物が住まうようになった。
それでも変わりばえのしない、ただ地べたに転がっているだけの毎日。しかし、それはある日を境に一変することとなる。
太陽がさらに何千何万と沈んだのち、荒野がすっかり人間の土地となった頃、私はついに出会ったのだ。
生涯忘れえぬ、あの三人の人間と――。
ある日のこと、浜辺を散策していた一人の人間がふとこちらを見た。無精髭を生やした、汚らしい男。
そいつは私を持ち上げるとしばし観察し、そして何を思ったか、そのまま脇に抱えて持ち帰ってしまった。
家にたどり着くやいなや、男は家の奥に向かって叫んだ。
「母さん、いい形のを拾ってきたぞ!」
間もなくおぼつかない足取りで、「母さん」が奥から顔を出す。
「ああ、ちょうどいい大きさじゃ。こっちへ持ってきておくれ」
男はお世辞にも軽いとは言えないであろう私を抱え、駆け足で"母さん"の元へ。向かった先には、大きな容器があった。
容器の中には、小刻みにされた野菜が詰まっていた。男はその上に木製のふたをかぶせ、その上に私を置く。
「よかったよかった。これでまたお前さんに、美味い漬け物を食わせてやれる」
"母さん"曰く、漬け物というのは人間の作る食べ物の一種であり、私はそれを作るのに重要な役目を果たすという。
男は満面の笑みをたたえていた。漬け物は大好物だと、言わんばかりに。
79 名前:No.19 考えるいし 3/5 ◇NA574TSAGA 投稿日:07/05/14 00:01:02 ID:qTiV+8y3
同様に私も活気付いていた。なにしろ、それまで砂浜でただ呆けていただけの石ころが、大躍進した瞬間だったのだから。
私はひたすらに漬け物を漬け続けた。もっとも、作業の大半は"母さん"が担っていたのだが。
それでも、私を拾ってくれた人間が喜ぶ顔を見ると、何となく良い気分になった。
男もおいしそうに漬け物を毎日のように食べ続けた。そして食後にはいつも"母さん"に対し、こう告げる。
「おいしかったよ。母さんの作る漬け物は世界一だ!」
心の優しい男だった。"母さん"もそれを誇りに思っているようだったし、私も同感であった。
だが、そんな生活も長くは続かない。私が漬物石となった数年後、"母さん"が突然、病に倒れたのだ。
医者を目指していた男の懸命の看護もむなしく、"母さん"は間もなく死んでしまう。
その数日後には、残っていた最後の漬け物も底を尽きてしまった。
男は別離の悲しみにより、何も手に付かない様子だった。毎日漬け物容器と私の前で、泣き喚くばかり。
そうして私は再びただの石ころへと戻ってしまった。
それも前よりも悪い、戸棚の奥に幽閉され続けるだけの、ただの石ころへと――。
私が再び外に出られたのは、それからさらに数年後のことだった。
「――ありました。けっこう大きいんですね」
戸棚からゆっくりと私を取り出したのは、男ではなく、一人の人間の女。
男の妻として、つい半年前に迎え入れられていた女だった。
そのことは閉じこまれている間に声などで知っていた。しかし、実際に女を見たのはそれが初めてだった。
「本当に大丈夫か? いいか、母さんの味だぞ」
男の不安げな声。女は漬け物を漬けるために、私を取り出したようだった。
たどたどしい手つきで女は私を持ち上げる。"母さん"の手に似た、優しい手つき。
そしてゆっくりと、例の木製のふたに私を乗せる。
間もなく自らが漬け物を押さえつける、あの感覚が戻ってきた。
数日後、出来上がった漬け物が夕食に出された。
男は箸を手にとり、漬け物を一口食べる。そしてすぐに立ち上がると、女の頬を平手打ちにした。
「違うな、母さんの味じゃない。作り直せ」
呆然とする女に男はそう言い放つと、出来上がった漬け物を全て庭に捨ててしまった。
――ごめんよぉ、次こそはおいしく漬けてやるからなぁ……。
地面の漬け物に対してつぶやく男。その笑顔に、かつてのような優しさは見受けられなかった。
80 名前:No.19 考えるいし 4/5 ◇NA574TSAGA 投稿日:07/05/14 00:01:49 ID:qTiV+8y3
女は漬け物を漬け続けた。不器用な手つきで幾度となく野菜を刻み、容器に入れ、そしてふたをして私を乗せる。
そんなことを何度も繰り返すうちに、女の漬け物作りはだんだんと手馴れていった。
にもかかわらず女の漬け物は、男の満足を得る出来にはどうしてもならなかったのだ。
それもそのはず。男はあくまで「母さんの味」でなければ認めないと言い張っていたのである。
路傍の石ですら、一つとして同じものはない。人間や漬け物も同様に同じものはない。
にもかかわらず、男はひたすら無い物ねだりを続けていた。男が"それ"を強く求めるたびに、女の青あざは増えていく。
そしていつしか、漬け物云々に関係なく、日常的に暴力が横行するようになっていた。
「……そんなに私に、お母様の姿を重ねたいのですか?」
ある日、女はそう男に尋ねた。男は質問に答えることなく、直前に殴ったのとは反対側の頬を殴った。
女は何も言わずに壁際から立ち上がり、家の外へと向かった。そしてそのまま、帰ってくることはなかった。
漬け物が容器ごと壁に叩きつけられた。私は落下し、床にへこみを作った。
男はなおも容器を蹴り続け、解体。中からあふれ出した漬け物を素足で踏みにじった。
どうしてだ、と男はつぶやいた。どうしてこうもうまく行かないのか、と男は嘆いた。
次の日から男は、自分の手で漬け物を作り始めた。野菜を切る男の包丁捌きは、あまりにも不器用なものであった。
解剖学。かつて医術を学んでいた男が唯一得意としていたのが、その分野だったという。
人間と野菜とではわけが違うのかもしれないが、その肩書きが嘘であるかのような手さばきだった。
容器は古い土鍋で代用。無残に破壊された容器は、袋に入れられ部屋の片隅に置かれていた。
ふたをしようとするが、大きさが合わない。男は私を直接、野菜へと乗せた。
漬け物が完成するまでの数日間、男は飲まず食わずであった。
何も手に付かないといったようすで、ただ横になるだけ。"母さん"が死んだときと同じような光景だった。
漬け物が完成した。男は一口食べ、すぐに吐き出した。そして私は、容器の残骸と一緒の袋に放られた。
捨てられるのだな。と、男のうすら笑いを見て覚悟した。
結局、男がかつての姿を取り戻すことはなかった。そう確信した瞬間だった。
女を家に連れてきた頃、聞こえてきた男の声はどれも優しい響きをしていた。そう、あの漬け物をきっかけに、男は再び変わってしまったのだ。
私がいなくなりさえすれば、かつての男に戻れるかもしれない。
そんなことを考えていた、その時だった。
「……ただいま」
男の前に、出て行ったはずの女が再び姿を現したのは。
81 名前:No.19 考えるいし 5/5 ◇NA574TSAGA 投稿日:07/05/14 00:03:12 ID:qTiV+8y3
「何故、戻ってきた?」
男の問いに、女はしばしうつむいたまま沈黙。やがて顔を上げ、消え入りそうな声でつぶやいた。
「ごめんなさい。きっと満足のいくのを作ってみせるって言ってたのに」
女は以前、私がまだ戸棚に眠っていた頃に言っていた。無くなったお母様の漬け物の味を、きっと再現してみせると――。
「……いいや、もう良いんだ。自分で作ってみてわかったんだ。母さんの味は、母さんにしか出せないってな」
男はそう言って、私を袋から取り出した。
女が笑顔を見せようとすると、男はさらに言葉を続ける。
「――だからお前は、もう用済みだ」
そして男は、女の頭頂部へと私を振り下ろした。
――長くなってしまったが、以上で私が地上で遭遇した出来事の概要は終わりだ。
もうお分かりだろう。
そう。この袋に一緒くたにされて入っている、こま切れの物体こそが、その女のなれの果てである。
あの男により刃物で切り刻まれ、袋詰めにされ、そして重石である私とともに、母なる海へと還ってきた。
今私のすぐ横に浮いているのが、あの美しかった女の頭部だ。手首だ。胴体の一部だ。
噴き出した自身の血で、どれも真っ赤に染まってしまっている。それを真っ向から浴びた私の身体もまた然り、だ。
母なる海よ、しばし付きあわせてしまってすまなかった。以上で私の話したいことは全て終わった。
そろそろ私は、眠りに就くとしよう。
「眠り」といっても、人間のような疲れを取るための睡眠とは違う。
ただ、考えることをやめるだけだ。
考える意志を捨てた石は、ただの石ころに過ぎないのだろうが、それでもいい。
やはり、私は考えることに疲れているのかもしれない。
人間という生物と関わったわずかな時間は、良くも悪くも、考えることにあふれ過ぎていた。
それに母なる海よ――、私のような石ころ独りで過ごすには、あなたはあまりにも広すぎるのだ。
だから、今は眠ろう。
再び地を踏むその時まで……。